夜もふけた頃。
他所での仕事を終えて甲斐に戻ったばかりの佐助は、単身、武田の屋敷に現れた人物に 目を丸くさせた。
「まーた、アンタですか。ったく、飽きもせずよく来ますねぇ」
だが、いつもなら顔を合わせた瞬間、外国語交じりの言葉が紡ぎ出される 彼の口から、ひと言も発せられる事はなかった。
俯いたままの姿勢で、佐助の前に何かを突き出して来る。
「──そう。とうとう判っちゃったんだ…」
それが、かつて自分が青年に渡した仕込みの槍である事に気付くと、佐助は それまでの軽薄な表情を一変させた。
「…何故……」
「ここじゃなんだし、場所変えようか」
短く返すと、佐助は受け取った短槍を手に、政宗を屋敷の一室へと案内した。


「ごめんね。大将未だ保養先から戻ってないんだ。なんだったら、勝頼様 呼んで来ようか?」
佐助の申し出に、政宗は無言で首を振る。
憔悴し切ったような彼の表情を眺めると、佐助は内心で溜息を吐いた。
「さて。何から話そうか」
「全部だ。どうしてアイツは……」
「──ちょっと長くなるけど、いい?」
そう前置きをすると、佐助は努めて淡々とした口調で話し始めた。


川中島の最後の合戦で、真田の旦那は左腕に怪我をした。
見た目には大した事なかったし、その後も色々と小競り合いが各地で起こってたから、 じっくりと治療する暇もなくて、簡単な手当てだけ済ませた旦那は、そのまま戦い続 けていた。
だけど、その傷は、旦那や俺たちが思ってた以上に深かったんだ。
ある時の戦場(いくさば)で、旦那は左に持っていた槍を落とした。
汗や血で滑ったんじゃない。突如力が入らなくなったと言うんだ。
そうしている内に、旦那の左腕は、指先から次第に動かなくなっていった。
あの時負った傷が、旦那の腕を蝕んでいたんだ。

自分の左腕が使い物にならなくなった事に、旦那は嘆き続けた。
「自分はもう戦場には立てない、お館様のお役に立つ事が出来ない」ってね。
ヘタにひとりにすると、発作的に自害しようとするモンだから、必死で止めたよ。
だって俺たちも大将も、戦場の旦那だけなんかじゃなくて、「真田幸村」そのも のが必要だったんだから。
片腕になろうが、どうなろうが関係ない。
俺たちには旦那がいてくれれば、それで充分だったんだ。

そんな遣り取りが暫く続いたある日、旦那は憑き物が落ちたようなスッキリとした 顔で、俺たちに言ってきたんだ。
「槍を置く。市井(しせい)の人間として生きていく」と。
……意外そうな顔してるね?
アンタは信じられないかも知れないけど、ああ見えて旦那、戦が絡まなければ、割りと 物静かな性質なんだ。
戦から離れた分、自分の事をじっくりと考える余裕が出来たのかも知れない。
勿論、思い直すよう言ったよ。 何を好き好んで、武士の地位を捨てる必要があるんだよ?
槍を持たなくったって、旦那が武田の大切な家臣である事にかわりはないし、仮に武田を 離れたとしても、故郷の上田に戻れば済む話じゃないか。
──でも、旦那の心は変わらなかった。
「戦に明け暮れていた自分が、これから何が出来るのか。生きながらじっくりと考 えていきたい」ってね。
そして俺は、最後の命令を受けたんだ。

──「真田幸村」を殺してくれ。
「真田幸村」というもののふの存在を、どうかこの世から消して欲しい。


旦那の命令で、壊疽(えそ)を起こしかけていた左腕を斬り落とした俺は、暫く 療養させた後で、市井の人間としての振る舞いと、ひとりでも生きていく為の術を 旦那に身に着けて貰った。
やがて傷も癒え、落ち着いたのを期に、旦那は大将が餞別にくれた馬と一緒に、 武田の屋敷を後にしたんだ……


「大将は『いつでも戻って来い』って言ってたけど、旦那はもう意志 を固めているみたいだった。それでも、国境付近の村に住んだのは、側にいる事はかな わなくとも、せめて陰ながら大将が天下を治める姿を見ていきたいっていう、想いから なんだろうな……後は、アンタが見た通りだよ」
佐助の話を、政宗は半ば放心状態で聞いていた。
「それは…それは本当に、槍を捨てなければならない程の事だったのか……?」
あの時。隣国の間者を斬り伏せた槍さばきは、今でも充分戦場で通用するものだった。
片腕を失った事は災難だが、それでもあそこまで誇り高き武士だった男が、 何故こうもあっさりと、槍を置いてしまったのか。

(独眼竜殿!この決着は、いずれつけようぞ!)

