「インサイト」で、ネット越しの宿敵を捉えた瞬間、跡部は驚きと戸惑いを隠せなかった。 馬鹿な、ありえない。 何で『テメェ』が、そこにいやがる。 無意識に震え始めた右手を下ろした跡部は、ギリリと歯を鳴らせながら顔を上げると、眼前の 相手の姿を己の視界一杯におさめた。 見知った筈の青学部長の影にちらつく、まったく違う男の顔。 歳の割りに何処か幼さを残したそれは、怒りに燃えた瞳で自分を睨み返している。 「…冗談キツいぜ、手塚。いや…テメェは………!」 己の疑惑が確信に変わった瞬間、跡部は半ば唸るように彼の名を呼んだ。 「──気付いたんだ」 「タチの悪ィ夢なら、とっとと醒めて欲しいモンだがな…あれだけ俺様との勝負に逃げてた テメェが、どうした風の吹き回しだ」 「お前に話す理由なんか、ない。ただ、俺はお前を許せないだけ」 「…アァン?」 「『良く頑張ってるね。その身体で』」 「!」 思わぬ反撃を受け続けている内に、跡部の身体も流石に疲労を覚えてきていた。 それだけではない。 己が手塚にしたのと同じように、の容赦ないカウンターによって、跡部の左肘は、疲労以上の負担がかかり始めていたのである。 「ちっぽけな拘りの為だけにヒトを痛めつけた割りには、非情にもなり切れない。技術も人間と しての器も何もかも…まだまだ浅いんだよ。おぼっちゃん」 「テメェ…!」 「俺は、お前のような事はしない。お前みたいな……中途半端な真似はしない」 跡部が舌打ち交じりに睨み返すも、はそんな彼に向けて無関心な一瞥を寄越し、右手に握られたラケットを構え直した。 「ありえん…あんな手塚は、俺は知らん……」 「…完全にデータ外だ。何かの時の隠し球だったとしても、あそこまでの変わりようは、不自然すぎる」 観客席の一角で、立海の真田と柳は、僅かに表情を硬くさせながらコートを見つめ続けていた。 ふたりの間に挟まれるようにして立つ切原も、何故だか尻の辺りに痛みを覚え始め、渋面を刻んでいる。 その時、 「あのプレイ、もしや…かつて我ら立海最大の『障壁』とも言われた、青学無敵のD1…?まさか…」 微かな呟きを耳にした真田達は、やや後方に控えた彼らより多少年長者と思われる青年を振り返った。 「錦先輩。何ですか、今のは?」 「…え?ああ、ただの独り言だよ。腕の鈍った老兵の言う事なんて、聞いたってつまらないだろ?」 「大人気ない事を言ってないで、さっさと話して下さい」 口の減らない後輩の要求に、立海テニス部OBの錦は、苦笑交じりに言葉を続ける。 「俺の兄貴も立海テニス部だったのは、知ってるだろう?その頃は、今よりも各地への対外試合を頻繁 に行ってたんだ。青学もそのひとつで、総合的な実力では勿論ウチが上だった。…ただひとつを除いてな」 「ただひとつを除いて?」 首を傾げる切原に、錦は小さく頷きを返した。 「…D1。俺も、実際目にしたのはほんの数えるほどだったけど、当時青学のD1は、最強と謳われたウ チの選手たちがどうやっても勝てなかった、ある種脅威の存在だったんだ」 「それが、今と何の関係が?」 「あの手塚という奴のプレイは…当時青学D1だった選手のひとりに、良く似ている」 「何ですって?」 「では手塚は、その人物から技を教わったと?」 「それは無理だな。ありえない」 即座に否定した錦に、柳と真田は目を見張る。 「一度として打ち負かせなかった青学のD1は、4年前にぷっつりと消息を絶ってしまったんだ。それから間もなく、 青学は急激に弱体化した。今でこそ持ち直しているようだが、当時の変わりようは、ウチの監督ですら驚い ていた程だ」 「どうして急に?」 「詳しい事までは判らないが…噂では、D1のひとりだった選手の死にあるらしい」 「死…」 「──だから、『教わるのは無理』って言ったろ?」 眉根を寄せた真田に、錦はそう言って肩を竦めた。 「あやつは…昔から、シングルスよりもダブルスの方を好んでいた」 年齢だけではない皺を眉間に刻んだスミレは、深刻な表情で呟いた。 「『ひとりはイヤだ。誰かと一緒がいい』ってね。…甘ちゃんにもほどがあるが、それでものダブルスの実力は保証つきだったから、アタシも最初は特に気には留めていなかった。…じ ゃが、」 そこで一旦言葉を切ると、スミレは、コートで繰り広げられている試合を見る。 「は…テニスの強さよりも何よりも、人との和や絆を重んじる。そして、テニスを通じて知り得た仲間 を大事にする反面、その仲間が理不尽な目に遭った時には、徹底した報復に出る事があるんじゃ」 「それは、一体?」 そう問うてきた乾に、スミレは出来るだけ簡潔に説明する。 何でもの生前、とある大会で反則スレスレの攻撃型テニスで、青学のシングルスの選手を負傷・破った他校の 選手を、別の機会に自らシングルス出場を宣言したが、その相手とまったく同じ戦法を用いて、完膚なきまでに叩きのめしたそうである。 