滲み出る汗で馬の手綱が滑りそうになるのを、青年は懸命に堪えながら駆け続ける。
もう少ししたら辺りは完全な闇と化すし、何よりも時間をかければかけるだけ、子供の 生命が危ぶまれる。

『子は我らの手中にあり。返して欲しくば、ひとりで指定の場所まで来られたし。 他言すれば、人質の命は保障しない』

青年の家に刺さっていた矢文は、先日、村落が襲われた時と同じものだった。
あの時は、片腕の自分を見逃してくれたのかと思っていたが、どうやらそれは、 甘かったようである。
子供の安全の為にも、誰かに助けは頼めないし、第一、かつて自分の従者だった男 は、現在所用で甲斐を離れている。

(結局私は…この縁(えにし)から逃れる事は叶わぬというのか…?)

あの日を境に、自分は槍を捨てた筈なのに。
もう、戦は終わった筈なのに。
あくまで「護身用」に、男から受け取った筈の仕込み武器の刃は、敵を倒す 度に輝きを増しているような気がする。

(──違う!私は戻れない!否、『戻らない』!)

心の中で葛藤を繰り返す青年の周囲を、複数の気配が忍び寄ってきた。
我に返った青年は、精神を集中させて、辺りの気を読み取る。
暫しの後、青年の前に黒い影が躍り出てきた。
「こんな片腕、我らが長の手を煩わせるまでもない。かかれ!」
影達の言葉を聞いた青年は、それらが自分を子供の場所へ行かせまい、と放たれた 刺客である事に気が付いた。
騎乗しているとはいえ、片腕の自分ひとりが、忍と思しき複数相手に、何処まで渡り合 えるのか。
だが、やらねばならぬ。自分が倒れれば、子供は永久に戻っては来ない。
あの無垢な笑顔を、曇らせる訳にはいかない。
「邪魔をするな…!」
青年は、通常よりも長めの手綱を器用に腰に巻きつけながら、そこに絡めてあった 武器を手に取った。
そして、手放しにも関わらず足腰で絶妙な均整を保ちながら、青年は馬ごと影に突 進していった。


「たかが村人風情に、何故そこまで執着する?」
身体の自由を奪い、地に転がした子供を一瞥すると、商い人の扮装を解いた 忍装束の男は、不快気な表情を隠せない己の上司に視線を移した。
「……言うなれば、勘です。あの男は、放っておけばいずれ我らの障害となる。 その障害をなくすのは、道理」
「し、しかし、こんなガキひとりの為に、その野武士崩れは来るのか?」
「──来る。来なければ、それまでの事」
「だが、道すがらにお前の部下を置いているのだろう。果たして ソイツが、ここまで辿り着く事が出来るかな?」
猿轡を噛まされているので、怯えながらも無言で抗議の目を向けてくる子供を、 男は興味深げに見下ろした。
男には、確信があった。
彼なら必ず自分との約束を守り、ひとりで現れると。
あの時。村で目にした彼の身のこなしは、ただの野武士崩れとは格別のものであった。
片腕を感じさせない無駄のない動きは、男にある記憶を思い起こさせていた。
あれはいつだったか。何処かの戦場で……

その時、男達の耳に蹄の音が聞こえてきた。子供の瞳に僅かに希望の光 が宿る。
「ば、バカな!?」
慌てふためく上司とは対照的に、男は無表情のまま立ち上がった。
やがて、土ぼこりを撒き散らせながら、大柄な葦毛の馬に乗った青年が 現れる。
「流石だな。その片腕で、俺の部下を蹴散らしてきたというのか」
「…子供は何処だ」
青年の問いに、男は顎で子供が横たわっている地面を示した。
不自由な手足をバタつかせながら、自分を見つめてくる子供を見止めると、青年は 馬から下りて、近付こうとする。
しかし、それより早く上司の男が子供を後ろから抱えると、持っていた懐剣を幼い眼 前に突きつけた。
「よせ!」
「こ、子供を助けたければ、武器を置け!」
「……余計な真似を」
上司の行動に、男は苦々しげに表情を歪める。
「私は、子供を返して貰いに来ただけだ。それ以上のものは、望まない」
「そんな事を言って、隙を見て逃げ出すつもりではあるまいな!?」
「私の腕では、子供を抱えながら、あなた達ふたりから逃げ切るのは無理だ」
言いながら、青年は子供を拘束している男を凝視した。
頭巾で覆われているが、彼の表情に、見覚えがあるような気がしたのだ。
「…ここは任せて戻られよ。仮にも、貴方のような立場の人間が、いつまでもこのよ うな所にい続けるのは、得策ではない」
そんな青年に気付いた男は、上司を振り返ると、子供を解放するように言った。
「しかし…!」
「おそらくこの男は、貴方の顔を知っている。長居は無用だ」
続けられた男の台詞を聞いて、上司の男は弾かれたように子供を放すと、青年から顔を 背けるように去っていった。
「大丈夫か?」
「──お兄ちゃん!」
猿轡と縄を解いてやると、子供は青年に抱き付いてきた。
青年は槍を地面に置くと、右腕一本で子供の身体を抱き返してやる。
暫くそのままでいたが、背後に男の気配を感じた青年は、ゆっくりと子供を離した。
馬の所へ連れて行くと、その小さな身体を乗せ上げる。
「決して手綱を放してはいけないよ。怖かったら、馬が止まるまで目をつぶっているんだ」
馬にひと言二言かけながら、青年は長めの手綱で子供の身体と馬の身体を巻き付ける。
「この馬は、ちゃんと村までの道を覚えているから。先にお帰り」
「お兄ちゃんは?」
子供がそう尋ねると、青年は少しだけ困ったような顔をする。
「お兄ちゃんは、この人とお話があるんだ。…長くなると思うから、先に帰っててくれないかな」
「嫌だ!オイラもお兄ちゃんと一緒にいる!」
「ダメだ。帰りなさい」
いつになく厳しい青年の表情に、子供は思わず口を閉ざす。
「頼むぞ。必ずそのコを、村まで送り届けてくれ」
祈るように告げられた主(あるじ)の声に、馬は嘶(いなな)くと、子供の返事を待たずに 走り出した。
それを満足そうに見届けた青年は、ゆっくりと男を振り返った。
「軒猿が、このような田舎にまで何用だ」
「ほぉ。俺達の素性を知っているとは…やはり貴様は、只者ではないようだ」
男は満足そうに口元を綻ばせると、腰の鞘から忍者刀を抜く。
「村落で見た時から思っていたが…貴様には、市井の者の真似事は合わぬ。血沸き肉踊る 戦場こそが、貴様に相応しい」
「……それは、腕と主を失うまでの話。今の私は、ただの野武士崩れに過ぎない」
「貴様はそう思っていても、周りは貴様を放ってはおくまい。本当は、気付いているのだろう?」
「黙れ!」
激昂した青年の気迫を間近に感じ、男は背筋に心地良い緊張が駆け抜けるのを覚えた。
上司共々放逐され、あてどなくさ迷っていただけの自分が、久々に全力で戦える相手。
コイツの本気を出させたい。
市井の人間を装う、コイツの化けの皮を剥がしてやりたい。

