「おーいしぃ!」 「大石先輩!?」 『青学の母』の帰還に、パートナーの菊丸は勿論の事、青学ベンチは、それまでの 鬱積していた周囲の空気が変わっていくのを覚えた。 『大丈夫なのか?』 「腕は多少痛むけど、他はこの通りピンピンしてるよ。心配かけてすまなかったな」 「ううん。こうして君が皆の前に帰って来た事が、一番大事なんだよ。お帰りなさい」 「……はい」 かつて仲間のもとへ戻る事無く、この世から退場を余儀なくされたにとって、こうして皆の前に大石が無事に姿を現した事が、嬉しくて仕方がなかった。 そんなの気持ちは大石に通じたようで、先ほどよりは神妙な面持ちで頭を下げてきた。 「それにしても…随分とへこまされたもんだな」 スコアボードを一瞥しながら、大石は苦笑交じりのため息を吐く。 「すみません…先輩に代打を指名されときながら、こんな不甲斐ない試合 をして……」 「桃だけの所為じゃないにゃ。先輩の俺が、もっとしっかりしなきゃいけないのに…」 うなだれる桃城と菊丸を、大石は暫し無言で眺めていたが、 「桃。ちょっとこっちへ来い」 自分のバッグから一本のサインペンを取り出した大石は、手招きで桃城を呼ぶと、彼の腕に 何やら文字を書き始めた。 「う…うひゃっ!く、くすぐったい!大石先輩!何の真似っスか!?」 狼狽する桃城を他所に、大石は今度は反対側の腕を取ると、同じようにペンを走らせる。 はじめは、その独特の感触に身を捩じらせていた桃城だったが、やがてそこに書いてあるものが、 ただの落書きなどではなく、意味のあるものだという事に気付いた。 「いいか。判らなくなった時は、迷った時は、これを見ろ。お前たちの傍には、ちゃんと俺も 一緒にいるから」 「大石先輩…」 手の甲や腕など余す所なく、大石はダブルスに関する事項を書き連ねていく。 まるで、日本の昔話『耳なし芳一』のようだな、と見ていたは、桃城の身体に大石のアドバイスが増えていくうちに連れ、うずうずと手を動かし始めた。 「も!も書きたい!」 「はい?」 大きく挙手をしながら駆け寄ってきたに、大石たちは目を丸くさせる。 「いえ…あの、先輩。これは別に、落書きではないんですけど…」 「判ってるよ。ダブルスに関する事でしょ?だったら、俺にも書ける事があるもん!」 子供のように目を輝かせながら、は腰に下げていたツールバッグから、太字用のペンを出してくる。 「丁度、昔話よろしく桃くんの耳が空いてるから、ここに書いちゃえ」 「…うぇ?ちょ、待ってさん!それ、油性バリバリのポ○カじゃないっスか!」 「大丈夫、大丈夫。黒だから日焼け防止にもなるし♪」 「耳の後ろで、日焼けも何もないっスよ!…って、うわーっ!」 「桃ぉ!?」 「ありゃ?はみ出ちゃった。ま、いいや。続きは首に書いてけば」 「首って、首って何なんっスか!」 「ズダボロっスね、桃先輩」 『……もう、今更何も言わんが、制限時間だけは忘れるなよ』 「なーにやってんだ?あいつら…」 「まさか、テニスコートで吉本もどきが拝めるとは、思わへんかったわ。お捻り投 げたろかな」 「くそくそ、青学め!自分たちが負けてるって自覚、ないのかよ!?」 一方の氷帝ベンチでは、突如始まった相手校の異様な盛り上がりに、目を白黒させていた。 「…油断はするな。あの青学が、単に開き直りだけであのような態度を取るとは 考えられん。気を引き締めてさえいれば、この試合勝てる」 「──は、はい!」 指を鳴らせながら、氷帝の監督榊が、気の緩み始めた選手たちを諫めた。 『それにしても……』 桃城、という選手に何かを書き続けている青学部長の表情を見た榊は、自分の記憶の奥 底に潜んだ、ある選手の姿を思い出していた。 (何様のつもりだ!アンタに、選手の全てを否定する権利なんかない!たった一回 の敗戦だけで、何が判るんだよ!?これから無限に広がる何十回、何百回の 勝利への可能性を、アンタは潰すつもりなのか!?) 何年か前の地区大会。敗北した生徒にレギュラー脱落を告げていた自分に、怒りも露に食 って掛かってきた相手校の選手がいた。 幼いながらも、自分のテニスに確固たる誇りと自信を持っていたその選手は、少し前にJr選 抜で合宿に参加していた生徒だった。 別に、彼が正しく自分が間違っているという訳ではない。単に、テニスを巡る境遇と、考え 方の違いである。 だが、あの時の少年の瞳は、榊の中にほんの少しだけ波紋を投げ掛けていた。 ──せめて、もう一度会って話が出来たなら…… 「…せめて、彼が生きていたなら……」 「──監督?」 跡部の呼びかけに、榊は我に返ると、再び意識を試合に集中させた。 休憩が終わり、再びコートに両校の選手が現れる。 「あー、もー…気分転換が出来たのはいいけど、何だか休憩前よりも疲れた気がする っスよ。英二先輩、さんが書いてたのって、一体何なんスか?」 桃城に問い掛けられた菊丸は、彼の周囲を回りながら、両の耳から首筋にかけて無遠慮に 書き殴られた文字を確認する。 瞬間。 菊丸の表情が、目に見えて輝き始めた。 「残念無念、まった来週〜!」 これまでのお返し、とばかりに、菊丸のボレーが氷帝のコートに突き刺さった。 「4-4!」 「追いついた!?」 「マジ、信じらんねぇ!」 「ふっふーん。これで、借りは返したよん☆」 「…くそっ!」 すっかり調子を取り戻した菊丸をネット越しに見て、氷帝の向日は、悔しさに歯噛みする。 「岳人、落ち着き。…しっかし、何やあいつら…どう見てもダブルスだけの力やあらへん…」 パートナーに声を掛けながら、忍足は、タイム前とは雲泥の差の動きを見せる桃城と菊丸に、 不審な視線を向けていた。 「……宍戸、鳳。いつでも出られるようにしとけ。このゲーム、もうすぐ終わる」 試合の行方を、無表情のまま見守っていた跡部は、D1のふたりに指示を出した。 「跡部部長?」 「まだ、同点なだけじゃねーかよ!…まさか、負けるとでも言うのかよ!?」 声を荒げる宍戸を一瞥すると、跡部は些か面倒臭そうに口を開く。 「さっきまでのダブルスなら、間違いなく忍足たちの勝ちだが…相手が3人じゃ、分が悪いぜ」 「それって、どういう事っスか?」 「あいつら…3人でダブルスやってやがる」 「素敵な言葉ですね。さながら、ダブルスを制する36ヶ条の番外編ってトコかな?」 試合を見守りながら、大石は、隣に立つに声を掛ける。 「そう?…でも俺、結局お節介焼いて、大石くんの邪魔しちゃったかも」 「そんな事ないですよ。とっても先輩らしくて、俺好きです」 「…有難う」 穏やかに微笑む大石に、もまた嬉しそうに笑った。 コート内を動き回る桃城の耳元から時折見え隠れする、お世辞にも上手とはいえないの文字が、一緒にゲームを見つめる手塚の目にも、何故だかとても眩しく感じられた。 『喜びは二乗』 『悲しみは半分以下』 その後、桃城に書かれた『36ヶ条+アルファ』は、日を追う毎に薄れていったのだが、最後に首筋の文字が消えていく のを、桃城は心の底から残念そうにしていたという。 |