肉体的にも精神的にもにねじ伏せられた対戦相手は、その後、立ち直るまでにかなりの時間を要したらしい。 「……が、選手でなく指導者を目指していると言ってきた時、アタシは、心の何処かで安 堵していた。あやつは優しすぎる。テニスをするのにあそこまで強固なヒトの情を持ち込んでは、こ れから先の勝負事はやっていけん」 「……」 「今、手塚を差し置いてが出ているのも、おそらくそういった事が絡んでいるのだろう…手塚の事も気になるが、そ ろそろを止めないと。あそこまでの怒りようじゃ、ヘタをすると跡部を同じ目に遭わ せようとしているのかも知れん。手塚がどうにか、制してくれればよいのだが……」 スミレが口にした危惧に、メンバーは一斉にコートの青学部長へ視線を投げ掛ける。 止めなければと思いつつも、初めて目にする本気のに、一同はどうしても口を挟む事にためらいを覚えていた。 もしも、4年前にあの事故がなければ。 きっとは、今でも縦横無尽にコートを駆け抜け、大好きなテニスを続けていたのだろう。 でも、今のは危険すぎる。 そして、彼と意識を共にしている手塚は、果たして大丈夫なのか。 「……何やってんのさ。俺に勝っといて、負けんな」 それまで無言のままコートに立つ青学部長の背中に視線を集中させていたリョーマは、不機嫌そう に愚痴を零した。 の逆サイドをついたショットを追いかけた跡部は、バックハンドで返した瞬間、左腕 に嫌な痺れを感じた。 「くっ…!」 僅かに顔を顰める跡部とは対照的に、は無表情のまま、しかし確実に跡部を追い詰め始めていた。 彼に攻撃のチャンスを欠片も与えず、ネット際へと移動しながら、得意のボレーを繰り出し続ける。 「せいぜい食らい付いておいで。全部残さず返してあげるから」 「チィッ!」 憎らしいまでに平静なの声を聞いて、跡部は苛立ち混じりに声を荒げる。 だが、『輪舞曲』を完全に封じられた今、圧倒的に不利なのは自分の方である。 (負けるのか…?まさか、この俺様が……!) 不意に芽生えた負の感情に、跡部は驚愕と怒りを覚えたが、執拗に襲い掛かるのネットプレイに、防戦一方に徹する事しか出来ない。 「…っ!?」 ほんの僅かな気の緩みが表に出た跡部は、ボールに対する反応が遅れた。 真っ芯を捉え損ねたボールが、まるで吸い込まれるようにしてネット越しのへと返っていく。 「しまっ…!」 「──もう、終わりにしよう」 言いながら、半身を捻ったが、今まさに引導を渡そうと、己の手首を翻した。 その時、 『──やめるんだ、!』 脳裏に響いた警告とも言うべき声が、思わずの動きを止めた。 打ち損ねたドロップショットは、相手コートに落ちる事無くネットに引っ掛かる。 決まったかと思った勝負の思わぬ展開に、ネットの向こうにいる跡部も呆気に取られたような表情をしていた。 『もう、いい。やめるんだ、』 『…手塚くん。でも、俺…こいつ許せない……』 『俺がやめろ、と言ってるんだ。聴こえなかったのか?』 『……』 それまで途絶えていた手塚の意識に安堵しながらも、横槍を入れられたは、しぶしぶ彼と交代した。 直後、髪や瞳の色が元通りになった手塚が、未だ状況を良く飲み込めないでいるライバルへと視線を移す。 「──すまなかったな、跡部」 「手塚…」 「信じられないだろうが…今、俺の中にはがいる。ストリート場でお前に会っていたのも、俺の身体を借りただ」 「…そいつは一体、何モンなんだ」 「誰よりもテニスが好きで、いつかテニスの指導者になる事を夢見ていて…そして、その夢を理不尽極まり ない手段で、永久に奪われた男だ……だが、」 止まらぬ汗に紛れた目尻の水滴をさり気なく拭いながら、手塚は言葉を続けた。 「の想いは、引き継がれている。彼の残した『青学魂』は、今でも俺達に継承されているんだ。だか ら俺は…俺達は、負けない」 「…御託はいい。ちょうどこれからタイブレークだ。お互いどっちが先にぶっ倒れるか、勝負と行こうじゃねぇか」 「跡部…」 片手で髪を掻きながら、跡部は些か毒気を抜かれたような顔で応える。 「それから…!テメェには言いてぇ事が山ほどあるが、今は見逃してやる。ただし、これ以上余計な真似はすん な。いいな?」 『……』 ぶっきら棒な口調だが、仄かに微笑んでいるような跡部の表情に気付いたは、不思議な気持ちで見つめ返していた。 その後。 長時間に及ぶタイブレークの末、勝利を収めた跡部は、敗者の手塚を蔑む事はせず、己に最後まで食らい 付いてきた好敵手を讃えるように、彼の腕を上げて見せた。 観客の喝采も、仲間達の祝福も余所にベンチに引き上げた跡部は、榊の前まで進むと、口を開く。 「監督。あなたは以前、俺の質問にちゃんと答えてくれませんでしたね?今日こそ、聞かせて貰いま すよ。…昔、青学にいたという男の事を」 いつもの何処か不遜な態度とは異なった、まるで拗ねた子供のような跡部の表情を、榊は興味深げに眺 めていた。 |