『継承』


青学と氷帝のS1対決を見守るギャラリーの中に、訝しげに目を細める、ひとりのテニス選手 の姿があった。
「何じゃ…」
「どうしました、仁王くん?」
そんな彼の仕草に気付いたのか、同じジャージを着た眼鏡の青年が声を掛けてきた。
一度だけ小首を傾げた後で、仁王と呼ばれた青年は、己の口元に浮かんだホクロを、その節 くれた指で数回掻く。
「…やはり、君もそう思いましたか。痛めた腕の代用とはいえ、あの手塚くんが右腕で試合 をするなんて、随分珍しい事もあるものですね。それにしても、利き手を変えただけで、こ こまでプレイスタイルが変わるとは……」
言葉を切って思案にくれる眼鏡の選手を余所に、仁王は、誰にでもなく呟きを繰り返した。
「違う。…『誰』じゃ?アイツは……」

(許さない…許さない……)
右手に握り締めたラケットを操りながら、は抑え切れない激情を、ボールにぶつけていた。
己自身の勝手な美意識の為に、手塚を弄んだ事。
勝負の為とはいえ、ろくな覚悟も持たずに、手塚の心身を必要以上に痛めつけた事。
(俺は、お前を絶対に許さない…!)
そして何より、自分の大切な手塚を傷付けられた事に、はこの上ない怒りを漲らせていたのだ。
逆サイドをつこうと繰り出された跡部の打球を、は絶妙な足さばきで体勢を変えながら、彼の右脇目掛けてショットを返していた。

「いかん!まさか、の奴…!」
『手塚』の変化にいち早く気付いたスミレは、思わず声を上げると目を見張った。
「何ですって、が!?」
続いて、コートで試合をする青学部長の様子を見ていたレギュラーたちも、驚愕に表情を変え始める。
「どうして、さんが、部長の代わりに試合を?」
「まさか、手塚の身に何か…」
「……判らん。しかし、現にあそこで闘っているのがならば、今のあやつは、相当な怒りに支配されている筈じゃ。このままじゃ…」
かつてのを知るスミレは、彼の全身から漂う怒りの感情を見て、渋面を作った。
そして、今までどちらかといえば余裕の雰囲気で勝負の行方を見ていた氷帝陣も、思わぬ展開に 戸惑いの色を見せ始めていた。
「何や…跡部のヤツ、少し押され始めてきてへんか?」
「くそくそ、手塚のヤツ!無駄な抵抗してねーで、さっさとギブアップしろよ!」
「だけど、単にやるね…ってレベルじゃないよ、アレ。逆手であの跡部とやりあうなんて、何処 までの底力?」
「それに、手塚さんのプレイスタイル、さっきまでと全然違いませんか?何だかあの ステップ、日吉に似てる所があるよね?」
「一緒くたにしないでくれ。…でも、確かにステップというよりは、何処かすり足っぽいカ ンジもするな。……そう、例えるなら日舞のような」
同級生の鳳の言葉を聞いて、日吉は、改めてコートのふたりの姿を眺める。
手塚からの執拗なボレーの応酬に、いつしか跡部の方が劣勢になっていった。
「チィっ!手塚、テメェ…」
その美貌を僅かに歪める跡部に気付いたのか、ネット越しの『手塚』の口元が綻んだ。
「言わなかったっけ?今度は『一緒に踊って貰う』って」
「!」
直後、強烈なカウンターが跡部を襲った。
辛うじて体勢を変えた跡部は、ベースライン手前まで後退すると、片手ではさばき切れず両 手でロブを返す。
『破滅への輪舞曲』で痛めた手塚の腕では、それほど強いスマッシュは打てまい、と判断し たからである。
しかし、
軽く勢いをつけながら、地を蹴った『手塚』の身体が宙に浮かぶのを見た瞬間、跡部は自分の 決断が誤りであった事を痛感した。
「…っ!?」
「貫けーっ!」
桃城ほどではないが、跳躍した『手塚』は、身体を僅かに捻るとそのまま渾身の力を込めて ラケットを振り下ろす。
まるで、強靭な槍のように一直線に伸びたスマッシュは、跡部の左肘を掠めながら、そのまま コートに突き刺さった。
あえて左肘を狙ったスマッシュに、跡部は忌々しげに表情を歪めながら、ネット越しのライバ ルを窺おうと、右手を眼前にかざす。
「…!…ど、どういう事だ…?…」
だが、明らかにそれまでと全く様子の違う『手塚』に気付いた跡部は、彼にしては珍しく焦り の色を見せた。

