『甲斐の虎』武田信玄の遺体は、密葬とも呼べぬ乏しい弔いによって、地に還さ れた。
自らの死が、甲斐や他国に与える影響を考えた信玄自身の遺言によって、彼の 死は数年の間隠される事となったからだ。
偉大なる君主を失った悲しみに明け暮れる暇もないまま、勝頼を始めとする武田の家臣達 は、今後について慌しく物議を醸し続けている。
そんな様子を尻目に、かつての主の死を看取った青年は、生前彼が愛用していた面に付 いていた家紋と房の装飾の一部を形見代わりに頂戴すると、そのまま屋敷を後にしようとした。
その時、
「お待ち下され」
複数の家臣達の声が、青年を呼び止める。
振り返ると、何やら書状を携えた勝頼が、彼らの間から進み出てきた。
「ここに、信玄がそなたへと宛てた遺言状がある。おそらく、そなたに会えなかった時の為の ものであろう。受け取るが良い」
丁寧に封された書状を、青年は恐縮しながら受け取る。
「ですが、私は…」
「これから話す事を良く聞いて欲しい。私の考えが正しければ、おそらく今から私の言う 事は、そなたへの書…すなわち、信玄の遺志と同じであろう」
「…?」
「私の話を聞き、その書状を読んだ後なら、何処へ行こうとそなたの好きにして構わぬ。た だ、それまで暫し、そなたの時間を私にくれぬだろうか?」
仄かに目を赤く腫らせてはいるが、いつになく真剣な勝頼の表情に、青年は居住まいを正すと、 眼前の武田の新たな当主を見つめ返した。


2年後。
奥州筆頭伊達政宗は、城の窓から一望を見渡していた。
城下を行き交う人々を眺めた後で、視線を動かし天を仰ぐ。
『見事な青空ですね』
雲ひとつない蒼穹を己の視界におさめた政宗の耳に、いつかの青年の声が聴こえてくる。
彼の姿を脳裏に思い浮かべると、政宗は口元を綻ばせた。

あの日、城下で青年と別れて以来、政宗は甲斐に足を運ぶ事はなくなった。
視察その他は家臣達に任せ、自身は奥州で自国の地盤を強化する事に努めていた。
あれほど頻繁に甲斐を訪れていた政宗が、突然それを止めた事に、周囲は訝しく思っていたが、 それまでとは目に見えて落ち着いた政宗の様子を見て、そのままにしておく事にした。
『この命ある限り、私は貴方の事を想い続けています』
目を閉じれば今もなお、あの時の記憶が鮮明に蘇ってくる。
晴れ渡った空は彼との旅の道中を、真っ赤な夕焼は、紅蓮の如き彼の熱き心を。
そして。
雨の日には、あの忘れられぬ夜を。
会う事は叶わなくとも、自分と彼の心は繋がっている。
たとえ離れていても、この広い空の下で、彼は今も何処かで走り続けている。
だから、大丈夫だ。
自分は、この思い出だけで生きていける。

追憶に浸る政宗の元に、他国からの一報が届いた。
「申し上げます、政宗様。甲斐の武田信玄が、病没したとの事です」
「そうか…あの『足長坊主』、とうとうくたばったのか」
恭しく知らせを読み上げる小十郎に、政宗はほんの僅かだが表情を曇らせた。
「つきましては、今後の奥州と甲斐の同盟について話がしたいと、勝頼殿から来ておりますが」
「…そうだな。場合によっちゃ、同盟どころか、武田を討つ絶好の機会でもあるしな。流石にこれ は、俺自ら甲斐に出向く必要がありそうだ」
言いながら、政宗は小十郎に甲斐に向かう為の支度を命ずると、胸中に芽生えた複雑な感情に 眉を顰めた。


馬上から見渡す甲斐の街道は、あの頃と変わらぬ穏やかさを保っていた。
緩やかに馬を進めて行く内に、政宗の左目にいつかの村が映る。
「──Sorry, ちっとだけ待っててくれ」
家臣にそう言って馬から下りた政宗は、逸る心を抑えながら、早足で村の傍まで近寄った。
もう少しだけ近付いてみようかと、政宗は一歩、また一歩と足を動かしていく。
その時、
「ダンナなら、もういないよ」
政宗の背に、何処からともなく飄々とした声がかかった。
振り返ると、憎らしいまでに見慣れた忍装束姿の男が、面白そうに政宗を見つめていた。
「やっぱり来たね。久しぶり」
「…忍。いねぇって、どういう事だ?」
挨拶を返す気もないとばかりに、政宗は佐助に質す。
すると、佐助は軽く目を丸くさせると、先程よりも口調を和らげた。
「ああ、ゴメン。言い方が悪かったね。実はダンナ、随分前に仕事の都合で引っ越した んだよ。だから、この村にはもういないって事」
「…達者でやってんのか?」
佐助の返事に安堵しつつも、政宗は重ねて問うた。
「うん。俺、この間も会ったから。忙しそうだったけど、元気にしてたよ」
「そっか…」
「会いたい?」
「……本音言えばな。だが…これからテメェんトコのBossとの話次第じゃ、再び敵同士になる事だ ってあり得る。そうなったら俺は、アイツのいるこの国を滅ぼす災いそのものだ。だか ら…会わない方がいい」
「…そう。ま、どうせここにはダンナはいないしね。ついておいでよ。勝頼様が待ってる」
自分に言い聞かせるように述懐する政宗を一瞥すると、佐助は相変わらずの様子で、勝頼の待つ武田の 屋敷への道を、軽快な足取りで歩き始める。
そんな彼とは裏腹に、政宗は村の様子をもう一度だけ見据えると、やがてそれ を振り切るように元来た道を引き返した。


