『継承』


4年前。
都大会を数日後に控えたある放課後、一緒に青春台の繁華街まで付き合って欲しいというの申し出を断った青学テニス部3年川喜多主税(かわきた ちから)は、別件の用事を済ませると、 寄り道する事無く自宅への道を歩いていた。
途中、パートナーから届いた、ラケットを手に満面の笑みを浮かべた写メールに苦笑しな がら玄関のドアを開けた瞬間、主税の目に飛び込んできたのは、顔色を失った母親の姿だった。

「…落ち着いて聞いてね。たった今、竜崎先生から連絡があって…くんが……」

言葉に詰まって顔を伏せる母親の様子に、主税は、全身から血の気が引いていくのを覚えた。
あまりの事に、手にした携帯を取り落としそうになった主税は、画面いっぱいに映ったが目に入り、思わず反射的に異議を唱える。
「……でたらめ言うなよ。だって、つい今まで俺はあいつからのメール見てたんだぞ?あいつは、俺とメールし てたんだ。それなのに何で…何でが死ななきゃならないんだよ!?」

母親が呼び止めるのも聞かず、二階の自室へ逃げるように駆け上がった主税は、こみ上げて来た感 情を慟哭と共に吐き続けていた。
つい先刻まで、いつものように笑い、語り合っていた筈のパートナーが突然この世からいなくなってしまった事 実を、どうしても認める事が出来なかったのである。
結局、パートナーの死を受け入れられないまま、主税は、彼の葬儀はおろか暫くの間学校にも顔も見せず、自 室に引き篭もったままだった。
1週間ほど経って、漸く完全とはいかないものの、幾分か気持ちを落ち着かせる事が出来た主税は、自分の 勝手な都合で都大会をすっぽかした詫びも含めてテニス部に顔を出したが、そこで更に信じがたい話を耳にする事となった。

「事故…って、どういう事だよ。は殺されたんだぞ!?」
「竜崎先生!?」
「…すまん。あんたらの言いたい事は、痛いほど判っている。だが…の話はここまでじゃ」
「納得のいく説明をして下さい!このままじゃ、部長があんまりです!」
「…本当にすまない。ごめんよ、みんな……」

年齢以上の皺を刻みつつ頭を垂れてきたスミレを、部員達はやり切れない想いで見つめ続けていた。
今にして思えば、当時を取り巻く周囲の環境や介入その他について、ある程度は理解出来たのだろうが、若干14〜5歳の 少年達にとって、その辺の事情を汲み取るには無理があった。
それきり口を閉ざしてしまったスミレや学校の態度は、「大人の勝手な都合で、は青学テニス部から見捨てられた」と認識され、テニス部内に大きな亀裂を生じさせる結果と なってしまったのだった。

(テニス部がを捨てるのなら、アイツが部の為に残した形跡など必要ない…!)

その場で退部届を叩きつけた主税は、本来返却する為に借用していたテニス部の備品であるファイルから、衝動的にに関する資料の全てを抜き出し、隠匿した。
本当は、焼却するかシュレッダーにかける事も考えていた。
部活どころか、テニスそのものも辞めてしまおうとすら、思っていた。
でも、出来なかった。
それをしてしまうと、これまでの自分との絆までもが、失われてしまうような気がしたからだ。
だが、このような情けない今の自分の姿をに見せる事も出来ず、それでも心の何処かではに会いたい、自分を止めて欲しいというある種アンビバレンスな想いに、長い間苛まれ続けていたのである。


