『継承』


コートの反対側でウォーミングアップを始めた、かつての相棒の姿を見止めたは、自分の胸に例えようのない様々な想いが流れ込んでくるのを覚えた。
『彼』と最後に顔を合わせたのは、4年前のあの日。

「どうしてもダメなの〜?」
「ダメだ。ラケットくらい、ひとりで取りに行け」

調整の済んだ新品のラケットを見せびらかすつもりで、『彼』の元へ放課後の誘いをしたものの、 すげなく断られてしまった昼休み。
ふくれっ面で抗議する自分を宥めながら、「明日なら、幾らでも付き合ってやるから」と、歳の割 りに少々大人びた風貌を持つ『彼』の苦笑は、の熟知したものであった。
そんな笑顔に溜飲を下げたは、友人と共に教室を後にする『彼』の背中を、いつまでも見送っていたのだ。

「また、明日な」
「うん、また明日朝練でな!」


何気なく交わした、いつもと変わらぬ挨拶。
まさか、それが今生の別れの言葉となってしまうなどと、この時誰が予想出来たと言うのだろうか。


(お前は、どれ程苦しんだ?…いや、今もどんだけ苦しんでるんだ?)
「…ぃ」
(俺なんかの為に…どうしてお前はそこまでして……)
「──おい、聞いてるのか?」
『どうした、?』
「──え!?あ…」
「…ったく。乱入半分で、俺との対戦をもぎ取ったヤツとは、とても思えんな」
手塚の呼びかけに続いて、呆れ返ったような青年の様子に、は何処か懐かしさを憶える。
「試合の前に、一応ルールの確認だけしておくぞ。1セットマッチのノーアド方式。賭けるものは、互 いのラケット。何か、質問はあるか?」
「それなんだけど」
いつかストリート場で会った元青学テニス部の加瀬(かせ)と並んで立つ青年の長身を見上げながら、は努めて淡々とした口調で切り出した。
「俺は、アンタのラケットはいらない。だって、俺にはそんなモノ必要ないから。その代わり……」
「…何だ?」
「俺が勝ったら、今から4〜6年前の、青学テニス部のダブルスに関するスコアその他が書かれたファイル。…ア ンタが持ってったんだろう?返してくれ」
否や、それまで訝しげに小首を傾げていた青年の表情が、一瞬にして険しいものに変わった。
彼の隣にいる加瀬も、困惑気味に青年とを見比べている。

ダブルスの研究をしたいという菊丸たちが所持していた昔のファイルを目にした時から、の中ではある種の予感めいたものが働いていた。
何故なら、抜き出してあった資料は、すべてたちの現役時代に関するものだったからだ。
菊丸が見つけるまでずっと『開かずの戸棚』に放り込まれていたファイルから、その部分だけ紛 失するというのは不自然だし、現在の青学テニス部で4年前の出来事を知る人物は、ごく限られた者だけだからである。

「…俺には、お前が何を言っているのか判らんのだがな」
「あれは、青学テニス部の大切な資料だ。後から入ってくる後輩達の為にも必要なものなんだ」
「……はじめが大和で、次が井坂。そして、とうとう現役のお前と来たか。つくづく俺は、青学テニス部に付きま とわれる運命にあるものだな」
「運命なんかじゃない。それはお前…アンタが、今でも青学テニス部との絆を……」
「黙れ!」
「お、おい!落ち着けよ!」
…?』
試合も始まっていない内から、両者の間に近寄り難い緊張感が駆け抜ける。
ただならぬ気配に、加瀬と手塚だけでなく、他の青学メンバーも思わず目を見張った。
「ここまで俺に舐めた口をきくヤツがいるとはな…お前がご大層に考えている青学テニス部なんざ、何の価値 もないって事、俺が身をもって思い知らせてやる」
生意気な対戦者の身に纏う、青と白を基調としたレギュラージャージを忌々しげに見下ろした青年は、 ラケットを持った左手を、に突きつけて来る。
青年の怒りの表情に覗く微妙な陰影を、は、複雑な想いで見つめ返していた。


