『継承』


西日が傾いた頃から、徐々に覆い始めていた雨雲が、夜の帳と共に、すっか り空を包み込んでいた。
「…こりゃ、ひと雨来るかもしれねぇな。おい、リョーマ。いつまでもゲ ームやってねぇで、部屋の窓を閉めて来い」
軽く夜空を仰いだ後で、越前南次郎は、息子のリョーマに用事を言いつけた。
「この暑いのに?」
「もうすぐ雨が降る。日本の梅雨は蒸しやがるから、開 けていると、かえって熱気が入ってたまらねぇんだ」
「ふーん」
気のない返事をしながらリョーマは立ち上がると、廊下を渡って縁側の窓 を閉めにかかる。
確かに、この様子じゃ雨が降りそうだ、と頭の中で考えていると、外 からけたたましいほどの自転車のベルが聞こえてきた。
「……?」
雨に降られないように、家路を急いでいるのかと思ったが、段々と自転車の 音が近づいてくるにつれて、リョーマは、ある種の予感めいたものを覚えた。
「まさか、この自転車って……」
否や、物凄い勢いで年代物の自転車が、越前家の庭先に飛び込んできた。


「お願い!手塚くんを助けてよぉ!」

半ば放り出すように自転車から降りてきたは、 涙で顔をくしゃくしゃにさせながら、南次郎に懇願した。
ひとしきり説明を聞いた後で、南次郎は軽く肩を竦めると、 を宥めにかかった。
「落ち着け。遅かれ早かれ起こった事だ。むしろ、ここまで何の異常も なかった方が驚きだぜ。流石は部長くん。大した精神力だなあ」
「のん気な事言ってんじゃねぇよ!このままじゃ手塚くんが!」
「わかった、わかった。…どれ」
飄々とかわしながら、南次郎はの肩に手を載せると、何かを探るように凝視する。
「……フン、大丈夫だ。長いこと、お前さんの意識が入り込んでるから、 部長くんの心身のバランスが崩れただけだ。この程度なら、少し休 めば直ぐ治る」
「よかった…じゃあ俺、今から手塚くんと交代するよ」
「──ちょっと待て。、お前さんに訊きたい事がある」
「え…?」
意外な言葉に、は涙を止めて南次郎の顔を見る。
「……いっけね。タバコ切らしちまってら。おぅ、青少年。コンビニま でひとっ走りいって、買って来いや」
「えー?もうすぐ雨が降るのに?」
「心配なら、傘持ってきゃいいだろう。お前も、何か好きなモン買って こい。釣りは、お駄賃だ」
「……うぃーす」
いつもより余分に紙幣を渡されたリョーマは、肯定の返事と共に外に出かけていった。


「……ドチビを追い出したのは、話を聞かせない為?」
暫しの沈黙の後、は切り出した。
「まあな。お前さんも、その方がいいだろう」
人の食った顔でそう尋ね返されて、は少しだけ表情を硬くさせる。
南次郎は、棚から新しいタバコを取り出すと、ゆっくりと火を点けた。
「お前さんの事…ちょっとばかし、調べさせて貰ったぜ。勿論、4年前の 事もな」
「…!」
「4年前に、青春台で起こった通り魔事件。……お前さん が巻き込まれた事件だ」
南次郎の言葉に、は唇を噛み締めた。

4年前。麻薬常習者による傷害事件が、白昼の繁華街を震撼させた。
重傷・軽傷合わせて多数の被害者を出したその事件は、加害者が未成年という 事で、詳細は公表されずにいたが、その裏で、ひとりの少年の死が隠蔽 されるという、大変理不尽な行為があったのだ。

「加害者の父親が、裏で色々と手を回したらしいな。…お前さん の家族だけじゃなく、竜崎のババアや青学テニス部にも圧力をかけたって 聞いたぜ?」
「……俺の事を公にしたら、どうなるか判らないって、脅してきた んだ。スミレちゃんは最後まで頑張っ てくれたんだけど、あいつらの前では、どうしようもなかった……」
の死をきっかけに、青学テニス部は、一時崩壊の危機にまで陥った。
その後、残ったメンバーでどうにか持ち 直したのだが、事件のしこりは、未だに当時の部員たちの心に刻み込 まれたままなのだ。

