『継承』


リョーマたちと入れ違いに、コートへ足を踏み入れた青年は、ベンチに自分の 荷物を置くと、バッグからシューズを取り出した。
ややあって、シューズを履き替えている自分の前に、人影が現れたのに気付き、 顔を上げると、 僅かに目を細めた。
「……勝負は、週末だぞ」
「判っている。今日は、お前に話があって来たんだ」
青年と似通った年格好の男は、青年に複雑な視線を送る。
「なあ、今からでも遅くない。お前、体連に戻れ。戻って、昔のように表の舞 台でテニスをするんだ」
「今更だな。『あの日』以来、表の世界は、俺には関係のないものだ」
「主税(ちから)…」

主税と呼ばれた青年は、男の呼びかけを無視して立ち上がる。
そして、スタンドで揉めている中学生の集団を一瞥すると、自嘲気味に笑みを漏らした。
「さっき会ったチビといい、お前といい…今日は、俺の神経を逆なでする奴らばか り目にするな」
「……」
「お前がここへ来たのも、元青学テニス部副部長としての義務か?あいつを裏 切って、部活に居残ったお前の言う事など、俺は聞く耳もたんぞ」
「──俺は、裏切ってなんかいない!」
主税の言葉に、男は憤然と反発する。
「俺だって、本当に悔しかったさ。だけど、あの頃の俺たちに何が出来たんだよ? それに、俺には副部長として、あいつの意思を受け継ぐ義務があったんだ。もし、あのま まテニス部が潰れてしまったら、一番悲しむのはあいつだろう!」
「……判ったような口をきくな。何が、あいつの意思だ。結局は お前も竜崎も、青学テニス部という肩書きの為に、あいつを見捨てたんだ。 そんなお前らを、俺は決して許さない」
「それは違う!主税、待て!」
「もう、話す事はない。井坂(いさか)、週末はせいぜい俺を楽しませてくれよ。仮にも当時は、 青学トップ3と呼ばれていた男だろう?」
ベンチから立ち上がった主税に、井坂は懸命に呼びかける。
だが、一切の言葉を拒絶する姿勢の彼の背中を見て、井坂は、こみ上げる感情そのままに 大声を張り上げた。

「主税(ちから)!お前がやっている事は、本当にあいつの為だって言えるのか!?今の姿 を、お前はに胸を張って見せる事が出来るのか!?」

井坂の叫びも虚しく、主税の姿は、次第に彼の前から遠ざかっていった。
深いため息をひとつ吐くと、井坂は踵を返して、元来た道を戻ろうとした。
その時、
「おい」
ふてぶてしい声が、井坂を呼び止めた。
振り返ると、氷帝のジャージを着た端正な少年が、不敵な面構えでこちらを見据えていた。
「…何だい?」
気を取り直すと、井坂は少年に問いかける。
「あんた、今って言ってたな。知ってるのか?」
「え…?」
唐突な少年の質問に、井坂は思わず面食らった。と、そこへ彼のチームメイトらしき丸眼鏡の 少年が、フォローを入れるように口を挟んできた。
「いやあ、すんまへんな。こいつ、さっきってヤツに軽くあしらわれたんで、今ちょーっと荒れてますねん」
「あしらわれたんじゃねぇ!の野郎が、俺様に恐れをなして、逃げやがっただけだ!」
「…そう。きみの友達も、っていうんだ……」
穏やかな井坂の声を聞いて、少年は僅かに顔を背けると「友達なんかじゃねぇよ」と、口の 中で呟いた。
「申し訳ないけど…きみの友達と俺のとは、違う人のようだね」
「なに?」
「だって…俺の知っているは、死んじゃったから。4年前に」
「え…」

寂しそうに言いながら、井坂は軽く会釈をすると、コートを去っていく。
その背中から、何故か少年は目が離せず、暫くの間見つめ続けていた。


翌日の放課後。

「桃くん、まだかなー」
ウエアに着替えながら、は部室のドアに、しきりに視線を走らせていた。
『今日は来る、と言ってただろう。それよりも、桃城が来たら交代してくれ』
『あ、ずるい!俺だって、桃くんの復帰をお祝いしたいのに!』
『俺がしたいのは、無欠をした桃城へ、部長として罰則を言い渡す事だ』
『お迎えするまでは、俺でもいいじゃんかー!』
『ダメだ』
言い合いながらも、ふたりは桃城の来訪を、今か今かと待ち侘びていたのである。

