『継承』


強烈な跡部のスマッシュを受け止め切れなかった手塚は、衝撃で利き手から離れそうになるラケ ットを、辛うじて堪える。
『──手塚くん!』
片眉を顰めて歯を食いしばる手塚に、が呼びかける暇も与えず、跡部による二発目のスマッシュが、手塚のコートに突き刺さった。


「…よくやってるもんだぜ。その左腕でな」
「な…!手塚の肘は治ってる筈!?」
「──なるほど。肘か」

仲間を心配するあまり、大石の口からうっかり漏れた失言は、跡部の嗜虐心にも似た闘争本能と、その後の手塚 に対する執拗な弱点を攻めるという、ある種至極もっともな、ただし当事者にとっては文字通り痛い所を突いて くる作戦を招いたのである。
幾ら手塚といえども、過去の古傷という爆弾を抱えながら跡部と対等にやり合うには、些か分が悪すぎた。
結果、プレイし続けていく内に、あの立海の真田ですら「たまらん」と評する跡部の『破滅へ の輪舞曲』が、手塚の左肘だけでなく肩まで蝕んでいったのだ。


跡部の策に内心怒りを覚えながら、は、左肩を押さえて膝を折る手塚に呼びかけた。
『もういいよ、棄権するんだ!未だドチビがいるし、ここでキミがリタイヤしても、試合 は終わりじゃない!』
『嫌だ』
手塚にしては珍しい拒絶の即答を耳にして、は目を丸くさせる。
『俺に挑まれた勝負だ。棄権して跡部を喜ばせられるほど、俺はお人好しではない』
『──バカ!アイツが仕掛けた卑劣な作戦に、肩まで痛めた キミが、どうしてそこまで律儀に付き合わなきゃいけないんだよ!?』
『……ああ、そうだな。ただし、バカはバカでも「テニスバカ」だ。お前にも負けないくらいの』
『手塚くん…』
相当辛い筈なのに、それでも口元に不器用な笑みを浮かべた手塚に、は、思わず言葉を飲み込んだ。
『すまない、。俺は、お前が買い被っているほど、冷静な人間などではない。俺が…俺の身体が動く内 は、この勝負を捨てたくはないんだ』
浅い呼吸を繰り返しながら、手塚はに懇願するかのように言う。
そんな手塚の覚悟と決意を直に感じたは、暫し脳裏で逡巡した後、ゆっくりと返事をした。
『……何処まで通用するか判らないけど、スマッシュのタイミングずらしの為にも、出来る限り ストロークで揺さぶって。重心はいつもより低めに、ヘタに左を庇おうとしないで身体全体で対処するんだ』
…!』
『ただし!皆はともかく、審判かスミレちゃんのストップがかかり次第、終わりだからね!?そ れだけは約束して!』
『……有難う』
の返事を聞いた手塚は、ひとつだけ深く、先程までとは違った安堵の息を吐く。
身体を蝕む激痛からか、元々あまり良くない視界が、更にぼやけているような気がした。

予想外の展開に、跡部は内心で舌打ちをしていた。
(さっさとくたばれ!何で、未だ立ってやがる!?)
自分の計算では、『破滅への輪舞曲』を数発食らった時点で、手塚が左腕を庇いながら試合の主導権をこちら に渡してくるか、早々に棄権をするであろうと踏んでいた。
しかし、それどころか己の策に、傷付いた身体も厭わず真っ向から立ち向かってきているのだ。
「チッ、『火事場のクソ力』も、ここまでしつこいとかえって不気味だぜ……」
互いに決定打を許さないまま、不毛なラリーは続く。
利き腕を痛めているとは思えぬ手塚のストロークに、まるで、優勢な筈の自分が追い立てられているような 気がした跡部は、隠し切れないイラつきと焦りを、ボールにぶつけていた。

『腕を出すより、先に身体!頑張って、手塚くん!』
の声を受けて、手塚はベースラインスレスレの球を、懸命に追いかける。
逃げたくはない、負けたくはない。
その想いだけが、手塚をどうにか繋ぎ止めていたが、最早痛みは、彼の全身を支配していた。
球を返す度に、左腕は鉛のように重くなり、それだけは留まらず、脳神経の至る場所から引っ切り無 しに、声なき悲鳴が上がり続けている。
(負けない、俺は……!)
だが、
『……手塚くん?』
跡部の打球を返そうとラケットを振り上げた手塚の身体が、突如不自然な体勢で硬直した。
『どうしたの、手塚くん!?』
治まらない激痛と、これまで重ね続けてきた疲労に、ついに手塚の精神が耐えられなくなって しまったのだ。
『手塚くん、目を醒まして!手塚くん!!』
懸命に呼びかけるも、意識を失ってしまったのか、手塚は何も応えない。
このままではまずい、とは青学ベンチに視線を移したが、壮絶な試合を前に、竜崎をはじめメンバーの皆も、流 石に今の様子には気付いていないようだ。
中途半端に返された球を前に、跡部は口元を綻ばせると、とどめとばかりに 高々と振り被る。
『破滅への輪舞曲』が、意識のない手塚の身体に直撃する事を危惧したは、せめてそれだけは避ける為に、一時的に憑依して、手塚の身体を動かそ うとしたのだが。