──そして、あの時交わした自分との約束は、ここまであっさりと反故に出来るものだ ったのか。

「アイツは…あんな村で燻ってるようなタマじゃねぇ。俺との 決着もつけないまま、ジジむさい生き方するようなヤツじゃ……」
「……だから、無理なんだよ。旦那にその気が全くないんだから。仮に、武田と伊達の 同盟が破棄されて戦になったとしても、旦那はもうアンタの前には姿を現さない」
うわ言のように呟きを繰り返している政宗に、佐助の声が段々と苛つきを帯びて来る。
「嘘だ!アイツは俺と約束をしたんだ!片腕失くしたくらいで、怖気づいて逃げ出すような ヤツじゃねぇ!」
「『片腕失くしたくらいで』…だと……?」
尚も言い募ってきた政宗の言葉に、佐助は眉を逆立てた。

(最早、そなたとの決着はつけられそうにない。すまぬ…すまぬ、政宗殿……!)

同時に脳裏に浮かんだ、動かない腕を何度も叩きながら慟哭を繰り返す、かつての主(あるじ) の姿を思い出すと、彼の中で燻り続けていた感情が、一気に爆発した。
「──ふざけんな!どの口で、そんな戯言ほざいてやがる!」
初めて耳にする忍の怒声に、政宗はびくりと身を竦ませる。
「アンタ…旦那が槍を置いた一番の原因が、何なのか判ってんのか?」
「…?」
怒りも露に詰め寄ってきた佐助を、政宗は信じられない想いで見上げた。

「旦那が腕を失ったのは、アンタとの一騎打ちで負った怪我の所為なんだよ」

瞬間。佐助と政宗を取り巻く気配が、ぴしりと凍りついた。


言うつもりはなかった。
野に下った主が、二度と戦場に戻る気がない事を理解させ、政宗には諦めて貰 うつもりだった。

(政宗殿は、きっと怒るでござろうな。…だが、それで良い。この腕では、あの方の前で 醜態を晒すだけ。それは、あの方に対しても失礼な事だ)

勝負を捨てて逃げた自分を、腰抜け、と見限ってくれればいい。
一国一城の主が、一介の武士ごときに現を抜かすような事はない。
時が経てば、いずれ自分との事など取るに足らぬものだったと、忘れていくだろう……

佐助の愛する主は、最後の最後まで、隻眼の武者の事を気にかけていた。
それに対して政宗の、主の決意を冒涜するかの如き言動は何なのだ。

(どんだけ自分が、想われているかも知らないで……!)

理不尽な怒りと抑え切れない嫉妬が、忍の理性を焼き切り、感情そのままに舌を動かし続けていく。
「ないものねだりにも程があるぜ。自分で旦那の腕をダメにしたクセに、 今更なに言ってんだよ」
「そんな…」
突きつけられた事実を、政宗は信じられないように頭を振る。
「…未だ判んない?だったら、何度でも教えてやるよ。旦那が槍を置いたのも、武士とし ての全てを捨てたのも、みんなアンタの所為だ!アンタが旦那から何もかも奪ったんじゃないか!」
いつしか佐助は立ち上がると、坐り込んだまま震えている政宗に、あらん限りの暴言を ぶつけていた。
聞きたくないのか、無意識に耳元に手を置いて首を振り続ける政宗を、尚も佐助の声が責め立てて行く。
「旦那は優しいから何も言わないけど、腕を失ってから今に至るまでの間、どれだ け苦しみ悩んでたか、考えた事もなかったろう?やっと心の落ち着きを取り戻して、新たな生き方 始めた旦那の心を、アンタの勝手な都合で引っ掻き回されたら、たまったモンじゃないんだよ」
「俺は…」
「それとも何かい?戦う気のない片腕の旦那、無理矢理戦場にでも、引きずり出すつもりなのか?」
「…違う」
「そんで『あの時の決着だ』って、明らかにアンタに劣る今の旦那を打ちのめして、自己満足にでも浸る つもりかい?」
「違う!」
「まあ、部下の士気上げて奥州筆頭としての威厳を保つには、旦那は格好の材料って訳だ。ハッ!お 偉いさんの考える事は、下々には到底理解出来ないってモンですね!」
「──違う!ちがうちがう、ちがう…!」
「……何泣いてんだよ、被害者ぶるなよな。一番泣きたいのは旦那の方だろうが!」
肩で息をしながら見下ろす先には、主の名を呼びながら泣き崩れる政宗の姿があった。
「幸村…幸村……」
「──きったねぇ泣き顔。百年の恋も覚めそうだぜ」
ほら、とぶっきらぼうに言いながら、佐助は懐から手拭いを取り出すと、政宗の前に押し付けた。
「アンタが勝手に泣いてるのに、俺の所為にされたらたまんないからな」
顔中涙と鼻水だらけの政宗が、妙に哀れに感じてしまい、佐助はぷい、と横を向く。
渡された手拭いを握り締め、政宗は新たな涙を零した。

