甲斐の国境付近の小さな村に、力強い蹄の音がこだました。
馬に跨った青年は、村長(むらおさ)の屋敷の前で馬を止めると、 その背に載せていた荷を下ろそうと縄を解きにかかった。

「よぉ、今日も早かったな。手伝ってやるよ」
「恐れ入ります」

庭先から出てきた使用人の厚意に、青年は素直に礼を述べた。
藁に幾重にも包まれた荷物を、青年は器用に片腕で受け取る。
馬を庭先に繋いでもらうよう、使用人に頼んだ青年は、右肩に荷物を担ぐと、 勝手口へと足を進めた。
入り口から声を掛けると、戸が開いて中からお勝手を預かる女中が迎えてくれる。
「ご苦労様。いつも悪いねぇ」
「いえ、これが仕事ですから」
労いの言葉を聞いた青年は、首を振ると口元を綻ばせた。
品物の代金を受け取ると、そのまま再び外へ出る。
「ああ、ちょいとお待ちよ。これ、もってきな」
パタパタと足音を立てながら、女中は何やら包みを手に、青年の背に呼びかけた。
振り返った青年の胸元に、それを突きつけながら、女中は愉快そうに笑う。
「今日は、いい小豆が入ってね。余りモンだから、遠慮しないで食っとくれ」
「……有難うございます」
竹の皮に包まれた饅頭を見て、青年の顔が嬉しそうに綻んだ。
戸口の前でもう一度頭を下げると、青年は今度こそ屋敷を後にする。
包みを右手に持ったまま、青年が踵を返した瞬間。

膨らみのまったくない青年の左袖が、ふわりと風に翻った。


武田・伊達の同盟を期に、ようやく人々の生活も、落ち着きを取り戻し始めていた。
そんな折、ひとりの青年がこの村に訪れた。
上質とまではいかないが、手入れの行き届いた葦毛の馬に揺られながら、青年は穏やか な瞳で村の様子を眺めていた。
一緒にいた男(かつて青年の家で、彼の世話係として働い ていたそうだ)の話によれば、隣国で暮らしていた青年は、戦乱によって家族を失くし、 自分もまた片腕を失うという災難に見舞われたらしい。
その後、青年は男の家で過ごしていたが、人ひとり食うにも 難儀しているこのご時世、いくら元・雇い主の息子とはいえ、男の家族からは、穀潰 しの厄介者扱いをされていたという。
ある程度傷が癒えたのを期に、青年は身の回りの僅かな荷物と、形見である馬 (「これだけは売らないでくれ」と懇願したらしい)と共に、男の家を後にした。
せめて道中までは、と、男は青年の護衛も兼ねて、一緒にこの村まで来た次第である。

「若旦那様は、かつては隣国で荷を運ぶ仕事をしておりました。馬を操る術は、腕が 不自由になった今もご健在ですし、勘定や読み書きも出来ます。どうかこの村に置い てやって頂けないでしょうか」

深々と頭を下げながら、男は懐からなけなしの金子(きんす)を、村長の袖の下に通し てきた。
戦続きで、男手が足りなかった所だし、時々様子を見に来るという男の言葉に、村長は、 青年を村に住まわせる事を承諾した。
青年は、田畑を手伝う事もあったが、やはり片腕では出来る事が限られているので、 おもに自分の得意な馬を使った『運び屋』をしながら、生計を立てていた。
始めの内は、よそ者かつ片腕のない青年の事を気味悪がる人間もいたが、その真面目な 働き振りと、子供達に絶大な信頼を寄せられる姿を見て、次第に村人たちは、彼の事を 受け入れるようになっていったのだった。


仕事を終えて家に戻った青年は、馬小屋に愛馬を繋ぐと、薪割り用の切り株に腰掛けた。
先程お裾分けに頂いた饅頭を広げると、美味そうにひと口頬張る。
茶碗に白湯を注いでひと息吐きながら、青年は空を仰いだ。
名も無き小さなこの村からは、甲斐や信州・その他の国へと続いている。
果たして、遥か遠くの国にも、ここと同じような空は広がっているのだろうか。

──そして、遥か遠くにいる「あの人」も、こうして自分と同じように空を見上げているのだろうか。


「…?」
不意に、青年の頭上に何かがふわりと舞い降りてきた。
茶碗を置いた青年は、些か危なっかしい手つきで、地面に落ちる前にどうにか拾い上げる。
「これは…」
それは、一枚の漆黒の羽であった。
次いでバサリ、と羽音を立てながら、一羽の烏が青年の上空をゆっくりと旋回するのを確認すると、 青年は立ち上がって、烏の飛び去った方角へと小走りに駆けていった。




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