「すまない、。あの時、俺が一緒に行っていれば、お前は、あんな目に遭わずに済んだかも知れ ないのに…俺の所為だ。俺の所為で…!」
コートにうずくまりながらうな垂れる主税を、は、優しく宥めた。
「顔、上げてくれよ。主税の所為なんかじゃない。俺…お節介だから、もし一緒だったとしても、 きっとお前の制止を振り切って、飛び出してったと思う」
…」
「それより、主税が俺の事でテニスやみんなを…俺を憎んでるんじゃないかって、ずっと気が かりだった」
「な、そんな事…」
「だって…お前、俺に会いに来てくれなかったから…確かめようがなかったし」
寂しそうに零すを見て、主税は思わず唇を噛み締める。
「……主税ばっかが悪い訳じゃないんだ」
すると、そこへ審判をしていた加瀬純司(かせ じゅんじ)が、ふたりの前へ歩み寄ってきた。
「あの事件がきっかけで、俺や主税のように部を辞めたのと、井坂(いさか)達の ように残留した連中とが分断された。でも、それは単なる仲違いなんかじゃなくて、俺達も あいつらも、譲れないものがあったからなんだ」
「え…?」
「それはお前だ、。お前を想う気持ちだけなら、俺達もあいつらも同じなんだ。ただ…そっから先の行動が 違っただけで」
脳裏にかつての出来事を思い浮かべつつ、加瀬は言葉を続ける。
「特に主税には、の事にかこつけて、長い間俺達の代表みたいな真似をさせちまってた。主税は、ホントはテニ スがしたいんだ。テニスへの想いは、今でもあの頃と同じままなんだ」
「おい、純司…」
「うん…判ってるよ」
すまなそうに眉根を寄せている加瀬に、は頷きながら微笑んだ。
そして、三人は暫し互いを見詰め合う。
これまでずっと燻り続けていた様々なものを昇華させていくかの ように、やがて口元と表情を緩めると、小さく笑い声を上げた。
「…で、どうする?ふたりとも。一応、ゲームは1ポイント分残ってるけど」
毒気の抜けた晴れ晴れとした顔で、加瀬はふたりに尋ねた。
最早、雌雄を決する必要などない試合だが、どうしたものかとと主税が視線を交わしていると、
「──それなんだけど」
背後から声を掛けられた達は、振り返った先に現在の青学テニス部のレギュラーメンバーが、ラケットを 手に微笑んでいるのを見止めた。
「何やら、込み入ったお話は済んだようですし、良かったら、これから俺達に付き合っていただけませんか?」
「うんうん!特に達には、俺達と新旧D1対決して欲しいにゃ!」
「みんな…ひょっとして、ラケット持ってたのはこの為?」
「別に。俺はダブルスには興味ないから。純粋にが負けた後に、試合しようと考えてたけど?」
「それでも、が彼との勝負に破れる確率は、1パーセント弱だったけどね」
「裏ではともかく、表でのブランク長い人には、そう簡単に負ける気はしないっスよ。 さん。先輩方♪」
「──言ってくれるじゃないか」
が目を丸くさせていると、ラケットを拾い上げながら、かつてのパートナーとチーム メイトが、の肩を叩いて促してくる。
「年季の違い、教えてやろうぜ。なあ?
はにかんだような主税の表情を見て、は、心の底から嬉しそうに破顔した。


