「申し訳ございませぬ。悪いのはすべて、若の命に背いた我らにございます」

政宗の名は出さずに、伊達の隠密「黒脛巾」の忍頭は、政宗と青年に恭しく頭を下げた。
「貴方にも、ご迷惑をおかけ致しました。貴方の察するとおり、我らは若のお付きの者。 ですが、此度の事は、決して若の本意ではありませぬ」
「……どういう事でしょうか」
先程、政宗に質した時と同じ科白を青年は繰り返す。
「若は、故あって甲斐から奥州までお忍びで戻る事になっておりました。先行した家の者 達と共に帰ると見せかけて、若ご自身は後から単独で奥州へ戻るつもりだったのです」
忍頭のあまり変わらぬ表情を観察しながら、青年は言葉の続きを待つ。
「そして、甲斐には腕の良い運び屋がいると聞いた若は、その方にご自分を運んで貰う事 に決めました。それが貴方です。若はご自身が安全に奥州に帰る為に、貴方の腕を見込ん でご依頼されたのです」

無論、作り話である。
「奥州に戻る前にどうしても会いたい人間がいる」という政宗のワガママを、自分達が密 かに護衛する事で、片倉小十郎が承諾をしたのだ。
しかし、政宗がその人物と接触している様子を観察していた忍達は、瞬時に彼が只者では ない事を本能的に察した。
そして、自分達の記憶に間違いがなければ、正しく彼の正体は──

「……若を案ずる余り、命に背いたばかりか、若がご信頼されている貴方まで不快にさせ た事、平に御容赦下さいませ。そして…我々の言など信じられぬかも知れませぬが、どう か若の事、よろしくお頼み申し上げます」
「……」
本来なら、そのような人物と政宗を一緒にさせるなど言語道断であるが、ふたりの様子や あくまで一線を画したような彼の姿勢、そして何よりまるで今にも泣き出しそうな政宗の 横顔を眺めている内に、彼を己の主君から引き離す意思が、薄れていくのを覚えた。
自分達は、政宗という主君を守る為にある。
しかし、政宗を守る事と、政宗の自由を完全に奪うのは違う。
彼と政宗を再度見比べると、忍頭は深々と頭を下げながら、ふたりから距離を置いた。
「若。我々は、ひと足先に奥州にて、若のお帰りをお待ち致しております」
「え…」
「若の事ですから、要らぬ心配は無用とは存じますが…何卒道中お気を付けて」
流石に、完全に政宗をひとりにする事は出来ないが、それでも元来主に忠実な忍たちは、今 後彼らが奥州に到着するまでの間、常に一定の距離を置く事を決めると、最後にもう一度政 宗たちに頭を垂れたや否や、音も立てずに消え去った。
そして、残されたのは。

「……」
「…………」

伊達の隠密が姿を消した後も、ふたりの間に漂う不穏な空気は、払い切れてはいなかった。
無言で足元を凝視したままの青年に、政宗は声もかけられず、青年の代わりに引いていた馬の 手綱を握り締める。
様子のおかしな人間達を、馬は訝しがるように、ひと声ブルルと唸った。
すると、そんな馬の鳴き声に、青年は弾かれたように顔を上げると、政宗の方へと近付いて来た。
無表情のまま歩を進めてくる青年を、政宗はまともに見返す事も出来ず、咄嗟に視線を反らす。
様子のおかしな主人を労わるように鼻を寄せてきた馬を優しく叩くと、青年はやがて政宗を振り返った。
「──お乗り下さい」
「え…」
「急ぎます。日が暮れる前に、国境まで参りましょう」
「ゅ…」
市井の生活の中で身に付けたと思しき愛想笑いを、ぎこちなく浮かべた青年は、先に馬に跨ると政宗 を促した。
自分が彼の馬に乗る時は、必ず差し出してくる手を、やはり政宗も何処かぎこちなく取る。
そのまま無言で走り続ける青年に、どうにかして気まずさを誤魔化そうと口を開きかけたが。
「申し訳ありません。今は、走る事に集中させてくれませぬか?」
優しいが、有無を言わさぬといった青年の声に、政宗はそれ以上何も言う事が出来なかった。
それは、政宗に彼の腰に手を回す事すら躊躇われ、思わず背後の隙間をあけようか、という気にさせる ほどであった。
しかし、
「……お客様」
「な、何だよ」
「危ないですから、しっかり掴まっていて下さい」
己の腰に巻かれた腕が緩んだのを確認した青年の右手が、背中越しに政宗のそれを遮ってきたので、逆 に政宗は驚愕の声を上げた。
「あ、あ、危ねぇのはお前の方だろうが!?手ぇ放してんじゃねぇよ!」
「少しの間なら、大丈夫です。ですが、言うとおりになさって下さらなければ、私の手はず っとこのままですよ?」
「わ、判ったよ…判ったから、ちゃんと手綱を取ってくれ!」
「はい。これで、安心して飛ばす事が出来ます」
己の腰に巻きついた政宗の腕を確認した青年は、馬の腹を軽く蹴ると、更に加速する。
突如上がった速度に、政宗は反射的に彼の背に身体を寄せた。
直後、肌に感じた彼の温度と覚えのある匂いに、政宗の鼓動は馬の速さに劣らぬほど騒ぎ出す。
そして、そんな政宗の温もりを、青年もまた心の何処かで無視出来ずにいた。


