『継承』


日曜日。
青学テニス部では、恒例のランキング戦が行われていた。
ランキング戦にエントリーされた部員は勿論の事、そうでない者も、固唾を飲 んで勝負の行方を見守っていた。

ランキング戦を危なげなくクリアしたリョーマは、スコア表の前にできた 人だかりに見知った顔を見つけると、何気なく足を進めて彼らの傍へ向かった。
「あっ、リョーマくん!」
リョーマの姿に気付いたカチローは、些か慌てたような顔で声をかけてくる。
「おい、越前!大変だぞ!」
「…何が?」
「桃ちゃん先輩が……」
堀尾と水野の言葉に、リョーマは自分とは違うブロックの対戦表に視線を移す。
そこには、自分の良く知る先輩のレギュラー脱落を意味する、ふたつの黒星がつけられていた。


『桃くん…』
手塚の中で、は、レギュラージャージを脱いだ桃城を心配そうに見つめていた。
先日、手塚に見せて貰ったオーダー表を目にした時から、桃城の敗北を予 感していただったが、こうして改めて現実を目の当たりにすると、彼にどのよ うな言葉をかけてあげて良いのかすら、考えられないでいた。
『未だ、乾との対戦が残っている。ヤツの事はその後だ』
『──冷たい言い方。その原因作った張本人が、よくもいけしゃあしゃあと 言えたもんだね』
『現在のウチの選手層では、1名脱落は当たり前の事だ。今回それが、たまたま 桃城だったに過ぎない』
『その割には、随分と手抜きで勝利してなかった?それって、桃くんにすっげー 失礼な事だと思うんだけど』

桃城の事を気に入っているとしては、手塚の彼への態度が不満らしい。
畳み掛けるようなの非難に、手塚は僅かに言葉を詰まらせた。
『単に勝敗を喫すのだけが、ランキング戦じゃないよ。例えレギュラーになれ なかったとしても、自分の仲間や後輩が、ひと月の間にどれだけ成長したのか を見届けるのも、部長として大切な事じゃないか』
『…理想論だけでは、これから先の大会は勝ち残れない。現実の厳しさを知らし めるのも、上の人間としての努めだ』
『何だよ、えっらそーに!後輩にろくなフォローも出来ない、朴念仁部長の手塚く んに言われたくないよ!』
『俺とお前の方針は違う!余計な口を挟むなといつも言ってるだろう!』

のペースに巻き込まれた手塚は、いつしか感情を昂ぶらせながら彼に 反発していた。

「…何だか、静かに白熱しているようにも見えるけど、そろそろ始めないか?」
そんな彼らに水をさしたのは、ウォーミングをすませた乾だった。
桃城をはじめ、2戦目も勝ち取った乾は、この時点でレギュラー復帰が確定となっていた。
乾に気付いた手塚は、まだ意識の裏で不平を漏らしているを無視すると、彼に向き直った。
「…磨いていたのは、データの技術だけではなかったようだな」
「ちょっと上を目指してみたくなってね」
乾はコートに進むと、手の中のボールを数回転がせる。
普段の部活ではあまり考えられないカードの行方を見守ろうと、早くもコートの 周囲には不二や菊丸をはじめ、他の部員たちも集まってきていた。


