『継承』


夕暮れ。
ストリート場へ続く広場を歩きながら、学生と思しき体格の良い青年が、友人数人を 連れて意気揚揚と歩いていた。
「いよいよだな、週末の試合」
「おうよ。相手が左利きとなりゃ、そいつに土をつけるのは、俺を置いて他にいねーだろ」
ラケットケースを一瞥しながら、青年は得意そうに嘯いた。
「ま、なんたって我が大学テニス部自慢の『左殺し』となりゃ、いくらあいつでもひとた まりもねえだろうな」
「へっへっへ。そういう事」
笑い合いながら、テニスコートの入口に足を踏み入れた時、青年達は、そこに現れた人影に 気づいた。
「…ん?」
一見、高校生と思しき人影は、ジャージ姿の少年だった。
彼の着用するジャージを見て、青年の連れが声を上げる。
「おい、あれ青春学園のジャージじゃねぇか?確か、レギュラーだけが着れるってヤツ」
「青学か。…おい、お前。中坊か高校生か知らねぇけど、俺達に何か用か?」
「──悪いけど、」
青年達の返事を待たず、ジャージ姿の少年は、己のラケットを右手にかざすと、ひと言告げた。
「その権利、俺に譲ってくれないか?」


「4年前よりも、ずっと上手になったな。大和」
「有難うございます」
スミレが部室を去った後、は大和に頼んで、彼が、自分のかつてのパートナーであった川喜多主税 (かわきた ちから)と対戦した時の事を、実践も交えて説明して貰っていた。
コートをひとつ借りると、ラリーをしながら主税への対策を、自分なりに頭の中で考えていく。
「主税(ちから)先輩の対角からのショットは、健在です。威力は、中学の頃よりも 格段に上がっていました」
「…となると、当時の知識だけじゃ太刀打ち出来ないって訳か」
大和の説明を聞きながら、は僅かに眉根を寄せると、手の中のラケットをくるりと一回転させた。
「それと、主税先輩と対戦するには、仲介者に会わなければなりません。それに、今 からでは既に新たな挑戦者がいるでしょうし…」
「だったら、そいつより強い事を証明して、俺が先に主税と試合出来るよう、頼むだけさ」
「……そうですね。おそらく、それしか方法はないでしょうし」
言葉を濁した大和に、は小首を傾げる。
「──なあ、大和。もう、これ以上俺に隠し事はしないでくれないか」
先輩…」
自分を見つめてくるに、大和はひとつ息を吐くと口を開いた。
「…主税先輩への仲介者は、先輩もご存知の方です。ストリート場に行けば、おそらく会う事が出来るでしょう」
「……そうか。話してくれて有難うな、大和。あとは、俺が何とかする」
『俺達も、だ。
手塚の訂正に、は頷くと、もう一度言葉を紡ぐ。
「ここまで俺に付き合ってくれて、サンキュ。後は、『俺達』があいつをどうにかする」


「くっ…なんだ、コイツ……」
ガックリと膝をつきながら、青年はネット越しに少年を見た。
明らかに年下の少年に勝負を挑まれた彼は、怖いもの知らずに勝負の厳しさを 教えてやろうという心積もりでいたが、少年と球を交えた直後、それが自分の 奢りである事に気付いた。
それは、青年が今までのテニス人生の中で味わった、数少ない敗北の屈辱とは 比べ物にないくらいの衝撃が、尋常ならざる疲労となって、全身に襲い掛か っている。
青年の友人達も、目の前で起こった信じられない光景に、声も出ずにいた。
汗もかかずに、冷徹に自分を見つめてくる少年に、彼らは例えようもない威圧 感とある種の恐怖のようなものを、覚えずにはいられなかった。