それは、4年前からこれまでの青学テニス部にあった大きな隙間を、埋めていくかのようだった。
共にラケットを操り、球を追いかけ続ける。
かつてのチームメイトと、現在のテニス部員達の姿を満足そうに眺めていただったが、不意に自分の上に何やら降り注いで来るのを覚えた。
顔を上げると、無数の光明と共に、月夜の空から一本の階(きざはし)が、真っ直ぐ自分に向 かって伸びて来る。
…?」
「──うん」
主税の呼びかけに力強く頷くと、は、もう一度かつてのパートナーの前に立つ。
「主税。お前は今でも、これからもずっと、俺の大切なパートナーだ。その事だけは、絶対忘れないでくれよ」
「…ああ。忘れない。俺の為に天国からここまでお節介焼きに来たパートナーなんて、後にも先にも お前ひとりだ。有難う、
固く手を握り合うと、は、次いでコートの向こうからこちらに集まってきた青学メンバーに視線を移した。
「みんなも、有難う。本当に」
「こちらこそ本当に有難うございました。先輩」
「さよなら、。俺、強くなるよ。達にも負けないくらいのD1になってみせるから…」
堪え切れずに涙ぐむ菊丸の頭を、大石は軽く撫ぜる。
「あの時言った事、本気だからね。君が生まれ変わって来るの、楽しみに待ってるよ」
「そこはかとなく嫌な予感もするけど…裕太くんと仲良くな」
「さよなら、。月並みな事しか言えないけど…元気でね。天国で食べ過ぎちゃダメだよ」
「有難う、河村くん。取りあえず、お盆とお彼岸には堂々と正面から遊びに行くね♪」
「幽霊なんだから、タカさん困らせないでこっそりにしなよ。図々しい」
。お前は本当に俺の予測をはるかに上回るヤツだったよ。俺は、これからも自分のデ ータを極めて行くつもりだ。それこそ、限りなく100パーセントに近付けるくらいにね」
「そっか。頑張ってね、貞治さん」
「…海堂。に言う事があったんじゃないのか?」
乾の呼びかけに、海堂は少しだけ気まずそうにしながら、の前に立った。
「あの、俺…」
「?」
「あんたの事、なんにも知らずに…酷い事言って…ずっと謝りたくて……俺…本当に、すいませんでした……」
「海堂くん…」
深々と頭を下げてきた海堂を、はそっと起こす。
「そんな事ない。むしろ俺、海堂くんには感謝してるんだ」
「…?」
「主税の事で逃げ出そうとしてた俺を、止めてくれたでしょう?あの時君がああ言ってく れたから、俺は、主税と向き合う事が出来たんだ。…有難う」
「はい…さよなら。……せんぱい」
消え入るように言葉を切った海堂は、から離れると、背を向けたまま引っ切り無しに顔を擦り続けた。
そんな海堂の姿を一瞥しながら、桃城はリョーマを伴いながらに近づく。
さん。俺、本っ当に楽しかったし、幸せだったっスよ。一緒にした色んな事、忘れません」
「有難う、桃くん。俺も、すっごく楽しかった」
「ハイ。有難うございました!オラ越前、お前も何か言わねぇか」
「…別に。俺はいいっスよ、桃先輩」
こういった雰囲気が苦手なのか、そっけない態度を取り続けるリョーマに、は彼の顔を覗き込むようにして囁いた。
「コラ。最後くらい、ちゃんと挨拶出来ないのか?──リョーマ」
「──!何だよ。いきなり、ヒトの事名前で呼ばないでよ!何で最後の最後になって……!」
明らかに動揺したリョーマは、突如沸き起こった感情を押し込めようと、帽子を深く被り直しながら下を向く。
そんな強がりを見て、は、静かに彼に向かって言葉を紡いだ。
「今のお前は、地面から生えたばかりの小さな芽なんだ。やがて、その芽は大きな大木に、そして大きくてぶ っとい柱の材料になる。…その大木の素、お前自身の手でしっかりじっくり育てて行くんだぞ。いいな?」
「…Yes. I will……」
「ん。お前のパパにもよろしくな」
ぶっきらぼうな返事に満足気に頷いたは、心中でこれまで自分と共にいてくれた人物に、もう一度礼を述べると、ゆっくりと彼の 身体から離脱していった。
均衡を崩し地に倒れようとする身体を、一番近くにいた主税が、慌てて支える。
『青学ー!ファイト、オー!』
全員の視線の先では、昔のレギュラージャージに身を包んだ少年が、彼らに向かって軽快な掛け 声をひとつ上げると、そのまま天へと脇目も振らずに駆け上って行った。


長いまどろみのような気だるさから目を醒ました手塚は、自分を支えている人物に気が付くと、やや掠れた 声で彼の名を呼んだ。
「…川喜多…先輩……ですね?」
「……」
呼ばれた方は、一瞬だけ心痛じみた表情をしたが、全身を倦怠感に苛まれていた手塚を気遣うように、自 分たちの車で自宅近くまで送り届けてくれた。
汗まみれのまま眠りたくなかった手塚は、半ば機械的に身体を動かすと、熱いシャワーで全身の汚れを 落とす。
浴室の鏡越しに、視線をわき腹の辺りにやったが、これまであった傷が、跡形もなく消えているのに 気が付いた。
──もう、いないのだ。
まるで、自分の中から何か大切なものを奪われたような虚脱感を覚えながら、手塚は倒れ込むように して床に就く。
その夜。
手塚は夢を見た。
満天の星が瞬く夜空の中、雲の上を歩いていると、誰かに声を掛けられた。
『手塚くん!』
声のした方に顔を向けると、写真で見たあの頃の『彼』が、大きく手を振りながらこちらに向かって歩いて来る。
『手塚くーん!』
『彼』の笑顔に引き寄せられるように、手塚は駆け出していた。

『彼』を尊敬していた。
時には嫌悪もした。
そして、出来るものならば『彼』を抱き締めてやりたいと思っていた。
だが、気が付くと、手塚は『彼』に抱き締められていた。


嗚咽も涙も止まらない自分を、『彼』はいつまでも抱き締め続けていてくれた。






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