「プレイ!」
審判役の大石の声で、手塚と乾の試合は始められた。
長身の乾と、彼ほどではないが大柄な部類に入る手塚の勝負の駆け引きに、ギャ ラリーは思わず感歎のため息を漏らす。
「流石は、青学ナンバー3。この試合、どっちが勝つんだろうな?」
「おい、いくら何でもそれはないだろう。乾先輩が強いっつっても、手塚 部長には…」
同級生の林の言葉に、手塚の信奉者でもある荒井は、些かムキになりながら返す。
だが、突如起こったどよめきに、ふたりは弾かれたようにコートに視線を移した。
そこには、手塚の放ったドロップショットを、正確なカウンターで返した乾の姿 があった。
「…乾、完璧に手塚のショットを読んでたね」
「あにゃ〜…これって、ひょっとすると大番狂わせもあるかも?」
不二たちのコメントを背に受けながら、乾はネットを挟んで対峙する手塚の表情を 観察する。
「──そう、その顔」
「?」
自分のデータ通りの手塚の反応に、乾は無意識に口角を上げた。
「手塚。お前が点を入れられた時は、いつもそうやって目が細められるんだ」
「……」
『さ、貞治さん…何てマニアックな……』
不気味なほど的確な乾の指摘に、手塚は益々眉根を寄せ、は半分呆れながらも感心してしまう。
青学一のデータマンによる言葉攻めで、更に騒然となった周囲を余所に、乾は 声のトーンを落とすと、話を続けた。
「この間、の手がかりに繋がるかも知れない情報を掴んだよ」
「何…?」
「4年前…青春台の繁華街で起こった、通り魔事件。加害者が未成年だという事で、 あまり公にはされなかったが…あの事件には、どうやら 裏があるらしいな」
小声で伝えられた爆弾に、手塚とは、反射的に身構えた。
「俺も…あの事件のことは、何となくだが憶えている。多数の怪我人を出した のまでは知っていたが、まさか死……」
「──乾!」
淡々と言葉を紡いでいた乾の舌を、手塚の鋭い叱責が止めた。
「今は、勝負の最中だ。それに、の前で軽はずみな発言をするのは…!」
「俺は、大真面目だよ。の過去を知る事は、彼を現世に呼び出した人物を探すのに、最も近道だと 思っている」
眼鏡を片手で直しながら、乾は再び舌を動かす。
「それに、を呼び出した人物が判れば、手塚、お前も不自由な今の状態から抜け られる。決して、悪い事ではないだろう?」
乾の言葉は、確かに正論である。
しかし、先日の隠された過去と心の叫びを知ってしまった手塚としては、いたずら に彼を苛(さいな)むような真似は、したくない。
例えそれが、の意識と同調しかかっている所為だったとしても、手塚には死者に鞭 打つような事は、出来ないのである。

『…貞治さん。今はもっと、大切な事があるだろう?』
口篭もってしまった手塚に代わって、の意識が乾に問い掛けた。
「俺にとっては、どちらも大切だよ。お前だって、いつまでも手塚に憑依した ままという訳にはいかないだろう?」
『それは、判ってるよ。だけど…!』
「ずっと不思議だったんだ。どうして、あそこまでの実績を出していたの存在が、青学(ウチ)だけでなく、テニス界にすらロクに記録が 残っていないのか」

このひと月で、という人物が、青学テニス部にとってどれほどの存在だったのか、 乾は自分なりに熟知したつもりであった。
もしも、が生存していれば、青学に限らず、間違いなく中学テニス界は今以上 の発展を遂げていただろう。
いくら鬼籍に入ったとはいえ、何故僅か4年の間に、まるで最初から彼の存在が ないような扱いを受けているのか。
──おそらく答えは、が死んだ4年前にある。
明確な根拠はないにしろ、乾は自分の中でそう感じていたのだ。

『貞治さん…お願いだから、これ以上俺の事を探るのはやめて』
「どういう意味だい?」
『君の為に言ってるんだ。その時が来たら、ちゃんと説明するか ら、それまでは……』
自分の死によって、周囲にどれほどの苦痛を与えてしまったか、はこれまでにも充分思い知らされていた。
そして、これ以上自分の為に誰かが傷付く事など、耐えられないのである。
「それを待っている間に、手塚に何かあったら、お前はどうするつもりだ?」
一番痛い所を突かれ、は思わず息を呑んだ。
「一体、そこまでして隠す理由は何だい?本当に手塚の為を思うなら、 お前の知っている事を話してくれてもいいんじゃないのか?」
『貞治さ…』
「いい加減にしろ」
今にも泣きそうなの声を聞いて、手塚は試合の時以上に厳しい表情で乾に凄んだ。
「今は試合中、と言った筈だ」
「手塚…」
「それと、の口から聞かない限り構うな。無理やり聞き出して、何をするつ もりだ?」
「……やはり、お前は何か知っているんだな」
乾の質問に、手塚は答えずにラケットを握り直す。
「──その答えが知りたければ、俺を倒す事だ」
全身に闘志をみなぎらせた手塚に、乾は僅かに狼狽した。