果たして、その澄ました表情の裏には、どのような「もののふ」の顔が潜んでいるのか。

「いずれにしろ、俺を倒さねば、お前は何処にも行けぬぞ。…さあ、どうする?」
男の挑発に、青年は歯を食いしばると、それまで地に置いていた仕込みの槍を構えた。


愛馬にゆるりと揺られながら、政宗は滞在先の屋敷から少し離れた村外れで、夜空に ひっそりと浮かぶ月を眺めていた。
月の光は、何故だか自分に力を与えてくれるような気がする。
自身の象徴でもある兜の事もあるが、何より自分には昼間に燦然と輝く陽光は、眩し 過ぎるからだ。

(陽の光は、俺よりも「アイツ」の方が相応しい)

こんな時でも、姿を消した紅蓮の武士を思い出している自分を、滑稽に感じていた。
「…そろそろ戻るか」
供もつけずに、こっそりとお忍びの夜駆けである。あまり小十郎を心配させるのも少々気 が引け、政宗は手綱を取ると、馬の踵を返した。
直後、夜の静寂には、そぐわない地響きが聞こえてきた。
何事か、と耳をそばだてていると、大柄な葦毛の馬が、道の向こうから一直線にやって来る。
「な、何だ!?」
はじめは、何処からかはぐれた馬かと思っていたが、よく見ると馬の背に、まるで凧か吹き流し のように揺れる小さな影があった。
それが、記憶に新しい子供の姿であるのを確認した政宗は、馬の脇を縫うように追走すると、そ の手綱を取って馬を停止させた。
「Hey!どうした?何があった!?」
「…ぁ」
政宗の声を聞いて、それまで半分意識を失っていたらしい子供は、ぼんやりとした様子で政 宗を見つめていたが、やがて何かを思い出すように表情を変えると、身体中に手綱が絡まっ ているのも構わず、政宗に縋り付こうとしてきた。
「お願いだよ!お侍さん、お兄ちゃんを助けて!」
「……What?お前のお兄ちゃん、又何かやらかしたのか?」
子供から、この村に運び屋をしている『お兄ちゃん』がいる事を 聞いていた政宗は、些か呆れた顔で子供に問い返す。
「違うんだ!オイラの所為なんだ!お兄ちゃんは、オイラを逃がす為にアイツらの所へ…このま まじゃ、お兄ちゃん殺されちゃうよ!」
しゃくり上げながら言葉を返す子供を、政宗は注意深く観察する。
おそらく、子供を乗せてきたこの馬は、『お兄ちゃん』のものだろう。
子供の身体と馬の首に残った紐跡は、その『お兄ちゃん』 が、子供を村に返す為に施したに違いない。
きつく手綱を巻き付けられた状態では、馬も走りにくかっただろうが、余程主人に忠実に躾け られているのか、子供を振り落とす事無く、一直線に村へと戻る道を走り続けて来たようだ。
大事な馬を手放したという事は、子供を逃がす代わりに、ある種の覚悟を決めているのかも知れない。
ごめんなさい、と何度も謝罪しながら『お兄ちゃん』の名を呼び続けている子供を見て、政宗の口元 が、ある決意に引き結ばれた。

「こんな所でぼやいてたって、お兄ちゃんには聞こえねぇだろ」
「…ぇ?」
「危険な真似してでも、お兄ちゃんはお前を助けたかったんだ。そんなお兄ちゃんに、お前 が出来る事は何だ?」
手綱を解いて子供を地面に下ろすと、政宗は身体の自由を取り戻した葦毛の馬を、数回撫でる。
「……こっからなら、少し歩けば帰れんだろ。お前は村でいい子にしてろ」
「お侍さん…?」
「俺が連れてきてやる。『ごめんなさい』は、ちゃんとお兄ちゃんの目の前で言え」

(──例えそれが、「物言わぬ」お兄ちゃんであってもだ)

急ぎ村へと戻っていく子供の後姿を見送りながら、政宗は心の中で呟くと、大柄な馬に言葉をかけた。
「疲れてる所、悪ぃな。だが、お前のご主人様の為だ。案内してくれや」
まるで、応えるかのようにひと声鳴くと、馬は政宗を先導するように、再び道を駆け出す。
その後を追う為に、政宗は愛馬に鞭を入れた。




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