『継承』


「も〜ぉムカついた!黄金ペア解散にゃ!」
「英二がそう言うんなら、仕方ないな」
売り言葉に買い言葉、といったふうに、菊丸の啖呵に、大石は憮然とし た表情で切り返した。
明らかに尋常でない雰囲気に、他の青学テニス部員たちは、ハラハラし ながら事の成り行きを見守っている。
「お、おい、誰か止めなくていいのかよ?」
「どうやって?それにしても、おしどり夫婦同然の先輩たちが、あそ こまで険悪になるなんてなあ…」
「そもそも、コレの原因って……」
誰かの呟きに、部員たちは、相変わらずの腕組み姿勢でコートを見守 っている青学部長に、こっそりと視線を送った。


『…ねぇ。ここまでの事態になるって、予想してた?』
『…』
の呼びかけに、手塚は無言で地面を見下ろす。
『ああ見えて桃くん、繊細な所もあるんだよ?だから、ちゃんと フォローした方がいいって、言ったのに』
『……無断欠席は、部員として許される事ではない』
『それで、桃くんを処分した暁には、ただじゃおかないよ。退部届 が出ていない限り、桃くんは大切な部員なんだから』
ランキング戦から今日で3日目。
そして、レギュラー落ちをした桃城が、部活を無断で休んで3日目 でもあった。
ムードメーカーでもある桃城の不在は、青学テニス部に不穏な空気を与 えていた。
先ほども、シャツを裏返しで着ていたのを揶揄した菊丸を、らしくも なく声を荒げた大石が、突き飛ばした事が原因で喧嘩になったのだ。

『部長なら、ランキング戦のオーダーを作った時点で、ある程度の結果は 判ってたでしょう?確かに、無欠は桃くんが悪いけど、何もしなかった手 塚くんにも、それなりの責任はあるよ』
『……』
『それとも、手塚くんは桃くんを見捨てる気で、あんなオーダーを組んだ訳?』
『──違う!そんな筈ないだろう!』
『なら、さっさと桃くんを迎えに行くなり、連絡するなりしなよ!本当に桃 くんが戻ってこなかったら、どーするんだよ!?』
の檄に、手塚は困惑気味に眉を顰めた。
『……俺だって、桃城を信じている』
『手塚くん…』
『だが、迎えに行った所で、桃城が素直に俺の言う事を聞くと思うか?間 接的とはいえ、ヤツの挫折の原因となった俺を……』
手塚とて、傍観者となっていたつもりはない。
壁にぶつかった桃城が、立ち直って青学テニス部に戻ってくるのを、密か に待っていたのである。
だが、桃城の無断欠席に加えて、僅か数日の間でテニス部にここまで不穏 な空気が流れた事に、手塚自身どうすれば良いのか、判らないでいたのだ。
『その気持ちも判るけど…でも、ここまで深刻になっている以上、 悠長に構えている場合じゃないよ!』
『……』
『俺、ヤだよ。こんな事で、テニス部が崩壊するなんて…みんなに、ま たあんな想いさせるなんて、絶対にヤだからね!』
『「また」…?』
手塚の反応に、は些か慌てたように口を噤んだ。
『とにかく!手塚くんも、桃くんが心配なんだよね?だったら、俺が迎え に行く!それならいいでしょ!?』
今にも意識を支配せんとばかりに、が手塚を急き立てる。
『──
『この期に及んで、何!?』
『…桃城を頼む』
『手塚くん…』
意識の交代を終えた手塚の真剣な声に、は力強く頷いた。


「よぉ。もうこの辺で休憩しようぜ」
ストリート場のコートの一角。
長時間のラリーの末、疲れた声がネットの向こうから聞こえてきた。
相手の疲労した表情を見て、桃城は手を止めると、短く息を吐いた。
偶然居合わせた玉林中の彼らに、無理を言ってラリーに付き合わせたのは、 自分である。
桃城は、短く礼を言って彼らと別れると、汗を拭くためにベンチへと足 を向けた。
部活を無断で休んで、今日で3日目。
どんなに身体を動かしても、一向に晴れない気分に桃城は、改めてもう一度息を吐く。
「物足りねーな、物足りねーよ……」
ランキング戦のオーダーを見た瞬間、ある種の驚愕と絶望に支配された自分がいた。
生半可な気持ちでかかれる相手ではない、と判っていながら、試合前から 既に及び腰になっていたのだ。
勝負に負ける前から、自分は気持ちで負けていた。
様々な感情が渦巻く中、自分はこんなにも弱い人間だったのか、と情けなくなってし まう。

