叩きつけるような雨の音に、自然と会話の声も大きくなっていく。

「大丈夫ですか!?」
「気にすんな。俺の事はいいから、馬だけ注意しながら走れ!」

突如襲ってきた豪雨に、ふたりは雨宿りをする間もなく濡れ鼠になった。
濡れそぼった地図で、懸命に休む場所を探している青年に代わり、土地勘の ある政宗が、道案内する形で馬を走らせる。
「この峠を抜けりゃ、奥州に入る。そうすりゃ旅籠が幾つかあるから、馬と一緒 にお前も休め」
「は。では、私は…」
「厩舎じゃねぇぞ。ちゃんとした部屋で休め、つってんだ」
「…え?」
「Don't worry.ここら辺は…」
俺の庭だ、と言いかけた所で、政宗は一旦言葉を止める。
「…ここら辺は、俺も何度か利用した事がある。だから、この間みたい な心配は無用だ」
「有難うございます。ですが、お気持ちだけ…」
「──あのな」
頑なな青年の態度に、政宗は苛立たしげに背後から彼の奥襟を引っ張った。
「あんま言いたくねぇけどよ…アンタ、一応身体は洗ってるみてぇだけど、背中までは 上手く出来ねぇんだろ?この頃一緒に馬に乗ってると、微妙に臭って来るんだよ」
「えぇっ!?」
心底驚いたような青年の声を聞いて、政宗は微妙に口元を綻ばせる。
「も、申し訳ございませぬ!とんだご無礼を…」
「いいって。長い道中、ここまで無事に走らせてくれただけでもめっけもんだ。…けどよ」
青年の襟から手を離した政宗は、そのまま彼の腰に回しつつ、己の額をその広い 背中にこつりと押し付ける。
「…奥州の城下まで、もうすぐだ。家のモンが俺を迎えた時に、あんまりみすぼ らしい格好されてちゃ、何だか俺が、アンタを虐待してたみたいに見られるじ ゃねぇか」
「そのような事は…」
言いかけて、青年は自分の腰の前で組まれた手が、僅かに震えているのに気が付 くと、馬に二、三労いの言葉をかけた後で、何度目かの鞭を入れた。
「……この雨では、身体が冷えるのも当然です。うっかり失念しておりました。 出来る限り飛ばしますので、道案内を頼みます」
「…おう」
鞭を入れる前に、優しく己の手を包んできた青年の温もりに、政宗は彼の背後で頬 を紅潮させると、小さく頷いた。


かなりの夜更けになって、漸くふたりを乗せた馬は、一軒の旅籠に到着した。
大雨の中の来客の為に手巾を持って出てきた旅籠の主人は、目の前に現れた人物に 思わず息を飲む。
「…何も聞くな。こいつは俺の為に、遠くからずっとここまで付き従ってくれたヤツだ」
己の名を出そうとした主人を黙らせると、政宗は淡々と説明する。
「馬を休ませたら、こいつを風呂に入れて、背中を流してやってくれ。そしたら、俺 と一緒の部屋へ連れて来い」
「かしこまりました。長い道中お疲れ様でごさいましたな。さあ、こちらへ」
いつぞやの旅籠であったぞんざいな態度ではなく、青年の腕を一瞥しただけで、主人は 恭しく頭を下げながら、入室するよう促してきた。
「い、いけません!やはり私は…」
「…さっきも言っただろ?まだゴチャゴチャ抜かすんなら、俺自らお前の背中を流すぞ」
唸るようにこちらを睨んでいる政宗に、青年は、恐縮しながら会釈をひとつ返すと、そ の場を後にした。
青年が去っていく足音を聞いた政宗は、深いため息をひとつ吐く。
奥州に入った今、青年と一緒にいられるのも、あと僅かの間である。
せめて、それまでにもう一度、もう一度だけ『あいつ』ときちんと向き合って話をしたい。
否、それよりも何よりも、自分の気持ちを伝えたい。
例え拒否されようが蔑まれようが、このまま別れる事だけは耐えられない。
慣れた様子でいつも利用する部屋へ進みながら、政宗は風呂から戻ってきた彼にどう話を切り出そうか、 頭の中で懸命に思考を巡らせていた。
一向に止む気配の無い雨を窓越しに眺めながら、政宗が壁に背を預けていると、やがて風呂を済ませた 青年が、遠慮がちに部屋に入ってきた。
「どうだ?温まったか?」
「お陰様で。本当に有難うございました」
「いいって、そんなの。……良かった」
余計な真似をしたのではないか、という仄かな政宗の疑念は、青年の穏やかな笑顔によって霧散する。
「はい?」
「な、何でもねぇよ」
こちらに向けられた青年の視線を、思わず避けるように顔を背けた政宗は、自分の意気地のなさに 内心で呆れ返っていた。
言いたい事は山ほどあるのに、いざこうして青年と相対すると、どうすれば良いのか判らなくなる。
気の利いた話題を出そうとするも、温和な表情はそのままだが、小首を傾げている青年の様 子に、口を開きかけては閉じるという事ばかりを繰り返す。
何度かそうしていると、それまで無言でこちらを見守るように視線を向けていた 青年が、徐に口を開いてきた。

