青年は、感情を隠すことも忘れたかのような顔で、がむしゃらに 馬を走らせ続けていた。
「口止めされてたんだけど…ホントは大将、随分前から病を患ってたんだ」
そんなかつての主を気遣いながら、彼を先導する草の男は、ポツリポツリと話し始める。
「だけど、他の皆は勿論、何よりも大将があなたにだけは言うなって。自分の事であな たの決心を鈍らせるような真似はしたくないって」
「……」
「でも…いよいよ、そんな事言ってられない状況になっちゃって……大将、この頃じゃう わ言で、あなたの名前ばかり呼び続けてる。知らせようとしても、あなたは村にはいな いし、だから、薬師(くすし)と一緒に付きっ切りで看病してる長(おさ)の代わりに、俺 が探してたって訳です」
「…そうか」
やがて、青年の眼前に、見慣れたかつての景色が広がってきた。
俯き加減で馬を操る青年を一瞥した草の男は、暫し口中で何かを持て余すようにしていたが、 やがて心を決めたのか、先程よりも大きな声を出した。
「あなたは…ご自分が思うほど、非力なんかじゃないですよ」
「?」
「それは長や俺達だけじゃない。勝頼様も大将もみんな、内心では同じ事を思ってる。 あなたは、今でもこの国にとってなくてはならない方なんだ」
「小介(こすけ)…」
「すみません…出すぎた真似でした」
小介、と呼ばれた草の男は、困惑気味に視線を返してきた青年に小さく詫びると、屋敷に通 じる外門を飛び越える。
同時に、青年が門をくぐるのを確認すると、そのまま厩舎まで案内して馬を繋がせた。
「どうしたんですか?」
自分の周りをしきりに見回す青年に、小介は訝しげに問い掛ける。
「いや…このようなみすぼらしい格好で、あの方の前に出て良いものかと…」
「中身があなたじゃなきゃ、何着てても意味ない事くらい、判んないんですか!?い いから来て下さい!」
小介に右腕を引かれながら、青年はためらいがちに屋敷の中へと足を踏み入れる。
広間へ続く廊下を渡りかけた所で、向こうから桶を手に歩く見慣れた人影を見つけた。
「…長!連れて来たー!」
人影の正体に気付いた小介は、半ば叫ぶようにして呼び止める。
小介の呼びかけに気付いた人物は、心なしかやつれた顔でこちらを振り返ると、直後その目 を見開いた。

「ダンナ…?」
「佐助」

青年の口からはっきりと自分の名を呼ぶ声を耳にした佐助は、次の瞬間、桶を放り出すと青 年に駆け寄り、しがみついた。
「ダンナ…ダンナ……!」
「佐助…」
「ゴメン…ゴメンよ。俺、ずっとダンナにウソついてた。大将の事、武田の事…竜のダン ナの事、何もかも。だから…今、こんな風に罰が当たったんだ……!」
青年の腕の中で、佐助は何度も謝罪の言葉を繰り返していた。
青年は、片手で器用に佐助の目尻を拭うと、労わる様に声を掛ける。
「お前は…今までずっと、私の為に尽くしてくれたではないか。お前の働きが、どれだけ 私にとって救いとなっていた事か」
「ダンナ…」
「有難う。本当に」
「…っ!」
青年の穏やかな笑顔を見た佐助は、思わずしゃくり上げると、再度かつての主の胸に縋り ついた。
ひとしきりそのままでいた後、それまで青年に胸を借りていた佐助の体重が、急激に圧し 掛かってきた。
「──無理もありません。ココんとこずっと、詰めっぱなしでしたからな」
「…ふ。流石の猿飛佐助も、主君絡みの事となれば冷静ではいられなかったか」
突如意識を失った佐助に困惑する青年を余所に、何処からともなく現れたふたりの忍 が、彼から佐助の身体を引き離す。
「甚八(じんぱち)、才蔵(さいぞう)…」
「お久しゅうございますな。長からそれとなく聞いておりましたが、息災なようで何よりです」
「長の事は、我らにお任せを。あなたは、一刻も早くお館様の元へ」
ふたりの忍に佐助を預けた青年は、再度小介に連れられて、屋敷の奥にある広間へと辿り着いた。
青年が、遠慮がちに扉を開けると、中から言いようのない空気が漏れ出てくる。
「!そなたは…」
青年の姿に気付いた武田の家臣が、弾かれたように向き返った。
驚きと戸惑いに加え、若干の猜疑や疎外感を匂わせた視線に晒されながら、青年は、ゆっくりと だが着実に歩を進めて行く。
「…勝頼様」
声を掛けられた武田勝頼は、鼓膜に響いた心地良き男の声に、待ち侘びたとばかりの顔で 振り返る。
「おぉ…」
「申し訳ございませぬ。このような姿で」
「良い、良いのだ。本当に良く来てくれた……!」
膝を折って頭を下げようとした青年を押し留めると、勝頼は青年の右手を万感の想いで握り 締めた。


