『継承』


両者一歩も譲らぬ展開に、一同は、ただ見守る事しか出来ないでいた。
互いにブレイクする事無く進み続け、いつしか試合は最終ゲームへと突入していく。
通常ならとっくに勝負を決められる筈が、ここまで追いすがって来た相手に、青年は、今度 こそ息の根を止めようとサーブの構えを取る。
しかし、
「フォルト!」
ラケットを振り下ろした瞬間、審判役の加瀬(かせ)から鋭い制止の声が上がった。
仲間の横槍とも言える行為に、思わず青年は加瀬を睨みつけた。
「……純司(じゅんじ)。お前、どういうつもりだ」
「ジャッジは、いつだって公平だ。お前こそ、何熱くなってやがる」
「俺は別に…」
「前のめりになりすぎてライン踏むなんざ、今時初心者でもやらねーぞ。そんなお前の構え見 てたから、こいつだって何も反応しなかっただろうが」
「…チッ」
加瀬の指摘を聞いた青年は、忌々しげに舌打ちをひとつすると、数歩下がってサーブを打ち直す。
しかし、先程の失敗が尾を引いているのか、やや球威の衰えたそれを、は力強いストロークで打ち返した。
「ジャンプからのフォア…クソっ、何処まで『アイツ』の真似をしやがれば、気が済 むんだ……!」

一週間前。
同じ都内の学生から『賭けテニス』の対戦を申し込まれていた青年は、仲介役である加瀬の口 から、意外な科白を聞く事になった。

「対戦相手が変わった。…もしかしたら、お前にとって最後の試合になるかも知れない」

なんの冗談だ、と一笑に付そうとした青年だったが、長い付き合いである加瀬の真剣な表情に、「コ イツにここまで言わせる相手とは、一体何者だろう」という素朴な疑問も抱いていた。
これまでの試合は、単に己の感情をボールとラケットにぶつけていただけだった。
失ったものに対するやるせなさ、また、それらを奪った輩への憎しみ。

(アイツが一体何をした…?アイツがあんなにテニスを愛し、信頼を寄せていたというのに、いざとなった らアイツを見捨て、まるで存在自体なかったように振舞ったお前らは、何だと言うんだ!?)

テニスの名門校という肩書きに縋り付きたいが為、『アイツ』を切り捨てた奴らなど、許す事は出来ない。
そんな下らないテニス名門校の威を借りた中学生など、かつての大和や井坂同様返り討ちにするつもりでいたのだ。
しかし、試合をしている内に、青年の中で忘れかけていた何かが、仄かに燻り始めていくのを覚えた。
初めて会う、雑誌程度にしか知らぬこの中学生を相手に、何故自分はこうまで心を躍らせているのだ。
ネット越しに映る少年は、あの頃の『アイツ』とは似ても似つかない筈なのに。


双眸に鈍い光を帯びた青年は、軸足を捻ると、あえて打球のコースを直接の身体へと切り替えた。
強烈なフラットストロークを避け切れなかったの鳩尾に、青年の容赦ない球がめり込む。
「ぐ…っ!」
!』
咳き込みながら膝を着くの姿に、青学テニス部からどよめきが起こる。
『大丈夫か、!?』
「う、うん。ちょっと……かなり痛かったけど」
痛みを堪えながら荒い呼吸を繰り返すの視界に、憎しみとも哀しみともつかぬ表情で自分を眺めている青年が映る。
「反則じゃない。立ち上がれないなら、ギブアップするか?俺は一向に構わんぞ」
「……」
「ぅ、うぅ…いい加減にするにゃー!」
それまで固唾を呑んで試合を見守っていた菊丸だったが、眼前で起こった光景に思わず立ち上がる と、半ば叫ぶように声を上げた。
「お、おい。英二…」
大石が諫めるのも聞かず、菊丸は涙目になりながら続ける。
「俺たちが、なんも知んないとでも、思ってんのか!?どんだけ辛い想いしたかは判んない けど、お前みたいな卑怯者、青学テニス部なんかじゃない!こっちこそ願い下げだにゃー!」
「英二、落ち着くんだ!」
「だって、だって!あいつ、に…自分の大切なパートナーに……」
後はもう言葉にならず、菊丸は、大石の腕の中で嗚咽を漏らし始める。
そんな菊丸を横目に、桃城は、彼にしては珍しく憮然とした表情をすると、自分と何処か似たよう な風貌を持つ青年に、厳しい視線を投げ掛ける。
「……同感ッス。テニスを単なる鬱憤晴らしに利用するなんざ、いけねぇなあ、いけねぇよ。仮にさ…部長が負けても、俺らがいる事忘れんなよ」
「ちょ、てめぇも落ち着け!」
「何だと…?」
「……待って」
海堂の諫めも聞かず、青年と睨み合っていた桃城は、ふとコートから聞こえたか細い呼びかけに動きを止めた。
ゆっくりと体勢を起こしたが、痛みを堪えながら、桃城たちに笑顔を向けてきたのだ。
「有難う、英二くん、桃くん。でも…これは俺とコイツの勝負なんだ。俺がやらなきゃいけないんだ」
「……」
いつもと変わらぬその笑顔に、それまで何処か張り詰めていたギャラリーの空気が和らぐ。
暑さと腹部の鈍痛から流れてくる汗をリストバンドで拭うと、は、意識の裏から自分を見守る手塚に語りかけた。
『どう?強いでしょ。俺のかつてのパートナー』
『…ああ』
『俺…4年前のあの日から、ずっとアイツに会えなかった。会いに来てくれなかったんだ。桃くんは、気持ちの整理 がついてないからだ、って言ってくれたけど…本当はどうなんだろう?』
不安な色を帯びたの言葉を聞いて、手塚は暫し思案する。
『その答えが知りたければ…やはり彼に直接聞くしかない』
『……そうだよね。テニスそのものを嫌いになったのなら、こんな風にプレイ出来る筈がな いもの。何もかもすべて、俺自身の手で…あのバカヤロウに確かめなきゃ』
そこで言葉を切ると、は青年の繰り出したクロスを捌きに駆け出す。
まるで、今にも泣き出しそうなの声を聞いた手塚は、意識の裏で表情を曇らせた。