その時、
「おいおい。今度の週末の相手は、お前だって聞いたけど?」
どちらかといえば軽薄そうな科白を聞いて、青年たちは声のした方を振り返った。
「主税のヤツには、週末に試合がある事は伝えてるけど、そのお前がこんなザ マじゃ、話になんねーじゃんか…って、ん?」
言いながら、男はコートに佇む少年を見ると、彼の身に纏ったジャージに、無意 識に渋面を作った。
「……お前。中学生なんかに負けたのか?それも、よりによってこんなヤツに」
蔑むような視線を向けてきた男に、は僅かに眉を顰める。
「ったく、大和といい直保(ただやす)といい、こーいうのって続くもんなのか よ……あのさ、キミ。悪いけど俺、そのジャージ見てると、すっげぇムカつく んだ。俺の気が変わらない内に、とっとと帰ってくんないか?」
「尻尾巻いて逃げ出した、自分の過去を思い出すからか?」
歩を進めながら、男は目の前の中学生をコートから退場させようとしたが、返 ってきた言葉に一瞬口篭もり、その直後あからさまに表情を歪めた。
「…どういう意味だ、今のは」
心なしか、先程よりも余裕のなくなった男の様子に、は伏目がちに言葉を続ける。
「そのまんまの意味だ。元青学テニス部の加瀬純司(かせ じゅんじ)」
「…!どうして俺の名前……そうか。さては、大和にでも聞いた んだな。先輩の敵討ちにでも来たって訳か?」
「違う」
加瀬の科白に、は小さく首を振った。
「お前…あんたが、そしてあいつが、いつまでも未練たらしく縋り続けている 『過去』に、引導を渡しに来たんだ」
「──!」
「青学の誇りも魂も忘れて、こんな場所でいきがる事しか能のない連中に、 テニスして欲しくないから。あいつにも、そう伝えておいてくれ」
「…待ちな」
踵を返そうとしたに、加瀬の怒りに震えた声が引き止める。
「ガキが随分な口を叩くじゃねぇか。あいつと…主税と 試合したいなら、俺を倒してからにしろ」
「……あんたは、ただの仲介者だろ?」
「黙れ!大和たちに何吹き込まれたか知らねぇが、こっちも言われっ放しっ て訳にゃ、いかねぇんだよ!」
ラケットを突きつけて来た加瀬に、は一瞬だけ顔を曇らせたが、直ぐに元に戻ると、加瀬に厳しい一瞥をくれた。


夏とはいえ、徐々に傾いてきた夕日を背に、聖ルドルフ学院テニス部の不二裕太は、 駅に向かう道を歩いていた。
「この分じゃ、門限ギリギリだぜ。ったく、兄貴のヤツ…」
用事と、荷物を受け取る為だけに実家に戻っていた裕太だったが、兄の周助をはじめ とする家族によって思わぬ足止めを喰らい、家を出る頃には、予定の時間を大幅にオ ーバーしていたのだ。
急ぐ足がストリート場の角に差し掛かった時、裕太はふと視線を遊ばせると、金網越 しに試合をする人物が目に入った。
「へぇ…」
遠目にも判る激しいラリーに、裕太は足を止めると彼らの様子を観察する。だが、 程なくしてその試合をする人物が、裕太も良く知る存在である事に気付くと、思 わず声を上げた。
「手塚さん…?」
これまでにも何度か、手塚のプレイを見た事のある裕太だったが、そこにいたのは、 まるで別人のような姿だった。
闘争心を剥き出しに、年上の相手にこれでもかと球を打ち続けている青学部長を、 裕太は、信じられない想いで見つめていた。

