『継承』


スタンドからこちらを見下ろしてくる跡部を、桃城は、目を丸くさせながら 見返していた。
今日の彼は氷帝テニス部のジャージを身に纏い、よく周りを確かめると、 いつも競技場で顔を合わせている、氷帝テニス部のレギュラーメンバー たちの姿もある。
「何か用っスか?跡部さん」
「フン。相変わらずシケたテメェの面を、拝みに来てやったんだよ」
「そうですか。誰もそんな事頼んでませんので、さようなら」
「桃先輩。このサル山の大将みたいなヤツ、何者?」
「ア〜ン?何だこのチビは」
「チビは余計っス」
口を挟んできたリョーマに、跡部は不快気に眉を顰める。
「俺は、越前リョーマ。青学テニス部のレギュラーだけど?」
「…へぇ?ホンマに自分、青学のレギュラーなん?」
リョーマの言葉に、跡部の後ろにいた長身の眼鏡の男が、興味深そうに 視線を寄越して来た。
その外見と、何かを探るような瞳に、リョーマは何処となく自分の部活に いる3年の先輩を思い出す。

『顧問が顧問だったから、今更何があっても驚かないつもり だったけど……氷帝って、いつからホストの集団になったの?』
『……俺に訊かれても困る』
げっそりとした口調で尋ねてきたに、手塚はやや困惑しながら返事をした。
『俺、あいつ苦手。この前の事もあるし…桃くんには悪いけど、こっち に気付いてない内に、退散させて貰おうかな」
『その方が良いだろうな』
手塚の言葉に頷くと、は傍にいたリョーマに一声かけ、コートから抜け出した。


「悪い事しちゃったな。『迎えに来た』って、自分で言っと きながら…」
『あの場合は仕方ないだろう。桃城も、その辺の事情は汲み取って いると思う』
何処となく力のない足取りで、は出口に向かって歩き続けていた。
落ち込んだ様子のを、手塚は彼なりに励ましながら、それでも跡部との混乱を 避けられた事に、心の何処かで安堵していた。
何しろ、妙に洞察力の鋭い跡部の事だ。
この間はどうにか誤魔化す事が出来たが、場合によってはに憑依されている自分の正体に、気付かないとも限らない。
「何だか、喉渇いちゃった。自販機寄っていい?」
『あまり、甘いものは飲むなよ』
「はーいはい」
『「はい」は、一度でいい』
手塚の説教を余所に、は自販機で烏龍茶を購入すると、ボトルのキャップを開けた。
その時、

「あら?ひょっとして、さん?」
聞き覚えのある少女の声が、の鼓膜を擽る。
振り返ると、不動峰中の橘杏が、手を振りながらこちらにやって来た。
「あ、この間の!えっと…杏ちゃんだよね?」
「はい、そうです。先日はご馳走様でした」
「いえいえ、どういたしまして」
丁寧に頭を下げてくる杏に、は口元を綻ばせた。
「今日は、アキラくんと伊武くんは一緒じゃないの?」
これから練習に行くのだと思ったは、セーラー服姿の杏に尋ねる。
「いいえ。今日は、たまたま通りかかったんです。さっき、玉林中の 泉くんと布川くんに会って、桃城くんが来てるって聞いたから」
「桃くん?」
「ええ。この頃何だか桃城くん、元気がなさそうだったから……」
「へ〜え。杏ちゃんって、優しいんだね」
「…え?やだ!そんなんじゃないですよぉ!」
仄かに頬を染めながら返してきた杏に、は好意的な笑みを漏らす。
『ねえねえねえ。正しい男女のあり方だと思わない?桃くんと杏ちゃん なら、きっとお似合いのカップルだよ』
『そういうのは、他人がとやかく口を出す事ではないだろう』
野次馬根性丸出しのに、手塚はすかさず釘をさす。
「それじゃ、私これで。桃城くん、まだコートにいますよね?」
「うん。気をつけてねー♪」
杏と別れて、出口へと歩いていたは、暫くしてから弾かれたように振り返った。
「ちょ、ちょっと待って杏ちゃん!今行くのはマズい!あいつがいる!」
『おい、マズいのは俺たちも同じだろう!?待て、!』
杏を追うべく、再びコートに向かって走り出したに、手塚は声を張り上げた。