「それにしても…あのストリート場に行ってたのか。良かったな、週末じゃなくて」
着替え終わった制服をロッカーに仕舞いながら、乾が話しかけてきた。
「どういう事?」
「最近、あそこのストリート場では、週末に少々物騒な賭けテニスがあるんだ」
「何それ?」
乾の話に興味を持ったのか、の隣にいたリョーマをはじめ、他の部員たちが、身を乗り出して続きを促す。
「まあ、賭けといっても、金銭のやり取りをしている訳ではないんだが…何でも、その勝負 に敗れた者は、自分のラケットを壊されるというルールらしい」
「ラケット…」
「これまでにも、何人もの選手が、その賭けテニスに赴いたらしいが、いずれも敗退し ているそうだ」
「変なの。そこまで自分の腕に自信があるなら、普通に大会とか出ない訳?そいつ」
リョーマの質問に、乾は「さあね」とばかりに、肩を竦めてみせた。
「乾ぃ。その賭けテニスの首謀者って、どんなヤツにゃの?」
「あまり、そっちの方は調べていないから詳しくは判らないが…私立大の学生だと聞いた事がある」
「という事は…生きていれば、と争う可能性もあったのかな」
「俺は、そんな野蛮な真似はしませんよーだ」
不二の独り言に、は些か不機嫌そうな声で返した。
さんは、どう思うっスか?何で、そいつは表舞台には出ずに、夜のストリート場で テニスをするのか」
「うーん…色々考えられるだろうけど、表に出られない事情があるか、あるいはテニスに関する恨み 言でも持っているか…でも、俺はテニスをそんな風に扱うのは感心しないなあ…って、桃くん!? いつ来たの!?」
いつの間にか、隣に立っていた桃城を見て、は目を丸くさせた。


「いやあ、さっきから声かけてたんですけど、みんな話に夢中になってたみたいだから…」
「忘れ去られてたんスね、桃先輩」
「お前なあ…相変わらず容赦ねーな」
「まあまあ、ともかく…お帰り、桃」
「お帰りにゃ!」
「心配したんだぞ」
河村をはじめとする先輩たちの言葉に、桃城は照れ臭そうに頭を下げる。
「──部長。この数日間、本当に済みませんでした」
次いで、桃城はこちらに背を向けたままの青学部長の背に、声をかけた。
「昨日言った通り、どんな罰も受ける覚悟は出来てます。勿論、最悪の処分でも俺は… って、どうかしたんですか?」
「………なんでもない」
相当の沈黙を置いてから、若干苦労しながら意識の交代を終えた手塚が、桃城に向き直った。
「よく、戻ってきたな」
「…はい」
未だ脳裏で喚いているを無視すると、手塚は言葉を紡ぎだす。
「だが…3日間の無断欠席は、部員として許されるものではない。よって、お前には罰則を 与える。まずは、これからグラウンド100周。そして、3日間は1年と一緒に球拾いだ!」
「はい!」
過酷ともいえる罰に、それでも桃城は力強く返事をすると、早速グラウンドへ向かおうと、 部室の扉を開けた。
「──桃城」
顔だけ動かしながら、手塚は桃城に呼びかける。
「俺たちは、必ず全国へ行く。だから…次のランキング戦には戻って来い」
「了解!」
勢い良く外へ飛び出した桃城に、手塚は彼に気付かれない所で表情を和らげた。


手塚が桃城に与えた罰は、ハッキリ言って過酷以外のなにものでもなかった。
だが、汗まみれになってグラウンドを駆け、球拾いをする桃城の心は、充実感に溢れていた。
大切な仲間たちのいる、この青学テニス部で、大好きなテニスをする事が出来る。
『大丈夫だ。俺は、まだまだやれる!』
決意も新たに、桃城はひたすらボールを追いかけ続けた。

そして、最後の3日目の球拾いが終わった後。

「桃くん、ちょっといい?」
コートの整備用具を手にしたが、ベンチサイドで寝そべっている桃城に声をかけてきた。
「お疲れの所、悪いんだけど…今度は俺に付き合ってくれる?」
「なんスか?」
「コレから先は、俺が桃くんに与える罰」
手を引かれるまま、コートへと連れてこられた桃城は、に用具を渡された。
「さて、問題です。このコートは、何でしょう?」
「え?…あ」
の言葉に、桃城は、自分が連れてこられたコートが、ランキング戦の時に、乾や手 塚たちと試合をした場所である事に気付いた。
「コートにはね、テニスをする人間の痕跡が、沢山染み付いているんだよ」
愛しそうにコートを見つめながら、は口元を綻ばせる。
「流した汗や涙、そして様々な想い。俺も、ここで沢山の事を教えて貰ったの」
さん…」
「コートは何も言わないけれど、色々な自分を受け止めてくれる。そんなコートに日頃の感謝と、この 間、ランキング戦で不本意な試合をしちゃったお詫びも含めて、お掃除しなさい」
そう言うと、は、桃城とは反対側のコートへ行ってしまった。
桃城は、唐突なの言動に、暫し唖然としていたが、やがて気を取り直すと、用具を手に精魂 込めてコートの整備に取り掛かった。