と、

「コラっ!そんな所で秘密の特訓している暇があったら、部活に出なさーい!」

桃城の感傷を無遠慮に吹き飛ばす声が、背後からした。
振り返ると、今一番会いたくない人物の姿が見えた。
「部長…?いや、さんか」
「エヘヘ、桃くんみーっけ♪」
手塚とは少々異なる外見と、彼とはまるで異なる雰囲気に、桃城は僅かに 緊張を解くと、先日一緒にここを訪れた時の格好で、こちらへ歩み寄って くるに視線を移す。
「何の用っスか?」
「決まってるじゃん。桃くんを迎えに来たの」
「……部長の差し金っスか」
些か淀んだ声で続けられた質問に、手塚は意識の裏で表情を曇らせる。
そんな手塚に気付いてか、は努めて明るい声で答えた。
「俺が勝手にここへ来たんだよ。誰かさんが無断で部活を休む もんだから、ちょっと今、テニス部がゴタゴタしちゃってね」
「……」
「なあに?たかが1回、レギュラー落ちしたくらいで、なさけないなあ〜」
率直なの揶揄に、桃城は、彼にしては珍しくあからさまに 不機嫌な顔を作る。
「そりゃ、レギュラー落ちした事なんかない部長やさんに、俺の気持ちなんか判らないっスよ」
「違うよ。たった1回しかレギュラー落ちした事ないヤツが、この世の終わ りみたいな顔されるの、個人的にムカつくから言ってんの」
「…え?」
「だって俺、現役時代に3回レギュラー落ちしたから」
指で3の字を作るに、桃城は毒気を抜かれたように目を丸くさせた。


「俺がいた頃は、8名の枠を12人のレギュラー候補者で争ってたの。 だから、毎回ランキング戦って、格闘技のセメントマッチ並に迫力あったんだよ」
コートから壁際へと移動したは、足元に転がるテニスボールを拾い上げると、背後の 桃城を振り返った。
さんは…どうやって3度も落ちたんスか?」
「うーんとね。まずはじめは1年の冬。3年引退の後で、どうにかレギュラーの座を ゲットしたんだけど、直ぐに、2年の先輩に取り返されちゃったの」
上空に放り投げたボールを受け取りながら、は淡々と質問に答える。
「2回目は2年の関東大会前。…あ、ちょうど今の桃くんと一緒だね」
そう言って笑うに、つい桃城もつられて苦笑を返した。
「それで、3回目は?」
「……誰にも言わないって、約束してくれる?」
「?」
突然元気のなくなった声に、桃城が小首をかしげていると、 上目遣いにこちらを見つめてくるの必死な顔にぶつかった。
「俺が、最後にレギュラー落ちしたのは…2年最後のラン キング戦」
「…へ?」
意外な時期ののレギュラー落ちに、桃城は間抜けな相槌をついた。
「い…一体どうして?2年の3学期っつったら、3年生とっくに引退 してるし、その頃はさん、部長だったんじゃないの?」
「うん…桃くんの言う通り」
「じゃあ、なんで?」
「あのね…」
先程より更に小声になったの話を、桃城は若干苦労しながら聞き取った後で、
「ぶっ……はははははーっっ!何っスか、そりゃ!?」
「あーっ!笑ったなーっ!」

の言い分によると、「自分のブロックの中に、いつもギ リギリでレギュラーから外されていた生徒が、目覚しい活躍をして いるのを目にした。
彼の成長に嬉しくなってしまったは、事もあろうかランキング戦にもかかわらず、試合中ず っと、その生徒の練習相手として夢中になっている内に、 試合が終わってしまった」らしい。