あの時。失った左腕を見られた彼は、苦々しげに政宗を見つめ返してきた。
当然だ。自分の腕を奪った張本人が目の前に現れて、いい気な筈がない。
(お前は…ずっと俺の事を憎んでいたのか……?)
ならば、思い切り罵倒してくれれば良かった。
「お前の所為だ」と蔑んでくれた方が、まだましだった。
だが、あの時の彼の態度は、明らかに政宗に対する「拒絶」の意を表していた。
もしかしたら、顔も見たくないとすら思っているのかも知れない。
しかし、それを確かめる術も勇気も、今の政宗には持ち合わせていなかった。

──もう、自分と彼の接点は、何もなくなってしまったのだろうか。

政宗には、それが哀しくてたまらなかった。


漸く泣くのを止めた政宗を見て、佐助は静かに諭すように言った。
「…これで判っただろう?もうアンタの好敵手だった『真田幸村』は、何処にもいな いってコト」
「……」
「今の旦那は、ささやかな生活を送るただの市井の人間だ。さんざん苦労をした末、やっとちっぽけだけど 心の安らぎを手に入れる事が出来たんだ。…それを壊す権利なんて、俺にもアンタにもない」
何処か遠くを見つめるように、佐助は自分にも言い聞かせるかの如く、言葉を続けていく。
「もし、アンタが少しでも旦那の事を考えてくれているのなら…どうか、そっとしておいてやってくれ。 もう二度と、旦那には近付かないでくれ」
いいね、ともう一度だけ念を押すと、佐助は部屋の襖を開けて、政宗に退室を促す。
最早、なにも言い返す事の出来ない政宗は、壊れたからくり人形のように身体を動かすと、ふらつきな がら武田の屋敷を後にした。


自分を呼ぶ悲痛な声が、何故か今でも耳の奥にこびり付いてい る感覚を引き摺りながら、青年は村に戻ってきた。
自分の家へ向かうと、そこには村長と数人の村人達が、青年をとても好意的とは 呼べない視線で迎えてきた。
「どの面下げて戻ってきやがった」
「この疫病神が。お前が来てから、この村には揉め事ばかりが起こりやがる」
「お前のような片輪の出来損ないなんざ、さっさと村から出て行きやがれ!」
「……」
青年は、無言で馬から下りると、彼らの中心に立つ村長(むらおさ)に 頭を下げた。
「……あんたは、今やわが村の稼ぎ頭だ。子供もどうにか無事に戻って来た事 だし、ワシは、あんたに『出て行け』とまでは言わん」
ざわめく周囲を他所に、村長は淡々と言葉を続ける。
「だが…もう金輪際、仕事や必要な時以外は、ワシらに関わらんで貰おう。 …良いな?」
「……判りました」
青年は彼らを無表情に一瞥すると、短く承諾の返事をした。
そして、馬を引きながら彼らの前を通り過ぎようとする。
その時、青年の後頭部に痛みが走った。
背を向けた青年をめがけて、誰かが石をぶつけてきたのだ。
青年が痛みに頭を押さえる暇もなく、次々と石が投げ付けられる。
「やめい!お前ら、止めぬか!」
慌てて村長が制止しようとするも、一度たがが外れた村人達は収まらない。
青年は、馬が暴れださないように急いで馬小屋へ向かおうとしたが、彼らの暴挙は 尚も続いた。

「やめてよ!」

馬をどうにか小屋に戻した後、身体を丸めて投石を凌いでいた青年の前に、小さな 陰が立ちはだかった。
「コラ!家で大人しくしてろって言っただろ!」
「お兄ちゃんは、なんにも悪くないんだ!どうして、オイラを助けてくれたお兄ち ゃんに、こんな酷い事するんだよ!?」
小さな両腕を精一杯広げながら、子供は屹然と大人達を見つめ返した。
「も、元はと言えばそいつの所為で、危険に巻き込まれたんじゃないか。助けたのを 差し引いても、こっちが被った迷惑は、変わらねぇんだよ!」
「そうだ、そうだ!」
「止めよ、と言うのが聞こえぬのか!ワシが決めた事に従えぬヤツは、村の掟に背いた とみなすぞ!」
業を煮やしたような村長の激で、漸く一同は静かになる。
「ごめんよ。ごめんよ、お兄ちゃん…オイラが、お兄ちゃんの言いつけ破 ったりしたから……」
涙で溢れかえった幼い眼(まなこ)が、青年を真っ直ぐに見詰めてきた。
青年は、暫し子供の顔を見詰め返していたが、
「もう…ここへ来てはいけないよ」
子供の頭を撫でながら、青年は低い声で囁くように言った。
「お兄ちゃん…」
「馬に乗せてあげる約束…守れなくて、ごめんね」
青年は立ち上がると、もう二度と子供の方を見る事無く、家の中へと入っていく。
「お兄ちゃん!──お兄ちゃん!」
引き上げていく村人達の足音に紛れて、子供の青年を懸命に呼ぶ声が聞こえてくる。


──ああ、これで『約束』を破るのは、何度目だろう。


戦闘や投石で受けた傷や出血もそこそこに、青年は、力なく戸にもたれ掛かると、深々と落胆の 息を吐き出した。




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