「…バカな!?」
通常の手塚からは考えられないスマッシュに、跡部だけでなく、氷帝テニス部監督の榊も、 彼にしては珍しく感情に声音を変えると、ベンチから立ち上がっていた。
そんな榊の様子に驚いたのか、レギュラーたちは彼と跡部を代わる代わる見比べる。
「あの独特のステップから繰り出されるボレー、そして間違いない、あのスマッシュは『グン グニル』と呼ばれたもの……だが……」
「監督…?」
「何故、君がそれを使う事が出来る…?あの技を持つ人物は……青学のは、4年前に死んでいるのだぞ……!?」
言いながら、榊は己の記憶の奥底に眠っていた、かつてのテニス選手の姿を、明確に呼び覚ましていた。


「ふざけんな!何様のつもりだ!」
4年前の地区大会で、氷帝テニス部は決勝で青学と対戦した。
既に都大会への出場権は得たものの、ライバル校である青学との決戦は、熾烈を極めるもので あった。
結果、ダブルスとシングルスをひとつずつ落とした末の勝利に終わり、試合後、いつものように敗 者にレギュラー脱落を言い渡していた榊は、そこで思わぬ横槍を入れてきた人物を目の当たりにす る事になったのだ。
「アンタに選手の全てを否定する権利なんかない!たった一回の敗戦だけで、何が判るんだ よ!?これから無限に広がる何十回、何百回の勝利への可能性を、アンタは潰すつもりなのか!?」
それは、少し前のJr選抜でも顔を合わせた事のある、青学の部長であった。
「選手よりも指導者になりたい」という、ちょっと変わったヤツが部長になった、と青学の竜崎 スミレが苦笑まじりに零していたが、テニスの実力もさる事ながら、何よりもテニスを愛し、自 分なりの美学を貫く姿勢を持った、榊の目からも見所のある選手と映っていた。
今にも泣きそうな顔のまま、自分に怒りを向けてくるに、榊は青臭いと感じながらも、これまで自分に食って掛かるような選手がいな かったので、何処となく新鮮な気持ちすら抱いていたのである。
程なくして、は竜崎やチームメイトに引き摺られるようにして去って行ったが、そんな彼の姿や言葉 を、榊はどうした訳か忘れ去る事が出来ずにいた。

大会後、脱落したシングルスの選手は、テニス部と氷帝学院を辞した。
テニスの特待生として入学していた彼にとって、敗者に厳しい氷帝にこれ以上留まる事は出来な いと思ったのだろう。
これまでにも同じような生徒は数多く居たので、榊は、退部の旨を伝えに来たその生徒に、 淡々と最後の挨拶を交わしていた。
「でも俺、テニスはやめません。細々とですが、これからも続けていきます」
何処か吹っ切れたような表情で告げてきた彼に、榊はひと言「身体に気を付けて、頑張りたまえ」 とだけ返した。
それっきり、二度と顔を合わせる事はないと思っていたが、その後、地元の学校でテニス部に入り直 していた彼は、一年後の全国大会で、今度は氷帝の敵となってその姿を現した。
氷帝時代のクセや未熟だった精神面も強化され、試合こそ勝ったものの、当時のナンバー1だっ た氷帝の部長を、見事S1で打ち負かせた程に成長していたのだ。
かつての選手の予想外の成長に、榊は驚きと喜び、そして、あの時のの言葉を感じずにはいられなかった。
相性の問題もあったのだろうが、氷帝を離れた選手の活躍を目の当たりにして、ほんの少しだけ 「もしかしたら、あの時の自分の判断は間違っていたのだろうか」という考えが頭をもたげたの は、隠し様もない事実だった。

もしも、『彼』ならば何と言っただろう。
自分のいったとおりだ、とその幼い顔を綻ばせながら、得意気に鼻でも鳴らせたのだろうか。
或いは、氷帝を離れた選手の成長を、喜んだのであろうか。
叶うものならば、『彼』と話をしてみたかった。
しかし、それはもう出来ない。

何故ならば、地区大会後暫くして、『彼』はこの世を去ってしまったのだから。






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