『……!?』

その時。
跡部の口角が、勝者が浮かべる笑みとは違った、安堵の色も含まれていた事に気付いたは、激しい怒りがこみ上げて来た。
いざその時を迎えたら、その態度は何なのだ。
強者を自負するなら、最後まで強者の姿勢を貫く事は出来ないのか。
お前のそんな中途半端な覚悟の為に、手塚くんは、お前の嬲り者にされたというのか。
(──っ…!)
抑え切れない衝動に駆られたは、次の瞬間、己の感情を爆発させていた。


「!」
「返した!?」
コートに叩き付けられる筈の跡部の球は、その寸前右にラケットを持ち替えた手塚によ って、鋭いリターンが返って来た。
思いも寄らぬ反撃に、半ば勝利を確信していた跡部は、僅かに狼狽する。
「あれ?手塚さん、未だ頑張ってら。しぶといっスね」
「手塚が、右打ちだと…?」
ライバル校の立海をはじめ、試合を観戦しているギャラリーからも、同時にどよめきが起こった。
「悔し紛れのやけっぱちか、オイ?逆手で俺様の『輪舞曲』をかわした事だけは、褒めてやるけどなァ!」
「…だったら、臆してないでもう一度打ってきたらどうだ」
「……何だと!?」
それまで苦痛に苛まれていた男のモノとは思えない声が、跡部の鼓膜を刺激する。
手塚の挑発とも言える科白を聞いた跡部は、彼が放ったスローボールに、憎々しげな視線をやった。
「こんな状況になっても、ロブを上げるお前が悪いんだぜ」
今度こそ好敵手の息の根を止めようと、跡部は『破滅への輪舞曲』を繰り出す。
一発目のスマッシュは確実に手塚のラケットを捕らえ、返って来たボールに対して二発目の体勢を取る。
それを見ていた氷帝のメンバーの誰もが、今度こそ勝負を制した思っていたが。

「……いかん!跡部、待て!」

それまで、無表情で試合の行方を眺めていた監督の榊は、相手コートの手塚が、跡部に対して背を向けるよ うに身体を動かしたのを見止めると同時に、己の記憶の片隅にあった何かを思い出し、声を上げていた。
そんな榊の警告より先に、跡部の渾身のスマッシュが再度放たれる。
しかし。
「な…!?」
決まった、と思われたスマッシュは、相手の背中越しから繰り出されたボレーとなって、逆に跡部に襲 い掛かって来た。
至近距離のカウンターを受けた跡部は、咄嗟に対処出来ないまま、己のラケットを弾き飛ばされる。
「くっ!」
屈辱ともいえる反撃に、ぎりと歯を鳴らす跡部の耳に、至極硬質な声が届いてきた。

「──弾き手を止めれば、演奏は止む。そして、曲が終われば、輪舞も終わる」
「…あァん?」
「良かった。…俺、洋楽って苦手だから」

そう呟きながら顔を上げた好敵手の姿を見て、跡部は奇妙な違和感を覚えた。
ラケットを右に持ち替えた所為か、先程までの様子からはとても想像のつかないほど、目の 前の手塚は、落ち着いた表情をしていた。
心なしか、彼の髪と瞳の色素が薄く見えるのは、夏の陽光の為か。
しかし、それだけではない威圧感が、青学部長の周囲を取り巻いているよ うに見えたのだ。
「その気もない相手を無理矢理踊らせるなんて、いい趣味してるじゃないか。もしもこれが女のコ だったら、肘鉄かビンタの一発二発で、その唯一のとりえの綺麗な顔が腫れてるトコだぞ」
「……何ほざいてやがる」
「今度はこっちの番。輪舞曲ほどじゃないけど、無理矢理踊らされる苦痛、その身を以って味わってごらん」
「テメェ、手塚…!」
いきり立つ跡部に向かって、ラケットを持ったままの右手が、真っ直ぐ相手の胸元に向けられた。
思わず言葉を止めて目を見張る跡部を捉えた後で、わざとらしいまでに仰々しい仕草で左手を胸元に当てると、片足を 後ろに下げながら、軽く一度膝を曲げてみせる。

「一曲。──踊って頂けますか」

そう静かに語る青学部長の双眸は、しかし激しい怒りに満ちていた。






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