「──いつかのお話ですが…貴方が気に掛けていらっしゃるというその人は、貴方を憎んでなどお りませぬよ」
これまで、必要以外には殆ど話しかけてこなかった青年は、僅かに身体を動かし、政宗からほんの少 しだけ距離を縮めると、言葉を続ける。
「貴方は、ご自分の所為で好敵手が戦場から出て行ったと仰いましたが、その者は、ただ逃げ出した だけですよ」
「え…?」
「仮に理由があったのなら、その旨を伝え、詫びる事も出来たでしょう。それこそ気概が あれば、多少の無理をしてでも、貴方との約束を果たすという選択肢もあった。なのに、しなか った。その程度の男だっただけです。戦場から下りたのではなく、それこそ戦場がその者を見限 ったのです」
「だけど、そうなったのは俺の…」
「違います。貴方の所為ではありません」
言い募ろうとする政宗に、青年ははっきりと首を振って応える。
そんな青年の言動に偽りがない事に、政宗は内心安堵したものの、未だ胸の内に引っかかる疑問を投 げかけていた。
「だったら…だったら、逃げ出す必要なんかなかったじゃねぇか?言ってくれれば良かったじゃね ぇかよ!俺は、俺はずっと待ってたのに…」
悲痛ともいえる声色に、青年は一瞬だけ眉を顰める。
「それは…彼が、貴方と対等になれる唯一の場所が、戦場だったからです」
「What…?」
「貴方は、一国の主たる雲の上のお方。そんな貴方と、一介のもののふに過ぎない彼とでは、あまり にも隔たりがあり過ぎる」
自嘲気味に呟いた青年は、ひとつだけ深呼吸すると政宗から顔を背ける。
「気高く強い貴方を、恐れ多くも自分如きの人間が相手仕る。…それだけで、その者はこ れ以上ない程に幸せだったのです。ですが、戦場に立てなくなった時、彼は改めて己の不甲斐なさと、貴 方との立場の違いを思い知らされたのです」
伏目がちな青年の横顔を、政宗は食い入るように見つめ続ける。
「こんな自分では、貴方と対等になどなれない。何よりも、今の情けない姿を貴方にだけは見られたくな い。ならば、このまま忘れ去られた方がいい……つまらぬ矜持とお笑い下さって結構です。貴方が 『らいばる』と思っていた男は、所詮約束ひとつ満足に守れぬ、卑屈な愚か者なのです」

──だから、どうかこれ以上思い悩まないで欲しい。
竜となって天下へ駆け登らんとするお方が、何故芥塵(かいじん)の如き男に執着する必要があるのだ。
かつての無鉄砲なまでに貴方と渡り合ったもののふは、戦う事も出来ぬのだから。
貴方と同じ戦場という舞台に立つ事など、最早二度とないのだから。


夥しい風雨が、部屋の雨戸を揺らす音に、青年は我に返ると、政宗からは背を向けたまま居住まいを正した。
「申し訳ございませぬ。少々、喋り過ぎました。さあ、明日はいよいよ奥州城下です。そ ろそろ…」
「──だったら」
話しながら再度振り返った青年は、次の瞬間思わず言葉を失った。
着物から下帯、眼帯まで全て脱ぎ捨てた政宗が、真っ直ぐに自分を見据えて来ていたのだ。
「お客様…?」
「だったら…今の俺は、一国の主でも何でもねぇ。お前という存在に惚れこんだ、ひとりのちっぽけな男だ」
何処か思いつめたような眼差しで歩み寄ってくる政宗を、青年は呆然と見守る事しか出来なかった。
「俺だって、似たようなモンだ。テメェのワガママで、アンタや家の奴らに面倒掛けて、粋がる割りにゃ独りじ ゃ何にも出来やしねぇ」
青年の前に佇む政宗は、俯いたまま言葉を吐き出し続ける。
「今回の事だってそうだ。迷惑がってたアンタを、甲斐からこんな所まで連れて来て……無理 だって判ってんのに、それでもアンタとこのまま奥州で暮らせないか、なんてお目出度い事まで考えて……」
「お客様」
小刻みに震え出した政宗の両肩を見て、青年は打ち捨てられていた彼の着物を手に取る。
しかし、その前に全体重を青年に預けて来た政宗によって、ふたりの身体はだらしなく床に崩れる。
「俺の事、嫌ってても呆れててもいい。これっきり、今生の別れだって構わねぇ。ただ…」
逃すまい、とばかりに青年の身体に縋りつく政宗の左目には、大粒の涙が零れ落ちていた。
気遣うように視線を返す青年に、益々ぼやけて来た視界に任せて、彼の広い胸に顔を寄せると、半分声にな らぬ声で想いの丈を吐き出した。

「……会いたかった。ずっとずっと、俺はアンタに会いたかったんだ…!」
「──!」

堪え切れずに嗚咽を漏らし始めた政宗に、青年はためらいがちに右手を伸ばす。
すると、そんな青年に気付いた政宗の両手が、逆に青年の手を包み込んだ。
青年の不自然な左袖とそれを見比べると、政宗は万感の想いで己の顔を押し付ける。
か細い泣き声と、右手に落ちる涙の感触に、青年は様々な感情をその貌に刻むと、政宗の頬をそっと撫 でた。
僅かに驚いたような政宗が顔を上げるのを見止めると、そのまま彼の耳元で小さく囁く。
彼の口から告げられた自分の名を聞いた政宗は、子供のようにしゃくり上げながら、もう一度青年の 身体をきつく抱き締めた。



弱々しいすすり泣きの声に紛れて、規則的に繰り返されるふたり分の荒い息遣いは、やがて外の雨音に紛 れ、ゆっくりと掻き消されて行った。





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