果てる事のないラリーの応酬に、いつしか青年は、ネット際で自分の球をかわす中学生の姿が、ある 人物と重なっているような錯覚に囚われていた。
自分の中で否定すれば否定するほど、その幻は鮮明になって行く。
「いい加減にしろ!お前は、何処まで俺を……!」
「いい加減にするのは、お前の方だ!どうしてこんな事する必要があるんだ!?」
最早口調を取り繕う事も忘れたは、渋面を刻んでいる青年に向かって、懸命に呼びかける。
「黙れ、黙れ黙れ!お前に、俺の何が判ると言うんだ!」
怒りに任せた青年のボレーは、ネット際でいなされる。
カウンターではなく、まるで受け止めようとすらしている相手を目の当たりにして、青年は心の 中をかきむしられた気分になる。
「…全部は判らない!でも、判りたいとは思ってるよ!だって、大切な仲間だもん!!」
「──ふざけるな!俺に仲間など、いない!あの日から俺に仲間は……」

「どうしても、あなたを止めなければならない理由があったからです。そうでなければ、これか ら先、あなたは益々自分自身を苦しめてしまう。…先輩が、あなたにそんな事を望んでいるとでも思 ってるんですか?」

「お前のやっている事は、本当にあいつの為だと言えるのか!?今の姿を、お前はあいつに胸を張っ て見せる事が出来るのか!?」

(大和…井坂……だが、俺は……!)
己の大事なラケットを賭けてまで、自分に向き合おうとしたふたりの言葉が、青年の脳裏によみがえる。
「認められない…認める訳にはいかないんだ。そうでなければ俺は……!」
感情に支配され冷静さを失った青年のラケットは、ボールを捉え損ね、ネットの向こうへと落ちていく。
「チャンス!これで決めれば、勝てる!」
沸き返るギャラリーもそこそこに、は最後のショットを打ち込もうと、構えを取った。
だが、

……!」

振り絞るような青年の心の叫びを聞いた瞬間、は突如動きを止めた。
そのまま、球威を失ったボールが、己のコートをバウンドして転がっていくのも構わず、 やがてその身体はガクリと崩れ落ちていく。
『──?』
勝てるはずの試合を放棄したを訝しむ手塚は、彼の肩が小刻みに震えているのを見止めた。
そんなの様子は、青年にも予想外だったようで、構えを解くと、コートに坐り込んだ彼へ とネット越しに声を掛ける。
「…何だ?どうした、いきなり」
「……」
不審気に声を掛けた青年は、顔を上げた少年の姿に驚愕した。
両の瞳に一杯涙を溜めながら、真っ直ぐこちらを見つめ返してきたのだ。
「やっと、判った…」
「…?」
「ずっと…俺を呼んでいた声。あの頃より少し低くなってたし、何よりあんな哀しそうな、苦しそ うな声が、お前のものだなんて思わなかったから……」
懸命に拭うも、の瞳からは、涙がとめどなく流れ続けていた。
「どうして…どうしてそこまでして、苦しみ続けて来たんだよ……?」
「おい…?」
「俺の為に…俺の為なんかに、4年もずっと…ずっと……!」
「!?」
立ち上がれずに泣き続ける少年に、青年は思わずネット際まで歩み寄ると、震える手でその肩 に触れる。
青年の手に気付いた少年は、顔を上げるとか細い声で、しかし知る筈のない己の名を返してきた。
「お前…まさか…そんな…そんなバカな事……!」
しかし、涙に濡れた少年の姿に、かつての追憶の彼方からよみがえった顔が重なったのを確認す ると、青年は、目を見開いた。
「………お前、本当になのか……?」
「主税(ちから)ぁ…」
もう一度、今度はハッキリと少年の口から告げられた名が、青年の鼓膜と心にこれでもかと響き渡った。
弾かれたように青年はネットを飛び越えると、泣き止まぬ少年の身体を揺さぶった。
…!お前、どうして…!」
「それはこっちの科白だよ!バカ主税、どうしてお前、こんな事…!」
「……許してくれ。許してくれ、。俺は…俺は……!」


全身を震わせながら、かつてのパートナーをきつく抱き締めた川喜多主税(かわきた ちから)は、これま で記憶の底へ封じ込めていた4年前の全てを述懐し始めた。




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