青年が武田を出奔した際、勝頼は、心の何処かでそれを喜んでいた。
偉大なる『虎』の息子という劣等感を拭い切れずにいた自分にとって、その虎から『若子』と 呼ばれるほどの信頼を得ていた彼の事を、羨ましくもあり、同時に妬ましくもあったのだ。
故に、そのような彼が武田を去れば、父は自分だけを見てくれるという幼稚な邪推を抱きな がら日々を過ごす内に、それが間違いである事に気付いた。
父が『虎』でいられたのは、『若子』あってこそのものだったからだ。
自分では、『虎の息子』にはなれても『若子』にはなれぬ。
彼と自分は、父にとってまったく異なる存在だというのに、稚拙な感情に振り回されていた自 分は、それが判らずにいたのだ。
以来、己を改めた勝頼は、父の威光に捕われ過ぎず、自分なりのやり方で国を治めていく事に決めた。
『虎』になれぬのなら、真の意味で『武田信玄の息子』となれば良い。
それこそが、偉大なる父を越える事でもあると、かつての父の重臣達にも積極的に意見を聞き 入れ、父の築いたこの国の地盤を固め、次代に伝える事に尽力した。
そうした勝頼の姿は、次第に周囲の認める所となり、現在では『信玄の後継者』としての 名声を得つつある。
しかし、そのような中、常に気にかかるのが彼…『若子』の存在だった。
こうして甲斐の安寧を治めた今でも、自分たちにとって彼は、必要な人物なのだと思わずにはいられない。
勝頼自ら村に赴き、彼を説得しようかと考えていた矢先、以前から病を患っていた信玄が、いよいよ重篤 の状態に陥ってしまったのだ。

「思えば、そなたをこのような境遇に晒し続けているも、私の狭量さが招いた過ち。本当にすま ない事をした」
「…そんな!どうか、面をお上げ下さい!あなたのようなお方が私如きに」
慌てて勝頼を制止しようとした青年は、その時、彼の背後から微かに聞こえた声に、耳をそばだてた。
暫しの間を置いて、もう一度部屋の奥に位置する床から、か細くも懐かしい声が、自分の名を呼 んでくる。
ためらいがちに勝頼を見た青年は、そんな彼が頷くのを認めると、逸る心を抑えながら床へと近付いた。
「……ぬし、は…何処におる?声が…聴こえたのだが……」
「──ここに」
かつて、共に戦場を駆け抜けていた頃とは打って変わった細い手を、青年は大事そうに胸元に掬い上げた。
「漸く…きおった、か。まったく…寝坊が過ぎるぞ?」
「申し訳ございませぬ」
変わり果てたかつての主君の姿を、青年は、ぼやけてきた視界いっぱいに収めた。
握った手はそのままに、青年は坐した状態で病床の主の傍へ寄る。
懐かしい声と温もりに安堵したのか、病床の信玄は、満足そうにひとつ息を吐くと、青年の隣に坐る 息子に呼びかけた。
「…すまぬが、人払いを頼めぬか。こやつと、ふたりで話がしたいのだ」
思わぬ信玄の提案に、家臣達からどよめきと反発の声が上がる。
「反対です!幾らかつての家臣とはいえ、所詮今は市井の者!」
「そうです。そのような卑しい身分の男が、恐れ多くもお館様と…」
暫し、様々な喧騒が辺りを包み込んだが、
「承知しました」
短く、だがはっきりと答えた勝頼によって、周囲は再び沸き返った。
「勝頼殿!?」
「この私が良い、と言っているのだ。それでも未だ、異を唱える者がおるというのか?」
僅かに語彙を荒げた勝頼の鋭い視線に、家臣達は不承不承引き下がった。
困惑気味な視線を寄越す青年に薄く微笑みを返すと、勝頼は、正面から青年を見据えながら、ひと言 告げる。
「どうか、父上を…信玄を頼むぞ」
「勝頼様……」
両の目を潤ませながら唇を噛み締めている勝頼に、青年は深々と頭を垂れた。


