翌朝。
昨夜の風雨が嘘のような蒼穹を、青年は眩しそうに仰いだ。
日の光を受けて輝く庭木の朝露に視線を移した後で、青年は傍らに眠る政宗の姿を見つめる。
目元を赤く腫らせているが、それでも何処か穏やかそうな寝顔に、青年は無意識に手を伸ばしか けたが、寸での所で引っ込めた。
あの気高く強い彼が、泣きながらすべてを曝け出してきた時。
青年は今までの政宗に対する印象を、大きく変えざるを得なかった。
これが、今まで隠されていた本当の彼だというのか。
それとも、彼をここまでさせてしまったのは、自分なのだろうか。
──だが、今の自分には何も出来はしない。
はるか昔に、その資格を自ら放棄したのだから。

(……お許し下され)

口に出す事もためらわれた青年は、眉根を顰めながら心中で謝罪をすると、あえて何も考えぬよう努め ながら、身支度を整えた。
次いで、馬の様子を見に行こうと部屋の戸に右手をかけた直後、背後から政宗のくぐもったような声が 聴こえて来た。
「──お目覚めですか」
「あ…」
「おはようございます、『お客様』」
気だるそうに身を起こした政宗の左目に、いつもと変わらぬ青年の姿が映る。
「さあ、城下まであと少しです。私は厩舎におりますので、準備が出来ましたら声を掛けて下さい」
ゆっくりでいいですよ、と付け加えながら、青年は政宗に一礼すると部屋を後にした。
素っ気無いほど淡々とした青年の様子に、政宗は思わず昨夜の出来事は夢だったのか、と錯覚しそうになった。
だが、微妙な身体のだるさと下腹部に残る仄かな痛みは、それが紛れもない真実だと政宗に訴 えかけてくる。
駄々っ子のようにすがりつく自分の耳元で、ためらいがちに一度だけ返された名前。
そこに籠められた彼の想いを、政宗は全身全霊で受け止めた。
片腕でも力強く包み込んでくれた彼の温もりを思い出した政宗は、今一度両腕で己が身体を抱き締める。
昨夜、互いの想いを確かめ合えたのではなかったのか。
それとも、余りにも滑稽な自分を憐れんだ彼が、情けをかけてくれただけだというのか?
悲観的な思考に陥るまいと、首を振る政宗の視線の先に、嫌になるほど見慣れた奥州の風景と、それらを見下 ろす青空が広がっていた。


想いの外支度に時間がかかってしまった政宗は、旅籠の外で馬と一緒に自分を待つ青年の下へと足を急がせる。
「大丈夫ですから。慌てないで下さい」
そんな政宗を見止めた青年は、馬鞍をつけていた手を止めると、政宗を制そうと歩み寄ってきた。
「わ、悪ぃ。待たせたな」
「いいえ」
言いながら、青年は再び馬の傍へ戻ると、途中だった馬鞍の設置にかかった。
いつもと違う鞍に気付いた政宗は、背後から青年に尋ねた。
「何やってんだよ?」
「今日は、お客様が前にお乗り下さい」
鞍に小さな座布団のようなものを取り付けながら、青年は政宗を促す。
「どうしてだよ?いつも俺が後ろに乗ってるじゃねぇか」
「城下に着けば、御家族の方が貴方をお迎えなさるでしょう。その時に、前にいるのが私では 不恰好ですよ」
「だけど…」
「それに…その……」
何処か言い淀んだ様子の青年を、政宗は首を傾げて見つめていたが、直後彼が小さく呟いた言葉を 聞いて、たちまち顔を赤くさせた。
「前の方が揺れませんので…あの、大丈夫ですか…腰……いえ、お身体……」
「わ、判った、判ったから!それ以上言うな!」
自分を気遣っての発言だったのに、つい大声を出してしまった政宗は、気恥ずかしさから鞍の取り 付けられた馬に逃げるようにして跨った。
ややあって、背後に青年が乗るのを覚えた政宗は、彼と一緒にいられるのもあと僅かなのだと気付く。
「さあ、参りましょう」
「…ああ」
いつもと変わらぬ声が憎らしいほど心地良く、それでいて政宗の胸の内を、じわじわと侵食し始めて きた言い知れぬ不安が襲ってくる。

もう、本当にこれっきりなのか。
二度と会う事も、心を通わせる事も出来ないのか。
何よりも、お前はこのまま、俺を忘れ去ってしまうのか。
そんなのは、イヤだ。
でも。