「──これを知った時、正直俺は、お前が本当は4年前に化けて出てきた のかと思ったぞ。あんだけの事をされりゃ、相手を自分と同じ目に遭わせてやりたい って考えても、おかしくはないからな」
煙を吐き出しながら、南次郎は視線を床に落としたを眺める。
「でも、お前はそれをしなかった。いいコだな、ホントに」
「……俺は、いいコなんかじゃないよ」
顔を上げたは、意を決したように口を開いた。
「本当は俺、はじめは『幽霊になって復讐してやろう』って思ってたもん。俺だけじ ゃなくて、大切なみんなを苦しめたあいつらを、許せなかったから。 でも……」
唇を震わせるの目から、新たな涙が頬を伝う。
それは、普段の彼からは想像出来ない、感情を無理やり押し込めたような、 哀しい表情だった。
「でも俺は…パパとママが好きだから…周りからどんなに酷い事をされても、 一切の恨み言を口にしなかったパパたちを、誇りに思っていたから……!」
……」
「俺よりも…残されたパパたちやみんなの方が、ずっと辛いの判ってたか ら…だから…だから……!」
堪え切れずに嗚咽を漏らし始めたの頭を、南次郎はやさしく撫ぜた。
「……お前さんは、やっぱりいいコだよ。こないだの法事で判ったけど、 お前の家、ここからそんなに離れてないだろ?」
「…っ……」
「本当なら、とーちゃんかーちゃんに会いたいだろうに、お前は少しも近寄 ろうとしなかった。部長くんやみんなの事を、そこまで思いやれるヤツが、 いいコじゃない訳、ないだろうが」
優しく諭す南次郎の声に、次第にの嗚咽は、大きな泣き声へと変わっていく。

同時に、外では降り始めた雨が、段々とその勢いを増していった。


「──。前にも言ったが、お前を呼んだヤツは、当時青学に関係していた 人物だと思う」
ひとしきり時間を経て、落ち着きを取り戻したに、南次郎は声をかける。
「だが、暫くは部長くんの体調を整える為にも、自重した方がいいな。丁度、青 学じゃもうすぐランキング戦もあるし…・・・」
「手塚くんは、本当に大丈夫なの?何なら俺、もういいから……」

『今帰った所で、お前を呼んだ人間を捜し当てない限り、また呼び戻さ れる可能性がある。その度に、俺に乗り移られても迷惑だ』

「──手塚くん!気が付いたんだね!?良かった!」
『ああ、つい今しがたな。迷惑をかけたな』
脳裏に響いた手塚の声に、は表情を明るくさせた。
「おー、目が醒めたか。だが、油断は禁物だからな。一応コレ、もってけや」
言いながら、南次郎は真新しいリストバンドを、に手渡した。
「フロや寝る時以外は、出来るだけ身に着けてろよ。それで、部長くんの負担は だいぶ減る筈だ」
リストバンドの内側をめくると、何やら隠しポケットのようなものがついていた。
見ると、中には透き通った水晶の勾玉が、ひとつ入っている。
「ま、気休めだけどな。万が一、その水晶が濁り出したら、直ぐに俺んトコ来 いよ」
「有難う、おっさん」
「だから俺は、まだ若いと言ってるだろう。……、ちょっとそのリストバンド着けてみな」
「…え?うん」
南次郎の言う通り、は水晶の入ったリストバンドを、左の手首にはめる。
そんなの様子を確認すると、南次郎はもう一度呼びかけた。

「なに?」
振り向いたの額に、南次郎の右手が載せられた瞬間、彼の身体は突然硬直した。
「さて…部長くん。お前さんにも話がある。今なら、の意識は眠っているから、あいつに話を聞かれる事はない。 出てきてくれないか?」
口元を引き締めると、南次郎は低い声でゆっくりと呼びかけた。
ぴくり、と身体が震えた後で、手塚の瞳に意識が宿る。

