その後。
夜盗に紛れた隣国の間者による企ては、武田・上杉両名の刺客によって、 関係者全員が内々に処理された。
「わたくしの、ふとくのいたすところ、まことにもうしわけなく」と、後に 越後の上杉謙信から武田へ丁寧な謝罪の文が寄越されたとも聞くが、武田の 草や上杉の軒猿たちの暗躍の影にあった、ひとりの青年の存在は、一部を除 いて誰も知る由もなかった。


「何故?これまでの事に、若旦那は何の関係もないじゃないですか!?」
青年の様子を見る為に村を訪れた男は、青年を取り巻く環境の激変を目の当たりに して、村長に詰め寄った。
「それは承知している。だが、我々村人達は、良くも悪くも『変わる』事を何よりも 恐れているのじゃ」
「だからって…!」
「人の噂も75日と言う。時が経てば、彼を取り巻く状況も元に戻るじゃろう」
「だから、それまで若旦那に針のムシロに坐ってろって?だったら、まだ若旦那を追 い出した方が、親切ってもんじゃないですか」
「それは…」
口ごもる村長に、男は冷ややかな一瞥をくれる。
青年がいなくなれば、彼の稼ぎで潤い始めていた村の生活が、元の木阿弥になってし まうからだ。

「何が『変わる事を恐れている』だ」と言いたくなったが、男はあえて黙っていた。
村長に、いつもの賄賂を渡した後で、男は青年の家に寄る。
前に会った時にはなかった、青年の身体中の怪我に目を見張ったが、彼の優しい笑顔だ けは変わらなかったので、男はどうにか平静を取り戻す。
「村長から聞いたよ。本当に大丈夫なのかい?」
「平気です。貴方は、私がそんなにやわに見えるのですか?」
逆にそう尋ねられ、男は苦笑する。
「今までが、上手くいき過ぎていただけですよ。自分が、温情でこの村に置かせて 貰っているのに、不用意な事ばかりしてしまって…」
「でも、今回の事は、アンタの所為じゃないじゃないか」
遠巻きにこちらを眺めてくる村人を横目に、男は苛立ちを隠せない声を出した。
「…戦う術を持たない市井の民は、僅かな事でも自分達を脅かすものを、徹底的に排除 しようとするのだ」
昨今になって漸く落ち着いてきたとはいえ、戦乱に巻き込まれ、生活を脅かされ続 けてきたのは、他でもない彼ら村人のような「弱者」であるからだ。
だから、例えそれが小さな事であっても、現在の平穏を崩されるのは耐え難く、過剰 な反応を示す事は仕方がない。
「ダン…若旦那……」
「かつての私なら、そんな当たり前の事すら気付かないでいた。それが判っただけでも 良かったと思っているのだ」
そう言って微笑む青年の穏やかな表情に、男は思わず言葉を失う。
「だから、貴方は何も心配しなくて大丈夫ですよ」
「そこまで決めているのなら、これ以上何も言わないけど……でも、耐えら れなくなったらいつでも言ってよ。俺、直ぐにでもアンタを迎えに行くから」
「ええ、その時にはよろしくお願いします」
だが、その言葉が現実になる事は限りなくゼロに近いものであると、男は嫌になるほど 熟知していた。
それでも、この愛しい主(あるじ)の為なら、自分は何だって出来る。
例えそれが、どんな汚い事であっても。

(幸村…幸村……!)

(──だから、悪いけどアンタに関わられちゃ、困るんだ)

真実を知り、絶望と哀しみに打ちひしがれていた隻眼の武者を思い出すと、男はそっと 目を細める。
頼むから、この人の事は諦めてくれ。
この人は、自分の本当の気持ちを懸命に抑え込んででも、アンタの事を忘れようとして いるんだ。
だから、アンタも忘れてくれ。
戦が終わり、武器を捨てたこの人と、アンタはもう何の関係もない筈だ。

「じゃあ…俺、これから暫く用事でこっちに来れないけど、元気でね」
「忙しいのですか?…あれから、何か変わった事でも?」
「別に。ちょっと野暮用が多いだけ。終わったら、又お土産持って来るからさ」
「また、そうやって私を子供扱いして」
苦笑する青年に、男もはは、と笑い声を上げる。

(もう、この人の笑顔は、俺だけのものだ)