些か逸りだした呼吸を落ち着けながら、杏がテニスコートの扉を開けると、 桃城と彼の後輩の姿が目に映った。
「桃城くん!」
「…橘妹」
「練習しないで、どうしたの…って、あ、あなた!」
数歩駆け寄った所で、杏はスタンドに人だかりと、その中心にあまり良くない 意味で印象に残っている人物の姿を捉えた。
「何だ、女。テメェもいたのか?」
「…何の御用ですか」
「オメェに用はねぇよ。俺様が用があんのは、こいつだけだ」
杏の挑むような視線を一笑に伏すと、跡部は再び桃城に向き直る。
「桃城くん、ほっといて行きましょう。どうせ、暇にかこつ けて弱いものイジメをするしか、能のない人なんだから」
「下らねえ事言ってんじゃねぇよ。この俺様を捕まえて、随分な言い草じゃねぇか」
桃城を促す杏が気に入らないのか、跡部は益々顔を顰めながら、彼女に凄んだ。
「桃城くん、迷惑してるじゃないですか!どうぞ貴方は、ご自分に相応しい場所 にでもお帰り下さい!」
「お、おいおい。落ち着けって」
「オレも、場所移動するのは賛成っスよ、桃先輩」
「…ア〜ン?何だ?お前らデキてんのか?」
「な…っ!?」
「え…!?」

瞬時にうろたえ始めた桃城と杏に、跡部はさも面白そうに笑みを漏らす。

その直後、

「この大馬鹿野郎ーっっ!」

怒号と共に、飲みかけのペットボトルが、一直線に跡部へと迫ってきた。
いち早くそれに気付いた樺地は、片手を上げるとペットボトルを受け止める。 そして、辺りを見回すと、コートの入り口からこ ちらへ向かってきた人影に気付いた。
「……てめぇ。誰が馬鹿野郎だ、誰が」
顔色も変えずに、跡部は、自分に狼藉を働いた輩を睨みをきかせる。
「お前に決まってんだろ、このホストの親分!青春真っ盛りの少年少女に向 かって、無神経にもほどがあるだろうが!」
だが、その相手は少しも怯んだ様子はなく、 矢継ぎ早に暴言を捲し立て続けた。
「今の桃くんと杏ちゃんは、お互いをやっと意識し始めたトコなんだよ! それこそ、ちょっと見詰め合っただけでバックに点描や花が飛んだりして、 これからゆっくりゆっくり、小さな恋を育んでいく大事な時期だってのに……」

「……あー…何や、えらい威勢のええやっちゃなあ。ま、ラブロマンス は、オレも嫌いやあらへんけど」
「忍足。突っ込むトコ、そこじゃないから。でも、あの跡部相手にあそこ まで言うなんて、やるねー」

物腰の柔らかな少年に「忍足」と呼ばれた眼鏡の男は、突如現れた闖入者に 視線を巡らせる。
「そんな未来ある桃くんたちを、お前の私生活と一緒にすんな!この『思考 が下半身にどストレート』野郎!」
「てめぇ!今のは、いくらなんでも聞き捨てならねーぞ!」
とても昼下がりのテニスコートでするものではない話題と、自分への形容に、跡 部はらしくもなく頬を紅潮させて反論する。
だが、
さん!なんで戻ってきちゃったんスか!?」
「だって、杏ちゃんをあんな危険なホスト軍団の傍に置く真似なんて、 出来ないじゃないか!特に、あの総大将と丸眼鏡なんて、睨まれただ けで、子宮がなくても妊娠しそうな勢いなんだよ!?」
「……言いたい放題やな、自分」
「──だと!?」
慌てふためくような桃城の科白に、跡部の理性は、平常さを取り戻した。
そんな跡部の反応を見て、は「憶えてやがったよ」と、苦々しい顔をする。
「ここで会ったが何とやら、だぜ…この間は、よくも俺様をコケにしてくれたな」
「あんな子供だましに、引っかかったお前が間抜けなだけじゃん」
にべもない切り返しに、跡部は短く舌打ちする。
「まあ、いい。俺様がわざわざここまで来たのは、お前を探していたのもあったからな」
「え…?」
。てめぇは、何者だ?」
質問と一緒に突きつけられた跡部の指を見て、は僅かに顔を顰める。
「てめぇの俺様に対する態度は、腹立たしい事この上ないが、てめぇのプレ イは、俺様の相手として不足のないものだった」
「それは、買い被りだよ。俺は、遊びでテニスやってるだけで……」
「嘘つくな。てめぇのテニスは、どう見ても素人の動きじゃ ねぇ」