一気に人気の少なくなった空間に、青年と信玄は無言で佇んでいた。
かつて、それこそ毎日といっても良い程共にいたあの頃が、まるで夢のようだと青年は考えていた。
「ぬしは…少し、痩せたか?」
「──お互いに」
「ははは。それもそうだな」
信玄の呼びかけを聞いて、青年は苦笑しながら返事をする。
掠れ声だが、愉快そうに笑いを返した信玄は、ややあって身体を起こすと、青年に向き直った。
「いけません、お身体に障ります」
「良い。目の前にぬしがおるというのに、臥したままでなどいられるか」
労わるように背に手を置いた青年の温もりに目を細めた信玄は、言葉を続けた。
「ひとつ、尋ねる。…もしもだ。もしもワシの病が癒え、ぬしの腕が元通りになり……」
「!それは…」
「急くな、馬鹿者。『もしも』だと言ったであろう」
瞬時に眉根を寄せた青年の頭を、信玄は小突く。
殆ど力の篭もっていない主君の拳を、それでも青年は感慨深く受け止めていた。
「ワシの病が癒え、ぬしの腕が元通りになったとしよう。もし…ワシが今再び天下に名乗りを上 げたとしたら、ぬしはついて来るか?」
かつての威風堂々とした風貌は、病によってこけてしまっていたが、『虎』の眼光はそのまま に、信玄は青年に問う。
曖昧な返答は許さんとばかりに、己の右手を握り込んだ信玄を見て、青年は無意識に下を向く。
──どれくらいそうしていただろう。
長いのか短いのか判らない時が過ぎた後で、青年はゆっくりと己の口を開いた。
「以前の私ならば、何の迷いもなくあなたに付いて行ったと思います」
「ほう…で?」
「ですが…これまでの暮らしの中で、私は、自分が判らずにいた人間の様々な事を知りました」
心なしか視線を反らせながら、青年は僅かに震えた舌で言葉を続けていく。
「あなたの教えに従い、慢心する事なかれと、己を戒めていたつもりでしたが…いざ野に下り、市 井の人間として暮らしていく内に、私はいかに自分が愚かであったかを思い知らされま した。私が戦に明け暮れていた裏で、その戦に脅かされながら生きてきた人々を…この国の民の事 を、私は何も知らずにいたのです」
無言の空間にいいようのない怖れを感じ、青年はいつもより早口で捲くし立てる。
「人は石垣、人は城。かつてあなたから幾度も聞かされてきた言葉なのに、未熟な私は、己も又そ の石垣の一部である事を知らずにいた。市井の暮らしをするまでは、自分が特別な 人間か何かだと思い上がっていたのです」
そこで言葉を切った青年は、信玄と顔を合わせるのも憚られるとばかりに、坐したまま頭を下げた。
「お許し下さいませ。今の私は、あなたの言葉に二つ返事で付いていく事は出来ませぬ。 あなたを思えばこそ…あなたと共にある多くの人という名の城を、石垣を、私は何よりも守りたいのです…!」
這い蹲るように最敬礼をする青年の頭に、不意に何かが載せられた。

「それで、良いのだ……」

顔を上げた青年の視線の先には、信玄の嬉しそうな笑顔があった。
呆気に取られたような表情をしている青年の頭を、信玄は何度も撫ぜる。
「ぬしが我が下を去って以来、その事だけが気がかりだった。おそらく、これから戦乱の世は終息 を迎えていく。その時に、ぬしが己を見失わず、過去に縛り付けられずに生きてゆけるのかと……」
「……」
「だが、今のぬしならば心配いらぬ。これでワシも、思い残す事はない…」
刹那、信玄は苦悶の表情を浮かべると激しく咳き込んだ。
青年は弾かれたように信玄を支えようとするが、片手ではそれを仕切れず、共に体勢を崩してしまう。
「申し訳ございませぬ…!」
「よい」
かつての主君ですらろくに守れぬ現実に、青年は渋面を作るが、信玄は笑って首を横に振った。
「ただ…ぬしは、ひとつだけ考え違いをしておる」
「?」
「ぬしは、今でも充分強い。それは、単に武の強さではなく、人としての強さじゃ。未だ、ぬしを求め る者が数多おる事に、ぬしも気付いていよう…?」
「それは…」
「ぬしの、心のままに…生きよ。それが…ワシからの遺言じゃ……」
「──しっかり!」
己の右手を掴む信玄の力が、急速に失われていくのを感じ、青年は思わず声を張り上げる。
「すまぬ。ワシは……ぬしに荒事しか、教えてやる事ができなんだ、な……」
「いいえ…いいえ!私はまだ未熟にございます!どうか、この私にこれからもご教授を…!」
必死に言い募るも、信玄からなけなしの生気が失われていくのを、青年は感じていた。
止まらない涙を拭う事もせず、目の前の主君に懸命に呼びかける。

「許せ、……。ぬしは…ワシの、自慢の『若子』よ……」
「……『お館様』っ……!」

最早声にならぬ声で、青年が己の名を呼ぶのに、信玄は心底安堵したように微笑むと、やがてゆっくりと、醒める事のな い眠りへと誘われていった。




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