その日は、雲ひとつない快晴であった。 「この仄かにくすんだ空の蒼は、まるであの人のようだ」と、幸村は目を細めながら 暫く天を仰いでいたが、やがて頭を下げると、神妙な面持ちで傍らに立つ 戦忍に視線を移した。 「これでもう思い残す事はない。佐助、やってくれ」 「ダンナ…いや、幸村様……」 「──しくじるなよ」 そう言うと、幸村は地面に膝を折り、ゆっくりと目を閉じる。 心持ち、首を前に傾けたまま坐する主を見下ろしながら、佐助は、愛用の武器を 構えた自分の利き手が、小刻みに震えているのを感じた。 こんなに身体が震えたのは、初めて人を殺めた子供の頃以来か。否、あの時です らここまではならなかった。 嫌に成る程手入れの行き届いた刃が、陽光に反射して輝くのとは対照的に、佐助 の心は深い闇に包まれていた。 『そなたに、最後の命令を与える』 いつになく穏やかな顔でそう告げられた時、佐助は、自分の勘の良さを疎ましい と思った事はなかった。 あの日以来、いつかこの時が来る事は、何となく判っていた。 主(あるじ)の望みならば、叶えてやるのが忍としての務めである。 だが、それは同時に『彼』という主を失う事でもあった。 もう二度と彼の傍にはいられなくなる事に、佐助はささくれ立った自分の心を、 どうする事も出来なかった。 「──御免!」 もう随分前に、忘れていた筈の涙を振り切るようにして、佐助が腕を下ろし た刹那。 地面に伸びたふたりの影に、紅い飛沫が勢い良く降りかかった。 …川中島の壮絶な戦いから間もなく、ひとりの武士が、歴史の表舞台から姿を消した。 その名は、真田幸村。 『武田の秘蔵っ子』『日の本一の兵』とも呼ばれた 男は、ある時、二振りの折れた槍を戦場に残したまま、忽然とその姿を消してしま ったのだ。 「──アイツを何処へやった」 「アンタもしつこいね。何度も言ってるでしょ。『真田幸村は、もういない』って」 合戦後、西を攻める手がかりと互いの利害の一致も含めて、甲斐の武田と 奥州の伊達は同盟を結んでいた。 伊達政宗は、調印式の為に甲斐へと赴いた際、その席にひとり足りない人間がいるのに 気が付いた。 「Hey、爺さん。あの喧しいヤツは、お留守番か?」 「…ヤツ、とは?」 「とぼけんなよ。真田幸村だ。いつもアンタとhotなコミュニケーションを、交わしてたじ ゃねぇか」 確かに、こんな厳格な席にゃ「アイツ」は似合わないだろうな、とおどけて見せた政宗に、 信玄は低い声で短く返して来たのだ。 「貴殿が何を申されているのか、判らぬが……生憎、真田幸村という者など、ここには おらぬ」 「…What!?」 思わず立ち上がった政宗を見て、周囲は何事かと目を見張る。 佐助という忍はともかく、「アイツ」は、武田信玄の最も信頼の置ける部下ではなかったのか。 「おいおい…幾らなんでも、冗談きついぜ?」 「このような厳粛な席で、戯言を抜かす馬鹿はおるまい。もう一度言う。真田幸村などと いう男は、もう甲斐はおろか何処にもおらぬ」 「……ウソだ!You're god damn liar!(このウソツキ野郎)」 信玄の瞳は、彼の言葉が真実である事を如実に表していた。 だが、それを認めたくなかった政宗は、調印式を済ませた瞬間、幸村を探さんと部屋を飛び 出そうとしたが、小十郎をはじめ伊達の家臣たちに、半ば羽交い絞めにされるように止められた。 「お控えなされませ。折角結んだ同盟を、早々に破棄なさるおつもりですか!?」 「喧嘩すんのに異論はねぇけど、武田の屋敷じゃ些か分が悪いぜ、梵天」 「し、成実殿。そのような軽率な発言は……」 伊達三傑の面々は、どうにかこの場を収めると、尚も暴れる政宗を引き摺るように武田を後にしたのである。 「……あの戦馬鹿が、そう簡単にくたばってたまるか。一体アイツを何処に隠したんだ」 「隠したも何も、いないモンはいないんだからしょうがないでしょ」 「死んだのか?だったら、墓くらいはあるだろう。教えろ!」 「だーかーらー。何度訊かれても、俺の答えられるのはそれだけだっての」 同盟後、近隣諸国の視察を名目に、政宗は頻繁に甲斐へ訪れていた。 伊達家の中には、真田幸村がいなくなった事で武田の脅威がひとつ消えた、と胸を撫で下ろす 者もいたが、政宗にしてみれば、自分との決着もつけぬまま、いずこへと雲隠れした好敵手を 諦めきれる筈もなかった。 甲斐に訪れる度、政宗は佐助に執拗に問い質(ただ)し、そして、それに対して佐助もまた、 政宗に同じ返答を繰り返していた。 「何なら、今から屋敷を案内しようか?それこそどっかの勇者様よろしく、ツボの中でもタンス の中でも、気の済むまで探せばいいよ。……もっともアンタの望むモンは、出てこないだろうけど」 さらりと言われた政宗は、益々顔を顰める。 「大体、お前はアイツの忍じゃなかったのか?主を放っておいて、何をしてやがる」 「その主がいないんじゃ、俺だってどうしようもないって。それに…真田のダンナが消えた時、丁度 俺は、仕事で越後領内まで出掛けていたんだ。帰って来た時には、もうダンナはいなかった。戦場 に槍を残したまま、ね」 「……」 「そりゃ、俺だってショックだったよ。だけど、いつまでもこのままって訳にもいかないでしょ? 幸い今は落ち着いてるし、武田にとどまっていれば、食いっぱぐれる心配はないからね。俺も、ダンナ ほどじゃないけど大将の事気に入ってるし」 「じゃ、そういう事だから」と政宗に背を向けた佐助だが、数歩進んだ所で、何かを思い出したように 振り返った。 「竜の旦那」 「何だよ」 「ウチの屋敷に潜り込んでる、アンタんトコの黒脛巾。アレ、何とかしてくんない?いもしない相手を 探すなんて無駄手間だし、お陰で俺の部下もピリピリしてんだよ」 「まさか、上田にまで放ってんじゃないでしょうね」と、図星を指された政宗は、途端にバツの悪そう な顔をする。 やがて、舌打ちひとつして踵を返すと、政宗は憤然と歩き出した。 傾きかけた西日に染まった政宗の背中を、佐助は僅かに目を細めて眺める。 (悪い事は言わない…もう諦めな。本当の事を知ったら、アンタの事だ。きっと自分を責めかねない) 心なしか、俯き加減の彼の後姿が、何故だか佐助にはとてもはかなげに見えていた。 |