「見事な空ですね」

不意に届いた青年の声を聞いて、政宗は空を仰ぐ。
雲ひとつない晴天に思わず見入っていると、
「──貴方とはじめてお会いした時も、こんな青空でした」
それまで手綱を取っていた青年の右手が、政宗のそれに重ねられた。
心地良い彼の温もりを直に感じた政宗は、たちまち鼓動を速める。
「貴方の力強い眼差しと、潔いまでに揺ぎ無き心根は、一点の曇りなき蒼穹そのものでした。それ こそ、私が焦がれてしまうほど」
「what…?」
反射的に背後を振り返ろうとした政宗だったが、それは青年の優しく、だが力強い手によって戻されてしまう。
「以来私は、空を見上げる度に、貴方の事を思わずにはいられませんでした。己が駆け上らんと する蒼穹をその身に湛えた美しき竜の姿を」
馬の歩調を緩めた青年は、僅かに頭を動かすと、政宗の耳元に顔を近づける。
彼の息遣いと体温を感じただけで、政宗の心臓は、早鐘のように鳴り続けていた。
「私が、戦場から逃げ出した後も、幾度となく心が折れそうになった時も、私は空を見上げ続けて いました。この空の向こうには、貴方がいる。どのような隔たりがあっても、貴方と私はこの空を通 じて繋がっている……そう、思えたから」
政宗から顔を離した青年は、至極穏やかな声で噛み締めるように続けた。
「だから…大丈夫です」
「ぇ…」
「この命ある限り、私は貴方の事を想い続けています」
「……」
「お気楽な落伍者が何を、と思われるでしょうが…貴方が駆け上らんとしている天の遥 か下ですが、私は何処かで走り続けております。貴方を忘れたりなんかしません。いいえ、未練たらし く忘れられぬ事を、どうか許して下さい。私は……」
「──もう、いい」
続けようとした青年の言葉を、政宗は半ば押し入るように遮った。
「もういい。もういいから…」
「お客様…?」
震える肩を懸命に留めながら、政宗は声を振り絞る。
「お前の気持ちは…ちゃんと判ってるから……」
「…はい」
片手に複数の段平を操る政宗のそれは、いつしか青年の右手をこれでもかと握り締めて いたが、青年は何も言わず、再び馬を走らせた。


賑やかな町の一角へと入った馬は、幾つかの通りを抜けると、その脚を止めた。
先に馬から下りた青年は、群集に紛れて主の到着を待ちわびていた人物に、深々と頭を垂れる。
「貴方は…」
目を見開いて自分を見据えてきた政宗の重臣たる男に、あえて沈黙を通すと、青年は政宗の手を取って 馬から下ろした。
「…到着です。本当にお疲れ様でした」
「世話になったな」
「こちらこそ。とても楽しき道のりでございました」
笑顔で返してきた青年に、政宗は男に声を掛け、相当量の金子の入った袋を、彼の前に差し出した。
「困ります。こんなには頂けません」
「長い間ずっと、俺のワガママに付き合ってくれた礼と迷惑料も込みだ。金は、あって困るモンじ ゃねぇ。とっとけよ」
返事を待たずに、政宗は袋を青年の右腕に半ば強引に押し付ける。
恐縮交じりに会釈を返してきた青年に、政宗は満足そうに頷くと、青年から離れるようにして歩を進めた。
「町外れまで送ってやりてぇトコなんだが…俺も忙しいからよ。悪ィけど、ここでな。大丈夫だとは思うけ ど、気をつけて帰れよ」
「はい。本当に有難うございました」
「バーカ。礼を言うのはこっちだろうが」
「どうかお元気で」
「お前も。達者でな」
「はい」
手を振った政宗が、自分から背を向けて歩き始めたのを見届けた青年は、元来た道を戻るように引き返していった。

蹄の音が遠ざかっていくにつれ、政宗の足取りは急速に重くなっていった。
「……政宗様?」
そのまま足を止めてしまった主を、伊達家重臣片倉小十郎は、気遣わしげに窺う。
やがて、力なくその場にしゃがみ込んだ政宗は、堪え切れない嗚咽を、覆った両手の間から零し続けていた。


『俺は、ずっとお前に会いたかったんだ…!』
切ない叫びと肌の記憶が、思い返す度に青年の心に圧し掛かってくる。
(これで良かったのだ。今更何が出来るというのだ)
たとえ一夜でも、あの人を自分のものに出来た。
この頼りなげな腕に抱く事が出来た。
それで充分ではないか。
これ以上、他に何を望むというのだ……
押し寄せる感傷を振り切るようにしながら、青年はがむしゃらに馬を走らせ続けていたが、甲斐に通じる山道を 駆けていると、前方から何かが近付いて来た。
「やっと見つけた!今まで何処行ってたんですか!?」
それが、かつて自分の影武者としても働いていた草のひとりだと気が付くと、青年は僅かに緊張を緩める。
「お前は…何故、こんな所に?」
「話は後です。とにかく一緒に来て下さい!……大将が!」


草の語尾にあった名を耳にした瞬間、青年は顔色を失った。




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