内に秘めた暗い感情を、いつもの飄々とした顔で隠しながら、男は青年を見つめ返していた。


「此度の事もひと段落しましたし、そろそろ奥州へ戻る支度を始めませんとね」
小十郎の呼びかけは、何の返事も戻らないまま、風に乗って消えていく。
あの日。
夜中ひとりで馬を走らせていた政宗は、まるで幽鬼のような表情で、ふらりと 滞在先の屋敷に戻ってきた。
何があったのか尋ねても、無言で首を振るばかりで、屋敷の一室で閉じこもったきり、誰とも 口をきかない日々が続いていた。
ここまでの状態になる政宗を見るのは、本当に久しぶりの事である。
周囲の接触を避けるように丸められた背中が、小十郎にはまるでかつての「梵天丸」と呼ばれ ていた頃の彼と重なって見えた。

あれ程望んでいた筈の再会は、政宗にとっても「彼」にとっても、悲痛なものであった。
自分の所為で、すべてを失った「彼」。
そんな「彼」の想いに気付かず、姿を消した「彼」を心の何処かで軽んじていた自分。
戦があった以上、それは仕方のない事だ、と何度も思おうとしたが、政宗にはどうしても 割り切る事が出来なかった。
ひと言も口をきかず、ただ哀しそうに自分を見つめ返してきたあの時の「彼」の瞳が、政宗 の網膜と心に焼き付いて離れない。
いっそ、「彼」を強引に奥州に連れ帰ろうかという考えも頭をよぎったが、そんな事をして も、益々自分が虚しい思いをするだけなのは百も承知である。

(もし、アンタが少しでも旦那の事を考えてくれているのなら、もう二度と、近付か ないでくれ)

「彼」の事を考えれば、あの忍の言い分はもっともである。
だけど、宙ぶらりんのままの自分の気持ちは?
このまま奥州に戻れば、おそらく二度と「彼」に会える機会は、無くなるかも知れないのに。

「政宗さ…」
「──小十郎」

幾度目かの呼びかけの後、漸く政宗は従者の声に反応して、身体の向きを変える。
そして、何かを決意したかのように顔を上げると、いつになく真摯な顔で言葉を繋げてきた。

「俺の、今生のワガママを聞いてくれないか」と。


数日後。

「おい、お前に仕事だ」
ささやかな夕餉を小脇に抱え、家へと戻ろうとしていた青年を、村人が呼び止めてきた。
「客は、村長の家で待ってる。さっさと行け」
「判りました」
仏頂面のまま、顎で村長の家を示す村人に、青年は返事をすると足を急がせる。
「……気を付けろよ」
去り際に、ぼそりと囁かれた村人の言葉に、青年は小さく頷くと微笑んだ。
あの日以来、村長の言葉どおり、必要最低限を除いて村の誰もが青年と関わる事を止めた。
青年も分を弁え、極力彼らと触れ合う事を避けていた。
だが、そのような中でも、陰ながら青年に親切にしてくれる者もいたのだ。
大っぴらに関われば、自分たちも「鼻つまみ者」扱いをされるので、表立った事は出来ないが、 それでも彼らの心遣いを、青年は有り難く受け取る事にした。

村長の家の扉を開けると、客と思しき人物と村長が話し合っていた。
「来たか。詳しい話は、この方から聞くといい。くれぐれも粗相のないようにな」
「…はい」
青年の返事もそこそこに、村長は足早に母屋へと引き上げてしまう。
残された青年は、ちらりと視線を動かすと、編み笠を被ったまま、玄関の縁(へり)に腰を 下ろしている若者を見た。
笠を深く被っているので、顔は良く判らないが、身に着けているものや佇まいからして、 市井の者とは違う雰囲気が漂ってくる。
青年が声を掛けようとした時、編み笠の若者が口を開いてきた。

「この村の運び屋というのは、アンタの事か?」
「……左様でございます」

若者の質問に答えるまでに、青年は暫しの時間を要した。
自分の鼓膜と、それ以上に心を震わせてくる若者の声に、青年は無意識に騒ぎ始めてきた 動悸を、懸命に抑えながら返答する。
「アンタは、どれくらいのモノまで運ぶ事が出来るんだ?」
「私の馬に載せ切れるものであれば。流石にそれ以上のモノや、ご禁制の品などは お断りしておりますが」
「OK。ならNo problemだな」
満足そうに頷いた若者は、立ち上がると、青年の前まで歩を進めてきた。
「それでは、何をお運び致しましょうか」
「──『俺』だ」
「…は?」
訝しげな声を出す青年を他所に、若者は被っていた編み笠をゆっくり外す。


「俺を、奥州の城下まで運んで欲しい」


その下に現れた若者の素顔に、青年は思わず目を見開いた。




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