あの日。ストリート場で、に煮え湯を飲まされた跡部は、怒りの反面、彼のテニスの実力が 相当なものだと知り、自分にとって勝負するに相応しい人物であると思った。
そして、不動峰の神尾たちから聞いた「」という名を頼りに、周辺の中学やスクールを調べ たが、該当する者は見つからず、顧問である榊にも、それらしき人物が いないか尋ねてみたが、一瞬何かを思い出すような表情をしたものの、 返ってきた返事は、やはりNOであった。
このまま、会えずじまいかと歯噛みしていた時、跡部は、彼と一緒にいた 青学の桃城の事を思い出した。
には及ばないものの、桃城のテニスも、跡部の興味を引くには充分 だったし、桃城を通じてにもう一度会う事もあるかも知れない。
そう判断した跡部は、ここ数日、暇を見つけてはストリート場を訪れていたのである。


「そのお陰で、やっと今日を迎えたって訳よ。桃城だけでなく本人に会えるた あ、運の女神は俺様に味方をしたようだな」
「……さいですか」
感慨深げに頷く跡部に、だけでなく、氷帝のテニス部員たちも呆れ返っていた。
。今こそ決着をつけてやるぜ。コートに立ちな」
「ヤダよ。だって俺、今日は桃くんたちを迎えに来ただけだもん」
「逃げんのか!?」
「…あ、うん、そう。この間は、まぐれで勝っちゃっただけだ から。考えてみれば、東京でも強豪で有名な氷帝の部長様に、俺 がかないっこないし」
跡部の挑発を軽くいなすと、は桃城たちを促して、コートから出て行こうとする。
「…てめぇがそうでなくても、こっちはその気満々なんだよ!」
の態度に業を煮やした跡部は、樺地からラケットを受け取ると、 ボールを空中に放り上げた。
「バカ跡部、何してんだおめぇ!?」
「背を向けている相手に打つなんて、いくらなんでも卑怯です!」
宍戸と日吉の制止も聞かず、跡部はそのまま目掛けて打ち下ろした。
手加減なしの跡部のボールは、少しの軌道もずれる事無く、の背後に迫る。
さん、危ない!」
こちらに向かってくるボールに気付いた杏は、思わず悲鳴を上げる。
だが、杏の悲鳴を聞く前に、は、桃城からラケットを拝借すると、跡部の打球が 背中に当たる直前、軸足から素早く身体を捻り、バックハンドで打ち返した。
スタンド目掛けて返されたボールは、寸分狂わず跡部の左手に吸い込まれていく。

「──フン。やはり、俺様の目に狂いはなかったな」
「ぁ…やば……」
ボールを手に満足そうな笑みを浮かべる跡部に、は、無意識に反応してしまった自分のミスを呪う。
『何をやってるんだ、お前は!?』
『だって、手塚くんに怪我させる訳にはいかないし…つい、手が出ち ゃったんだもん!』
、どうするつもり?あのサル山の大将と一戦交えるの?」
「冗談。さわやかにバックれるに決まってんじゃん。桃くん、準備はいい? 俺があいつを引き付けてる間に、杏ちゃんとドチビ連れて逃げて」
「……結局、こーなるんスね」
前回同様、跡部絡みの逃走劇に行き着きそうな展開に、桃城はげっそ りと息を吐く。
「なーに、ブツブツ言ってやがんだ。アーン?」
何やら固まって話を続けているたちに、跡部は訝しそうに声をかけた。
リョーマたちが、自分の目配せに頷いたのを確認すると、は跡部の立つスタンドに向かって、ゆっくりと歩を進めた。
やがて、横目で桃城たちが、コートから外へ出たのを見届けると、わざとらしく肩を 竦めながら言葉を切り出す。
「…野郎相手に、ここまで熱烈なラブコールっていうのも、何だか薄ら寒いんだ けどね。じゃあ、お前のラケット貸してくんない?桃くんのは、さっき返しちゃったし」
の返事を聞いた跡部は、彼の傍らに控えるように立つ樺地に声をかけた。
てっきり、自分の道具を出すために後ろを向くだろうとふんでいたは、「こいつ、ここまで俺様なのかよ」と、内心で舌打ちする。
「ほらよ、俺様のスペアだ」
「あ、有難う…」
スタンドから伸ばされたラケットを、は礼を言って受け取ろうとしたが、不意に空を仰ぐと、天を指しながら 素っ頓狂な叫びを上げた。

