『継承』


関東大会が始まって間もなく。
東京某所の『月刊プロテニス』デスクにいた井上は、予想外の来客に目を見開き、更に その人物から思いがけぬ言葉と共にデータの入ったディスクを乱暴に手渡されると、中身を確 認した後で激しく狼狽した。
「これは…」
「言いたい事は判るぜ。正直俺も驚いたが、今までコイツに関しては、半ばアンタッチャブルじみた 扱いだったそうじゃねぇか」
傍らに大男を従えたその人物は、不敵に眉を顰めると、僅かに語気を強めながら言 葉を重ねた。
「仮にも出版のプロなら、今からでもテメェの職務を全うしやがれ。これまでやりた くても出来なかった事のすべてをブチまけろよ」
「しかし…」
「心配すんな。今回の件に関しては、この跡部コンツェルンが、全面的にバックアップしてやる」
年齢にそぐわぬ風格を持つ少年は、髪をかき上げた後で井上に向かって妙に芝居がかった動作で、 人差し指を突きつけた。


壮絶な氷帝との第一回戦を終えた青学テニス部は、跡部との試合で利き腕を痛めた手塚の戦線離脱 により、大幅な編成のし直しを余儀なくされていた。
「……という訳で、手塚は療養の為に九州へ行く事になった。だが、大会はこれからも続くんだか ら、気を緩めるんじゃないよ」
「お前たちの活躍に期待しているぞ。俺も、治り次第すぐに駆けつける」
「ハイ!」
何処へ、と言わずとも、今の彼らには手塚の言わんとする事がよく判っていた。
一丸となって全国を目指す、部員達の頼もしい声を聞いた手塚は、感慨深げに頷くと、手元の時 計に目を走らせる。
「すみません、先生。色々と用意が必要なので、今日はこれで失礼します」
「おお、そうかい」
言いながら荷物を片付ける手塚に、スミレはさり気なく近付くと、もうひと言だけ付け加えてきた。
「ちょいとお待ち」
「?」
「いいかい?くれぐれも……気をつけてお行き」
「……ん」
スミレの言葉から数秒遅れて、手塚の口からぎこちない返事が返って来る。
あえてスミレから背を向けたまま、やがて荷物を纏め終えた手塚は、己に向かって伸ばそうとしてい た手を引っ込めている彼女から、足早に去って行った。


家に帰った手塚は、九州に向かう為の準備を済ませると、自室の壁にもたれながら、窓の外を眺めていた。
『──大丈夫?』
彼にしては珍しくだらしない様子を見て、はためらいがちに声を掛けた。
「……どうした?」
『あ、あの、その…』
「俺だって、たまにはこんな時もある。お前の為にも身体を休めてるんだ。安心しろ」
淡々と返されたは、少しだけ居心地悪そうにしながら彼に従った。
そのまま、ふたりで亡羊と外の景色を見つめていたが、やがて夏の太陽が西へと沈みかけるのを認 めると、立ち上がる。
「そろそろ、行くか」
『うん』
手塚と交代したは、ラケットケースとシューズその他の入ったバッグを担ぐと、家を出た。
そのまま、自転車のある車庫に行こうと足を向けかけたが、手塚に止められた。
『──歩いて行かないか?』
「え?」
『未だ、時間は充分ある。だから…ゆっくりと、ふたりで歩いて行かないか?』
「…そうだね」
は頷くと、門を出て歩き始める。
そのまま暫く無言でいたが、
「…ゴメンね」
『何がだ?』
「あ、えっと。俺が余計な真似した所為で、アイツにまで手塚くんとの事がバレちゃって…」
『もういい。それに、あの時お前がいなければ、俺は跡部の打球を食らって、更に酷い怪 我を負っていたかも知れん』
穏やかな手塚の声を聞いて、は少しだけ安堵する。
『それより…俺の所為で、お前に余計なハンデを負わせてしまってすまない』
「そんな!手塚くんは何も悪くないよ!これまで手塚くんが不自由してたのだって、みんな俺の……」

慌てて謝罪の言葉を返そうとしたを、手塚の呼び掛けが遮った。
『俺は、今まで一度たりともお前の所為でなどと、思った事はないぞ』
「手塚くん…」
『勝てそうか?』
重ねて尋ねられ、は、一瞬口を噤む。
「……判らない。でも、勝ちたいとは思ってる」
『そうか』
「もしも…もしも負けてラケット壊されちゃったら、俺のお小遣いで新しいの買ってくれる?」
『手付金にもならなさそうだがな』
笑いを含んだ声で揶揄されて、は軽く首を竦める。
『冗談だ。お前の資金とやらは、テニス部の部費に加えさせて貰うとしようか。それより…忘れる な。お前はひとりじゃない事を』
「…え?」
『お前はこれから、ただ試合をする訳じゃない。目先の勝ち負けに固執しすぎ て、本当に大切なものを見失うような真似だけはするな。いいな?』
「…うん」
『それだけ判れば、充分だ。後は…』
「──油断しないで、行こう」

ふたりで声を揃えた後は、脇目も振らずに歩き続けていた。
やがて、ストリート場に到着すると、思わぬ人だかりを目にする。
「あー、来た来た」
「試合前の調整も兼ねて、1〜2時間のゆとりを持っての入場…想定の範囲内だな」
「みんな…どうしたの?」
到着を待ち侘びていたとばかりに、菊丸や乾をはじめとする青学メンバーたちが、 と手塚を迎えてきたのだ。
「当たり前じゃない。こんな面白そうな勝負、ひとりでこっそり楽しむなんて、そうはいかないよ」
帽子を被り直したリョーマが、したり顔で目を丸くさせたを見つめ返す。
「部長は沈黙を通してたけど、ストリートの話をして以来、絶対にさんが、勝負に出るって判ってたっスから。張り込んでたんスよ」
「オメェひとりの手柄のように言うな。発案は、先輩達だろうが」
「そーいうお前だって、結構積極的に話にノって来てたじゃねぇか」
「なっ!?お、俺は別に…」
桃城に突っ込まれた海堂は、途端に慌て始める。
「頑張ってね、。今度は君の番だ」
「これまで、貴方や青学テニス部を煩わせてきたすべてを…今日でおしまいにしましょう」
河村と大石に励まされ、は小さく頷くが、何故か河村の隣にいる不二をはじめ、メンバーの殆どがラケットを 携帯している事に気付き、数度目を瞬かせた。
「…ああ、コレ?もしもの為にだよ」
「今回のは、単にお前と彼との勝負ではないからな。や彼をはじめとする、かつて悲劇に見舞われた青学テニス部と、俺達を繋ぐ大事 な試合だ」
「そうそう。だから、安心して負けていいよ。その時は、俺がリベンジしてあげるから」
「みんな…」
メンバーの気遣いに、は心の底から嬉しそうに微笑む。
「有難う。──でも、まずは俺がやらなきゃいけない。4年前の事も含めて何もか も…俺達の手でやらなきゃいけないと思うんだ」
「…俺達?」
菊丸の問いに、は首肯しながら、コートの向こうにいる人物に視線を移す。

歳を経て多少大人びてはいるものの、それでもあの頃の面影を残した長身の男が、 反対側のベンチサイドへ歩いている姿を見止めたは、僅かに表情を硬くさせた。






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