コート内のゴミを拾いながら、桃城は自分と一緒に整備を続けるを、こっそりと盗み見る。
厳格な手塚とは大違いの性格だが、テニスを愛する気持ちでは、とても通じるものがあるふた りだな、と桃城は密かに思っていた。
好対照なふたりの部長に出会えた自分は、ある意味とても幸運なのかも知れない。
疲労の所為か、段々とぼやけてきた頭で、桃城はそんな思考を巡らせていた。


「桃くん、そっちは終わった?…桃くん?」
すっかり日も沈み、夜空に星が瞬き始めた頃、整備を終えたは、いつの間にか、コートで大の字になって眠っている桃城に遭遇した。
「ホラホラ桃くん、起きて。幾ら夏でも、そんな汗吸ったシャツのままじゃ、風邪引いちゃうよ」
「……」
余程疲れているのか、目を醒ます気配のない桃城に、どうしたものかとは腕を組む。
すると、
。俺と代わってくれないか』
意識の交代を申し出た手塚は、数秒ほど桃城の寝顔を見つめていたが、やがてジ ャージの上着を脱ぐと、彼の身体にかけてやった。
「んー…」
レギュラージャージを布団代わりに寝ぼけた声を出す桃城に、手塚は小さく吹き出す。
「……今日の事を忘れるな。お前は、もっと強くなれる」
熟睡する桃城の耳元に顔を寄せると、手塚はそっと囁いた。


「どうした風の吹き回し?」
『別に他意はない。大切な部員に風邪を引かれては、困るだけだ』

あれから、暫く桃城の傍にいた手塚とだったが、単身ロードワークから戻ってきた海堂に、「後は俺 がコイツを起こしますから」と、恐縮交じりに送り出され、少々遅めの家路を歩いていた。
「いよいよ、関東大会か。みんな、頑張ってくれるといいね」
『そうだな…』
「これまでは、ベンチのあっため係だったけど、関東大会ともなれば、手塚くんも戦 う事になるだろうね」
『ああ』
「じゃあ、これからは俺は控えて、手塚くんの練習に集中しないと。腕の様子は変わ りなさそうだけど油断は……」

反対側の道路から、テニスの用具を抱えながら歩いてくる人影を見つけた は、不意に言葉を切ると、彼らの後をつけるように、手塚の家とは異なる 路地を進み始めた。
『いきなりどうした?』
「ゴメン、ちょっと寄り道していい?」
『おい、!』
おそらく、この通りの先にあるストリート場から出てきた連中だろう。
そんな風に考えている手塚とは対照的に、の表情は、強張っていた。
極力不自然にならぬよう、距離を保ちながら彼らに近付いていたの耳に、微かな声が聞こえてきた。

「大丈夫か?」
「ああ。俺はともかく…ラケットはボロボロだ。こりゃ、店にメンテの予約入れといて正解だったぜ」
「……お前でもダメだったか、井坂(いさか)。もう、あいつを止められるヤツは、いないのかよ」

その内容に、手塚は、部活前に乾が話していた「ラケットを賭けた野試合」の事を思い出す。
おそらく、前方の男性は、その野試合に負けたのだろう。
愚かな事を、と手塚は思ったが、

「直保(ただやす)…お前、どうして……」
『知っているのか?』
「あいつ…井坂直保…俺が…部長だった時の…副部長……」
『──なんだと!?』

の返答に驚く間もなく、井坂たちの会話は進んでいく。

「そういや…井坂の前に、大和も挑んだらしいぜ。ダメだったけど」
「…大和か。あいつ、に可愛がられてたからな……きっと、見過ごせなかったんだろう」
井坂の口から出た名前を聞いて、今度は手塚も言葉を失った。
「主税(ちから)の野郎…俺たちが、何も思ってない訳ないだろうが!自分ひとりが不幸 背負ってるような顔しやがって…!」
「──やめるんだ。あいつだって、やり場のない想いを、どうにも出来ないでいるんだ。 俺には判る…」
身体の怪我だけが原因ではない苦痛に、井坂はその柔和な顔を歪める。
「……主税が大変な事になっちまってるっていうのに……。お前、何で死んじまったんだよぉ……」


井坂たちが、曲がり角から別の道へと姿を消した瞬間、は地面にガクリと坐りこむ。

!どうした、しっかりしろ!』


だが、手塚の呼びかけにも応えず、は表情を失ったまま、全身を震わせていた。




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