その後、一度きりの休息のみで走り続けた青年の馬は、無事に隣国との境まで辿り着いた。
黄昏れてきた空を仰ぎ見た後で、青年は周囲に視線を漂わせる。
「どうしたんだよ?」
「いえ。確かこの辺りに…あ、」
そう尋ねる政宗に答えるのもそこそこに、何かを見つけたらしき青年は、馬を下りると一軒の旅籠へと 向かった。
「よう。思ったよりも早かったじゃねぇか」
「あまりお待たせするのも、申し訳ないので。よろしくお願いします」
するとそこには、青年に気さくに声を掛ける見知らぬ男がいた。
その成りや、青年と同じく馬を連れている姿からして、どうやら同業者のようである。
暫し、ふたりで話し込んでいた青年と男は、やがて政宗の元へ来た。
「へぇ、この人が今回のお客さんかい。これまた、立派そうな方だなあ」
「『そうな』じゃなくて、本当に立派な方なのですよ」
「……?」
不審な政宗の表情に気付いたのか、青年は男を一瞥すると、政宗に紹介する。
「この人は、私と同じ運び屋で、主にこの国境からお客様の行かれる奥州方面への道を、専門とし ているのですよ。以前にも少しだけお話ししたと思いますが」
「ヨロシクな、お客さん。ここまでの道のりは、結構大変だったろう?」
だが、話しかけてくる男から避けるように、政宗は青年の背後に回った。
「何だ?俺、ヘンな事言ったか?」
「…お客様?」
まるで子供のように、自分の右腕に縋り付いて離れない政宗を、青年は二、三度瞬きしながら見 つめる。
「……ま、いっか。確かに、いいトコのご子息様にとっちゃ、俺らみてぇなのは得体の知れないト コがあるんだろうな。ホラよ、これ。頼まれたモンだ」
「有難うございます」
差し出された紙筒のようなものを、青年は受け取ろうとしたが、右腕を政宗に拘束さ れている状態では適わなかったので、男に言って自分の襟元に差し込んで貰った。
状況が良く飲み込めていない政宗に気付いたのか、男は、己の口元に蓄えられた無精ひげをし ゃくると、そのまま政宗に視線を移した。
「なあ、お客さんみたいな御身分の方にとっちゃ、俺らは怪しいモンかも知れんが…そいつは本 当にいいヤツだぜ?ちゃんとアンタを送り届けてくれるから、心配すんなよ」
「?」
「じゃあな」
豪快に笑いながら、男はふたりから背を向けると、やがて自分の馬に乗り、去っていく。
段々と小さくなっていく男の姿を見送った後で、漸く政宗は全身の力を抜いた。
次いで、自分がそれまで青年の腕に全体重をかけていた事を知ると、弾かれたようにそれを放した。
「わ、悪ぃ!い、痛かったろ!?」
「いいえ。大丈夫ですよ」
慌てて謝罪の言葉を口にする政宗に、青年は優しい笑みで応えた。
それが、先程のような作り笑いではない事に、政宗は深く安堵の息を吐く。

不安だったのだ。
自分の仕打ちに腹を立てた彼が、先程の男に自分を任せ、甲斐に戻ってしまうのではないか、と 考えていたのだ。
しかし、そんな政宗の気持ちに気付いたのか、青年は僅かに上体を屈めて政宗に視線を合わせ ると、穏やかに続けた。
「実は、お客様の依頼を受けた時に、奥州近辺の細かい地理や旅籠などの事情を教 えて貰うよう、彼に文でお願いしていたのですよ。だから、彼は私たちがここに来るのを待ってい たのです」
「そ、そうか…」
「はい。それよりも……」
青年は言葉を切ると、政宗に深々と頭を下げる。
「先程は、本当に申し訳ございませんでした。事情も知らず、お客様に対して理不尽 に腹を立てるような真似をしてしまって」
「い、いいんだ!謝ったりすんなよ!悪ぃのは俺の方だ。お前を騙した、って言われても仕方のな い事してたんだから…」
「それでも、私には許されない事でした。何卒ご無礼をお許し下さい」
「……もういい、って言ってるじゃねぇか。だから、顔上げろよ。アンタの仕事は、頭下げ続ける事じ ゃねぇだろ?」
「お客様…」
「さて…と、すっかり日も暮れた事だし、メシでも食おうぜ?俺、腹ペコなんだ」
「──はい」


青年の名を心の中で呟くにとどめた政宗は、どうしても縮まらない彼との隔たりに寂しさを覚 えつつも、努めて明るく振舞っていた。




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