「な、何か随分険悪な雰囲気になっちゃったね…」
ハラハラしながら言葉を綴る河村に、乾は表情を変えずに答える。
「おそらくあれは、半分心理戦の意味もあるのだろう。いくらかつてのチームメイトとは いえ、大学生になった彼と15歳のままのでは、分が悪い」
「でもさ、あんなに相手たき付けちゃって、大丈夫なの?」
だらしなくベンチに腰掛けながら、リョーマは、手にしたファンタを一口飲む。
「…は、ただ試合に勝とうとしてるんじゃないと思う」
僅かに瞳孔を開いた不二は、目を丸くさせて自分に向き直ってきた後輩に、小さく微笑みかけた。
「きっと、は確かめたいんだと思うよ。これまでずっと会えなかった、自分の大切なパートナーの事…」
手塚の陰に見えたの真剣な横顔を一瞥すると、不二は河村と、彼の隣の大石と菊丸に視線を移す。
やがて、青年のサーブから試合開始の声が上がると、一同はコートに意識を集中させた。
「チッ。相変わらず、ラケットトスの悪運だけは強いときやがる。大体年下相手なんだから、ちょっとく らいハンデくれたって…」
『大丈夫か?
口中でブツブツ呟くに、手塚は声を掛ける。
「ああ、うん。平気」
軽く地面を蹴りながら、は返事をする。
『…無理してないか?』
「え?どうして?」
『いや…何だか、俺には今のお前が、とても試合に臨んでいるような様子に見えないのだが』
「やだな。気のせいだよ…って、うわっ!」
ぎこちない手塚の問いに、もまたぎこちなく答えるが、そうしている内に、青年からの力強いサーブが、コートに襲い掛かってきた。
慌てて言葉を切ると、バックハンドで捌きにかかる。
「うー、流石に左相手はちょっと分が悪いな…」
『すまん。俺が肩を痛めなければ…』
「ううん。どちらにしろ、俺じゃ左は上手く使えない。…まして、あいつが相手じゃ」
長身から繰り出される青年の打球を、は持ち前の柔軟性でかわし続けるが、一瞬のスキをついて、青年の対角からのショットが、足元に突き刺さった。
「15-0」
無機質な加瀬の声を聞きながら、は手の甲で汗を拭う。
「…大和の言った通りだ。あいつのショット、昔より威力も正確さも増してきてる」
素直に感想を述べたは、改めてネット越しに対するかつての相棒を見た。
これだけの実力を保持しながら、どうしてお前は、裏のストリートなどにいるんだ?
何故、そこまでテニスを…青学テニス部を拒もうとするんだ?
──それは、みんな俺の所為なのか?
『…!?』
脳裏で悲観的な感情を持て余していたは、つい試合中であるという事を忘れていた。
手塚の声に我を取り戻すも、対処し切れずに青年の放ったドロップショットに、ラケットごと弾き飛ばされる。
…じゃない、手塚!」
コートに倒れたの姿に、青学メンバーも、思わず立ち上がる。
『しっかりしろ。試合はまだ始まったばかりだぞ!?』
「でも、俺は…俺の所為であいつ…」
『甘ったれるな!』
弱音を吐くに、手塚の叱咤が響き渡った。
『一度コートに立ったからには、泣き言など許さん。それに、彼との対戦を決めたのは、お前じゃなかったのか?』
「手塚くん…」
『だいいち、今の彼の原因がお前だという証拠が、何処にある?そんなのは、お前の勝手な憶測 に過ぎない。それともお前は、彼が自分の身に起きた事をすべてお前の所為にするような、そんな情けない 男だと思っているのか?』
「──!」
『…逃げるな。すべてにケリをつける為にも、ちゃんと彼と向き合うんだ』
「……判ったよ。有難う、手塚くん」
上体を起こしたは、ラケットを握り直すと目を閉じる。
そして、そのまま深呼吸を一回すると、ゆっくりと瞼を開いた。
引き締まった表情のを、少しだけ不審に思いながら、青年はサーブを放つ。
素早くボールに駆け寄ったは、ベースライン際で打ち返すと、そのままネットまで移動する。
「アプローチショット…?この俺にネットプレイを仕掛けるつもりか?」
そうはさせじと、青年は利き足を踏み出すと、フォアハンドで球を捕らえた。
このまま、ラインギリギリへと突き放すつもりでいたが、
「な…!?」
「…良かった。お前、ベースライナーだったから、今でもネットプレイは嫌ってると思ってた」
ごく小さな声で囁いたは、絶妙な足捌きで青年から背を向けると、そのままラケットを振り上げて 青年の打球を叩き返した。
「さ…30-15!」
の反撃に、ギャラリーから歓声が沸く。
青年は、驚愕に顔を歪めながら眼前の対戦相手と、その横で審判役をつとめる 加瀬を見た。
青年の視線に気付いた加瀬は、伏目がちに言葉を返す。
「…だから、言ったろ?今度の相手は只者じゃねぇって」
「どういう事だ…何であのガキが……」
「知らねぇよ。ただ言えるのは、そこの中坊が『アイツ』の技を知ってるって事。そ して……『アイツ』の存在は、完全にこの世から消えた訳じゃねぇって事だ」
「──バカな!認めない!俺は…!」
加瀬の言葉を拒絶するように頭を振った青年は、再度ネット越しの中学生を睨みつける。


ユニフォームの所為か、青年の瞳には、相手の姿に紛れてかつての大切 な人物の影が、幻のようにちらついていた。





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