「スミレちゃんにはお説教食らうし、チームメイトには呆れられるし。 部長も下ろされるかなーって思ってたんだけど、何故かそれは全員 一致で免れたんだ」
「そりゃ、何だかんだ言ってもさんは、部長としてなくてはならない人だからっスよ」
「そうかなあ…だって、その後『青学テニス部伝説のイモジャ部長』 って、散々からかわれたんだよ?4月のランキング戦前にあった新入生部活 動紹介の時も、イモジャで壇上に立ったからね」
膨れっ面をするに、当時の光景が容易に想像出来た桃城は、今度はに気付かれないように、そっぽを向いて息を吹き出す。
「…とにかく。レギュラー落ちのベテランの俺としては、たった1回く らいで、悲劇の主人公ぶらないで欲しい訳。判る?」
「それは、判りましたよ。でも…」
「……でも?」
自嘲めいた桃城の返事に、は目を瞬かせた。
「勿論、レギュラー落ちて悔しいっつうのもあるけど…何だか、今回の事で 色んな想いが、俺の中でグシャグシャになってるんス」
「…桃くん?」
「ランキング戦のブロックの事、部長や先輩たちの事、そして何より、俺はテニス 部のみんなにとって、どんな存在なんだろうって……」
はじめて見る桃城の表情に、手塚は、自分が彼に抱いている認 識の甘さを悟った。
(…が言っていたのは、この事だったのか……)
豪快で、どちらかと言えばがさつな印象を受ける桃城の意外な一面に、 手塚は驚愕と自責の念にかられる。
暫しの間、重苦しい沈黙が流れた後、
「──よし。桃くん、こういう時は鬱憤晴らしだよ」
明るい声で告げると、は壁の前まで歩を進めた。
立てかけてあった桃城のラケットを借りると、手にしたボールを軽くトスする。
「…名付けて、『青学式・青春の怒りを壁にぶつけろ』!おりゃー!」
瞬間、まるで敵のように壁に叩き付けられたボールが、跳ね返ってきた。
「好きで幽霊やってんじゃねーぞ、畜生ー!」
の罵声と壁打ちの音がニ、三度交錯する。やがて、手を止めた が、桃城に向き直った。
「やり方は判ったね?今度は桃くんの番」
「…はい?」
「いいからいいから。この際思いの丈をぶつけてごらん。スカっとするよ」
ウインクするに促された桃城は、次の瞬間から奪い取るようにラケットを手にすると、怒涛の勢いで壁にボー ルをぶつけ始めた。


「畜生、ふざけんなー!あのブロックはいじめか!?いじめなのか!?」
「いいぞ、桃くん!その調子!」
「データがそんなに偉いのか!?見えてんだか見えてないんだか判らない 眼鏡で、キモい技出しやがってー!」
「もっと言っちゃえー!」
「単細胞の馬鹿力で悪かったなー!」
「おっしゃあ!盛り上がってきたーっ!」
コートの小さな片隅では、異様にテンションを上げた2人組が、壁打ちに 全身の神経を注いでいた。
「どーせ俺は、あんたの足元にも及ばないよ!だから、本気で相手する 価値もなかったのか!?手抜きでセット取らせやがってーっ!」
「よーし!よく言った!」
「……今の、まずかったっスかね?」
「大丈夫!手塚くんが許さなくても、俺が許すから!」
『……』
「じゃあ、そろそろ最後の1球!その怒りを一番誰にぶつけたい!?」
「……いつまでもこんな所でいじけてる、俺自身だー!」
一際大きな声で叫ぶと、桃城は渾身の力でラケットを振り下ろした。
激しく音を立てて、跳ね返ってきたボールをキャッチした雅は、肩で息を する桃城に近づくと、優しく微笑んだ。

「すっきりした?」
「…っス」
照れ臭そうに応えた後で、桃城は吹っ切れた顔でを正面から見据えると、深々と頭を下げる。
「──部長。勝手ですけど、今日は勘弁してくれますか?明日、きちんと詫び 入れに来ます。勿論、どんな処分も受ける覚悟です」
『……判った。待っているぞ』
「はい!」
迷いのなくなった桃城の瞳に、手塚は安堵と喜びを覚えていた。
「さて、それじゃそろそろ帰ろうか。……お迎えも来ている事 だし」
そう言って、は視線を動かすと、コートの入り口に佇む、小さな影に向かっ て声をかけた。
「何だ越前。お前、来てたのか」
「別に。サボリの桃先輩を、見物しようと思っただけ」
「とか言っちゃって。昨日も一昨日も、ドチビは大好きな桃先輩の姿を 、心配そうに見つめてたクセにー♪」
「なっ…、なに勘違いしてんの!?俺はただ、桃先輩の送り迎えが ないと大変なだけだから……」
「……お前な。俺の事、先輩だと思ってねーだろ」
「思ってないっス」
「まあまあ。ドチビは素直になれないお年頃だから、桃くんも許し てあげてね」
「だから、勝手に決めないでって言ってるでしょ!」

いつの間にか、のペースに巻き込まれたリョーマも混ざって、不毛な会話を続 けていると、


「楽しそうじゃねーか、桃城」


忘れるには、インパクトがありすぎるふてぶてしい声が、3人の頭上に 降ってきた。



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