放課後。
手塚が部誌をまとめ終えた頃には、外はもう夕闇に包まれていた。
いつもは鍵当番の大石が、今日は用事で先に帰ったので、手塚は大石から鍵を 預かっていた。
窓やロッカーの点検を終えると、バッグとケースを右肩に下げながら部室の ドアを開ける。
「やあ」
すると、そこには学生服姿の乾が立っていた。
「……帰ったのではなかったのか」
「少し、話がしたくてね」
の事なら、もう構わない約束だぞ」
「……判ってるよ。ただ、ちょっと意外に思っただけだ。お前が、誰かにそ こまで執着するなんてね」

あの後。
半分鬼神と化した手塚によって、乾のデータテニスは完全に圧倒されてしまった。
理屈では言い表せない彼の力に、悔しくも自分はねじ伏せられたのである。
「…妬いていたのかも知れないな」
「何だと?」
予想だにしなかった科白を聞いて、手塚は目を瞬かせる。
「俺たちですら、お前には中々近寄りがたい時があるのに…どうして は、ここまで手塚の中へ入っていく事が出来るのか、と。俺は、 の事が、少し羨ましく思えたんだ」
「乾…」
冗談交じりの口調だが、乾の表情は何処となく真剣に見えた。
眼鏡越しに、乾の瞳を見据えたは、心の中で手塚に呼びかけると、意識を交代した。
本来の手塚よりも髪と瞳の色が薄くなったのを見て、乾はが出て来た事に気付いた。
…」
「貞治さんの言う通りだよね」
「?」
「俺の所為で、手塚くんやみんなに迷惑をかけておきながら…理由も告 げずにただ『構うな』なんて、ムシが良すぎるよね」
『…!』
手塚の制止を無視すると、は歩を進めて乾の正面に立った。
「いつか、何もかも話せる日が来るといいんだけど…今は、まだ許し て欲しい。でも、その理由だけは教えるから……貞治さん、手を貸して」
言われるまま、乾はの前に手を出す。
すると、乾の脳裏に膨大な記憶が流れ込んできた。
繁華街の石畳に放り出されたラケット。
泣き叫ぶ子供。凶刃に倒れた人影。
そして、死してもなお、少年や周囲に降りかかった災いとは。

「──っ!」

意識に焼きついた衝撃的な映像に、乾は無防備な声を上げると手を 振り払う。
弾かれたように視線を動かすと、そこには、手を振り払われた が、無言のまま涙を零していた。
苦渋の決断の末、貴重な情報を教えてくれたに、最低な仕打ちをしてしまった事を、乾は痛烈に後悔する。
踵を返して立ち去ろうとするを、乾は慌てて引き止めた。
「──すまない」
「……」
「俺が軽率だった。謝って済む問題じゃないけど…すまない」
やがて、声を噛み殺して泣き始めたの身体を、乾はそっと支えてやる。
そのまま暫しの時が流れたが、ふと肩に載せられた重みがなく なったかと思いきや、乾は自分の左頬に激痛を覚えた。
「…お前らしくもないな」
「利き手でなかっただけ、有難いと思え」
乾を張り飛ばした右手を引っ込めると、手塚は不機嫌な表情を隠す事 無く、大股に去っていく。
「安心しろよ。の事は、本人の説明があるまでは、決して口外しない」
「当たり前だ!今度、今日のような真似をしたら、ただではおかん!」
「それは、どちらについてだい?」
手塚の反応に、乾はわざと揶揄するように返す。
「どちらもだ!…俺では、を抱きしめる事は出来ないのに……!」


顔だけ振り返った手塚の眉間と、消え入るような語尾に、乾は小さく肩を竦める。
そして、夕日に伸びる彼の影を見送りながら、乾は「やっぱり、お前にも妬 けるな」と呟いた。



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