「あっ!空飛ぶ円盤!」
「なにぃ!?」

非現実にも程があるのに、つい見上げてしまった跡部は、数秒の後、弾かれたように視線を 元に戻したが。
「ごきげんよぉ〜!こーいう単純な手でも、しっかり引っかかってくれるキミが大好きだ!」
「──待ちやがれー!てめぇ、今日は逃がしゃしねぇ!樺地!」
「ウス」
跡部の命令で、スタンドから飛び降りた樺地は、先回りして、の逃走経路を塞ごうとする。
「忠義心も、ここまでくると天晴れだよね。でも、俺にも守りたい大切な人がいるんだ」
前に立ちはだかってきた巨体を一瞥すると、は、ポケットに隠し持っていたテニスボールを取り出すと、手首を翻して樺地の足 元めがけて叩き付けた。
「おりゃっ!」
不意の襲撃に、僅かに樺地の身体が揺らいだ瞬間、体勢を低くしたの身体が、彼の足の間を股抜きするようにスライディングしていく。
だが、逃すまいと伸ばされた樺地の指が、の頭に巻かれたバンダナを掴んだ。一方向に引っ張られた結び目が解かれ、 纏めていたの髪が露になる。
「あ…」
「…!?」
目を丸くさせながら、こちらを見つめ返してくる姿に、樺地は一瞬動きを止めた。
『この人は…まさか……!?』
そんな樺地の隙を、は逃さなかった。
名残惜しげに毛先に絡み付いていたバンダナを解いて、そのまま樺地の眼前に放る。
突然の目くらましに、樺地が怯んでいる間に、は反対側のスタンドから、まんまと外へ逃げ果(おお)せていた。

「ちっくしょおおおっっ!の野郎ー!」

一度ならず二度までも煙に巻かれた跡部は、悔しさに歯を鳴らす。
「…なあ、跡部。『空飛ぶ円盤』なんて、昭和の遺産やで」
そんな跡部の横から、忍足が丸眼鏡を動かしながら、哀憐の眼差しを遣してきた。
「俺、あのギャグを聞いたのも、それに引っかかった人を見るのも、はじめてです!」
「……激ダサだな」
次いで、鳳と宍戸のふたりも、慰めには程遠い言葉を投げつけてくる。
そのような中、樺地だけは、彼にしては珍しく何かを考えているような表情をしていた。
あの時見たの素顔に妙な既視感を覚えた樺地は、だが、その正体を思い浮かべた所で、自 分の認識に疑いを持った。
まさか、の正体が、『彼』の筈がない。
『彼』とあのが同一人物だとは、とても考えられないし、第一、跡部が認めた 『彼』が、このような酔狂な真似をするメリットなど、何もない。

ひとり地団太を踏んでいた跡部が、自分の名前を呼んでいるのに気が付くと、樺地は、 頭の中に浮かんだ思惑を、完全に打ち消した。


さん、無事に逃げたかな…」
「あの人の事だから、何とかしてるんじゃないの?俺たちにも先に帰れって言って たし、待ってなくてもいいっスよ」
「ねぇ、ふたりともちょっと速過ぎ。待ってよ」
些か早足で歩いていた桃城たちに、女性の杏は、彼らの後ろを遅れて進んでいた。
ふたりに追いつこうと急かした所で、バランスを崩し、前方へつんのめってしまう。
「きゃっ」
均衡を崩した杏の身体を、不意に誰かの腕が支えた。
「あ、すみません」
自分を助けてくれた相手に、杏は赤くなりながら礼を言う。
ラケットケースを肩に背負ったその人物は、長身の青年であった。
桃城たちよりもずっと年長の、おそらく大学生くらいだろうか。
青年は、何とはなしに杏たちを眺めていたが、レギュラージャージ 姿のリョーマに視線が留まると、突然、表情を険しくさせた。
「…なに?」
青年の穏やかでない視線に気付いたリョーマは、不敵な顔で見つめ返す。
だが、その青年は何も答えずに顔を背けると、ひとりコートへと去っていった。



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