「俺との話、聞いてただろ?」
「…はい」
南次郎の問いに、手塚は小さく首肯すると、眉間に皺を寄せた。
嘘が吐けない少年の返事に、南次郎は小さく苦笑しながら言葉を続けた。
が一緒にいる事で、お前さんにも何らかの影響が出ている事は否めない。 いいか、必要以上の同情はするな」
「……」
「話を聞いていたなら、どうしての経歴が、謎に包まれていたのかも判ったな。……だがな」
南次郎は一旦言葉を切ると、手塚に顔を寄せる。
「所詮、は過去の人間だ。そんなあいつに、現在(いま)を生きているお前さ んがどうこうしてやれる事なんざ、出来ないからだ」
「……それは、の過去にも目を瞑れという事ですか」
「そうだ」
あっさりとした即答に、手塚の眉がつり上がった。
「お前さんが騒ぎ立てた所で、適当に揉み消されちまうのがオチだよ。 現に、あの竜崎のババアですら無理だったんだからな」
「それでは、はどうなるんですか!?」
らしからぬ大声を上げると、手塚は逆に南次郎に詰め寄った。
「俺には出来ません!あんな理不尽な仕打ちを受けたを、放っておくだなんて…絶対に出来ません!」
「だから、そうやっての境遇を嘆く暇があったら、早くあいつを呼び出したヤ ツを、見つけてやるんだ」
ぴしりと言い捨てられて、手塚は思わず動きを止める。
「お前さんが、に同情すればするほど、意識の癒着は進んでいく。今日の事も、 お前さんがに余計な同情を寄せていたから、拍車がかかったんだ」
「でも、俺は…っ」
「仮にお前さんが望んだとしても、がそんなモン喜ぶと思ってんのか?あいつは、死んでも自 分より他の誰かを思いやるヤツだ。そんなに、今のお前さんの思っている事は、あいつの為だと言えるのか?」
手塚に口を挟ませる隙を与えずに、南次郎は畳み掛けるように続けた。
「あいつの事を思うな、とは言わない。でも、それに捕らわれすぎて自分を 見失うようなら、悪い事は言わんから、を解放しろ。…どうなんだ?」
南次郎の言葉に、手塚は無言で首を振る。
「俺は…と、手がかりを見つける約束をしました。だから……」
そう言って俯いた手塚は、やがて肩を震わせると、畳の上にひと粒の涙 を落とした。
南次郎は、そんな手塚の背を、優しく数回叩く。
「……お前さんも辛ぇよな。気持ちは判るぜ」
「いいえ…いいえ。俺より辛いのは、の方です……」
「お前ら、本当にいいコだよ。ったく、ウチの倅に爪の垢でも煎じ て飲ませてやりたいぜ……」
南次郎の腕の中で、手塚は自分の中で眠るを想い、嗚咽を繰り返していた。


「手塚くん。本当にもう大丈夫なの?」
『ああ。越前の父親がくれた水晶のおかげで、随分と楽になった』
夜中。
帰宅したと手塚は、自室で明日の準備をしていた。
互いに、リョーマの家であった事を無意識に隠すように、それでも相手 を思いやりながら、会話を続けていた。
「…あ。ここにあるのって、今度のランキング戦のオーダー?」
手塚の机上にあった、自分もかつて馴染みのあった用紙を見つけたは、手塚に問い掛ける。
『そうだ。そろそろ清書をしなくてはな』
「ちょっと見てもいい?へー。手塚くんのブロックは貞治さんと……」
無造作に置かれた用紙をまとめていたの動きが、ふと止まった。
「……これは、彼にとってはヘビーかもね」
『だが、いつかは越えなければならない試練だ。この判断が 、吉と出るか凶と出るか…すべては、あいつ次第だと思う』
「…そうだね」
手塚の言葉に頷きながら、は窓から夜空を見上げる。
だが、どんよりとした雨雲で覆われた空には、ひと粒の光も窺う事は 出来なかった。


「…この雨は、明日も続くかも知れないな。練習メニューを変える必要 があるか」

未だ降り続けている雨を一瞥すると、乾はメニューのファイルに、別に 記しておいた紙を挟み込んだ。
その後で、ノートパソコンに纏めておいたデータを整理すると、イン ターネットにアクセスする。
そのまま、何気なくネットサーフィンを続けていた乾の目に、とある掲 示板が飛び込んできた。
「知られざる都内の犯罪白書」と題されたその掲示板には、眉唾物の情 報が寄せられていた。
その中で、『××区青春台の犯罪』というコンテンツを見つけた乾は、 好奇心にかられてクリックしてみる。



284:名なしの都民さん
そういや青春台って、昔なんか物騒な事件起こんなかったっけ?

285:通りすがりの名探偵
>>284 あった、あった。あれだろ?確か白昼の繁華街で、 ヤク中の未成年が刃物振り回したってヤツ。

286:名なしの都民さん
そんなのあったんだ?少年法を楯にやりたい放題のヤツって、本当に困るよねぇ〜


噂の出所の怪しい書き込みも少なくないので、乾は話半分で、画面をスクロールさせていく。
だが、ある書き込みを目にした瞬間、眼鏡の奥に隠れた瞳が、訝しげに細められた。

311:名なしの都民さん
新聞には発表されてなかったけど、その事件で死んだヤツいなかった?
何でも、噂じゃ都内有数のテニス強豪校の部員だったとか。
俺も、聞いただけだから詳しくは判んないけど……




ブラウザの「戻る」でお戻り下さい。