「ようこそ、お越し下さった」
屋敷を訪れた政宗を、武田勝頼が、にこやかに出迎えてきた。
「久しぶりだな。『虎』のジイさんの事、謹んでお悔やみ申し上げるぜ」
「よしましょう。『独眼竜』がそのようなしおらしい事を申されては、信玄が仰天しながら墓か ら飛び出してきます」
「ha,アンタも言うようになったなあ」
「ええ、長い間信玄と色濃い部下達を、散々この目で見て参りましたので」
久々に会う勝頼は、いつか顔を合わせた時より一層、武田の当主としての風格を匂わせていた。
それが虚勢ではない、もはや『虎』の威を借る必要のない程の風格と自信をその 身に纏う様は、『信玄の後継者』として相応しいものであったのだ。
二言三言、他愛のない会話をした後、両家の家臣すべてを別室に移動させた勝頼は、それ まで柔和だった表情を引き締めると、政宗に話を切り出してきた。

「信玄の死により、改めて甲斐と奥州の間で結ばれた同盟について、話し合う必要が出て参りました」
仄かに硬くなった勝頼の声を聞いて、政宗も僅かに左目を細める。
「おりしも、同盟の期限まであと僅か。本日は、伊達殿に我ら甲斐の…武田の方針を、是非とも 聞いて頂きたい。勿論、伊達殿がそれらに対して如何様に答えられても、受け入れるつもりでおりまする」
「…判った。何だ?」
頷く政宗に、勝頼はひとつ咳払いをすると、言葉を続けた。
「同盟とは言うものの、正直な話、我々は互いの国や情勢について、まだまだ知らぬ事が多い。勿 論、時折このように話をする機会がない訳ではありませぬが、実際甲斐と奥州の距離を考えると、それだけ では不足だと感じる所もございます」
「……まあ、否定はしねぇが。あまり突っ込んだ事を知らないからこそ、互いの均衡が取れてる っていうのもあんじゃねぇのか?」
「これまでの、血で血を洗うだけの戦ならば、それでも良いでしょう。しかし、我々がこうしている 間にも時代は動いております。おそらく、これからはある意味様々な困難や問題という名の戦が、我々 を待ち受けていると思われます」
「……」
「そういったモノに太刀打ち出来るよう、真の同盟であるならば、両国のこれか らの為にも、今以上に互いの認識を深めた方が得策ではないでしょうか?そこで、我々武田からひとつ 提案がございます」
「What?」
「それは、互いの国から家臣をひとり、それぞれの国に派遣し、常駐させる事です」
一片の迷いもなく断言した勝頼に、政宗は思わず目を見開いた。
「つまり…そりゃ、ある意味互いに『人質』取り合うって事だよな?」
「…ありていに言えばそうです。結論に至るまで、武田の間でも幾度も議論を交わし続けました」
以前よりも剛毅さと誠実さを増した勝頼の真剣な眼差しを、政宗は正面から受け止める。
「紆余曲折の末、どうにかみなの理解を得る事が出来、更にその役目を担う旨を告げる家臣が現れ ました。この甲斐と奥州…特に伊達殿。貴方のお役に立てるのならば、奥州に骨を埋めても構わない、と」
思わず零れ出た勝頼の笑みに、政宗は、彼が実際に経験したであろう当主ゆえの苦悩を想像していた。
ここへ来るまでの甲斐の領民たちの平穏な暮らしぶりや、屋敷内の家臣達の勝頼に対する態度は、単 に上の者に従うだけでなく、彼に対する純粋な尊敬の念が見て取れた。
あの『虎』の後を継ぐにあたり相当な葛藤があっただろうに、この目の前の男からは、それら全てを 乗り越えた故の余裕すら窺える。

「…OK。その話、乗ったぜ。今のアンタは、充分信頼に足りる男だ。こっちからも、選りすぐりのヤツ を寄越させて貰うとするか」
「本当ですか!良かった。内心、断るどころか斬り付けられるのではないかと、ヒヤヒヤしておりました」
「……俺は今、段平持ってねぇじゃねぇかよ」
大きく息を吐き出した勝頼に、政宗は笑いながら相槌を打った。
ふたりの周囲の空気が和らいだ所で、笑いを治めた勝頼が、再び話題を切り出してくる。
「実は、本日はその家臣を待たせているのですよ。伊達殿の返答次第で、すぐにでも奥州 へ向かえるように」
「お、おい。何もそんな焦んなくてもいいぜ?色々準備や心構えとかもあんだろう?」
「いいえ、その者は既にすべての用意を済ませているのですよ。よろしいですか?」
「まあ、構わねぇが…」
困惑しながら返事をする政宗を見止めた勝頼は、部屋の戸を僅かに開けると、別室にいると思しき人物に声を掛ける。
「おい、伊達殿のお目どおりが叶ったぞ。こちらへ来てご挨拶を申し上げろ!」
「はっ」
刹那。
政宗の鼓膜と心臓は、例えようのない刺激に震え始めた。
バカな。
ありえない。
どうして、自分の胸はこんなにも高鳴っているのだ。
だけど、違(たが)える筈のないこの声は……
忙しなく周囲に視線を漂わせ始めた政宗の前で、扉が開けられると、中から緋色を基調とした肩 衣と袴に身を包んだひとりの武士が現れる。


「──お懐かしゅうございますな、独眼竜殿。真田源次郎幸村にございまする」


さり気なく左袖を庇いながら膝を折った幸村は、余りの事にその場で釘付けになっている政宗に向かって 座礼をすると、微笑んだ。




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