「…痛ぅ!」
加瀬からのカウンターが左肩に打ち込まれ、は短く叫んだ。
『…っ!大丈夫か、!?』
『ゴメン、手塚くん!』
『そんな事より、また来る!気を付けろ!』
左肩に走った鈍痛を堪えながら、手塚はを促した。
自分の打球で、相手がダメージを受けている事を知っているのか、加瀬は 再度同じコースへ球を繰り出そうと、ラケットを振り被る。
「こーのー野ー郎ー!」
激昂したは、加瀬のサーブをライジングで返すと、 雄叫びを上げてネット際へと突進した。
「バカが!わざわざパス(パッシングの略)されに来たのか!」
「誰が、お前なんかに抜かれるもんか、このヘボ!」
「ほざけ…っ…!?」
ネット際からボレーを繰り出してきた少年の姿に、加瀬は思わず目を 奪われた。
敢えて対戦相手に背を向けると、独特の足さばきで体重を載せながら、 手にしたラケットで一気に敵陣へと叩き込むボレー。
そんな型破りな技を繰り出す者を、加瀬は、後にも先にもたったひとりしか 知らない。
(何故だ…!?こんな事が出来るのは、『あいつ』しか……!)
コートに叩き付けられたボールは、バウンドすると、加瀬の脇を掠めた。
仄かな摩擦熱が加瀬の左腕を襲ったが、それ以上に彼の心は、驚愕と戸惑 いに支配されていた。


「お前…何処で、その技教わったんだ…?」
無意識に震えだした舌を、加瀬は懸命に動かす。
「俺の知る限りじゃ…そのボレーを使うヤツは、たったひとりだけだ。 それも今じゃ、誰も使えるヤツはいない筈なんだ……」
「……」
「教えてくれよ…お前にそのボレーを教えたヤツは、 誰なんだよ!?」
怒りとも哀しみともつかぬ表情で叫ぶ加瀬を見て、は、唇を噛み締める。
暫くの間、足元に視線を落としていただったが、やがて顔を上げると屹然とした声で答えた。
「俺は…どうしても、あいつに会わなきゃならないんだ。頼むから、邪魔を しないでくれ!」
「お前…」
年下の少年に、かつての大切な仲間の姿が重なって見えた加瀬は、小さく 息をひとつ吐くと、俯いた。
油断をすれば、こみ上げてきた感傷が、一気に溢れ出しそうになるのを、 首を振る事で止めると、もう一度顔を上げて、真っ直ぐを見つめてきた。

「……OK。週末の相手は、お前だな。主税には、俺から連絡しておく」
「加瀬…」
4年の歳月を経て、多少雰囲気は変わったものの、見覚えのある微笑みが、 の網膜に焼き付けられた。
加瀬の言葉に、は小さく頷くと、背を向けてコートから外に出る。
「──おい」
背中越しに呼びかけられて、は足を止める。
「『つなぎ』の俺が言うのもなんだけど…」
「…?」
「お前なら、あいつを…主税を倒す事が出来るかも知れないな」
「え…」
「──ま、あくまで希望的観測だけどな。せいぜい頑張るこった。 それでも俺は、主税を倒すのがお前である事を願ってるよ。お前の為 にも、そして…主税の為にも」
先程とは変わって、棘の消えた声が、の鼓膜と心を震わせる。
だが、そんな加瀬の科白には応えずに、は足早に荷物を纏めると、コートを去った。
そのままわき目もふらずに自転車にまたがると、家路目指して少々乱暴に ペダルを漕ぐ。
ストリート場の入口を出た所で、見覚えのある中学生とぶつかりそうに なったが、構わずには走り続けた。


帰宅したは、手塚の母親の彩菜に「夕食は後にする」と告げた後、 そのまま手塚の自室に滑り込んだ。
少々乱暴に荷物を置くと、着替えもせずにベッドに倒れ込む。

手塚の呼びかけに、はぴくりと身体を震わせる。
『……もういいぞ、。よく、家まで堪えたな』
「〜〜〜〜っ!」
優しく告げられた言葉が引き金となって、の口からくぐもった泣き声が漏れ出てきた。
「あいつは…加瀬は…テニスを忘れていた訳じゃない…!俺の…俺の所 為で……!」
…』
「みんな…みんな苦しみ続けているんだ!主税…お前一体、どれだけ俺 なんかの為に傷付いたんだよぉ…馬鹿野郎…馬鹿野郎ぉ……!」


家の住人に気付かれないように、シーツに顔を押し付けながら、咽び泣く を、手塚は、左肩の違和感に気付かないふりをしながら、 いつまでも見守っていた。






ブラウザの「戻る」でお戻り下さい。