ふたりの武者から姿を消した青年は、どうにか彼らに気付かれずに村の外まで 出ると、大きく息を吐いた。 まだ落ち着かない呼吸を整えながら、脳裏に渦巻く様々な想いに、息苦しさだけが 原因でない渋面を、その端正な顔に刻む。 (これで良いのだ。今更、顔向けなど出来る筈もなかろう) 心の片隅に未練がましく住み着いている、諦めの悪い自分を叱咤すると、青年は先 程置いてきた愛馬を呼び寄せんと、指笛を口へと運ぶ。 そのまま息を吹き込もうとした瞬間、青年の背後に人影が迫った。 「──意外に早かったな。で、どうだった?」 「壊滅状態だったぜ。……気の毒だけどな」 「あれだけ徹底した襲撃ぶりは、単に金品目的だけではなさそうですね。何か 別の力が働いている、と見た方が賢明でしょう」 「ふーん…ま、もう少しだけ甲斐(こっち)に留まって、武田のジイさんに恩売っとくの も悪かねぇか」 ひと足先に屋敷に戻っていた政宗は、暫し時を置いて襲撃先の村から帰還した成実と小 十郎からの報告を聞くと、小さく頷いた。 戦装束を脱いで、夜着に替えた政宗は、そのままだらしなく畳に寝転がる。 「で?悪いヤツらは、どうしたんだ?」 「目に付いた連中は、俺と小十郎で片付けたぜ。若干逃げちまったのもいたけど」 茶化すような会話をする政宗と成実を見ながら、小十郎は、自分の中に仄かに浮かんだ疑惑を 口にするべきか否か、悩んでいた。 (あの、鮮やかとしか言いようのない槍傷…私の知る限りでは、あそこまで見事に 槍を扱えるのは、ひとりしかいない……) だとしたら、一体何故「彼」が、政宗や自分たちから姿を消しているのか理解出来なかった。 はじめは武田の策略のひとつか、とも考えていたが、あそこまで徹底した失跡ぶりは、 尋常ではない。 ならば、何の為に…… 「…ろう。小十郎!」 僅かに語気の強まった主(あるじ)の呼びかけに、小十郎は思考を中断させる。 「どうしたんだよ?」 「申し訳ありません。少々ボーっとしておりました」 「何だ何だ、トシかぁ?ま、とにかく今日の所は休んで、明日にでも武田に出向いて 事の次第を伝えるとすっか」 「……そうですね。ならば、私はその報告書でも纏めておきましょうか」 「おぅ、頼んだぜ」 年齢を経て、美丈夫となった主の笑顔は、しかしながら何処か幼少の面影を残していた。 もし、自分がここで「彼」の存在を匂わせれば。 おそらく政宗は躍起になって「彼」の消息を掴もうとするだろう。 だが、芥(あくた)の手がかりだけで、大切な主を煩わせて良いものか。 それが自分の思い違いで、その結果、更に失望し、落胆する主の姿を目にする事になったら。 (──私はこれ以上、政宗様の笑顔を失うような事はしたくない) 仮に、自分の予感が当たったとしても、姿を眩ませておきながら、未だ主の心を捕らえて離さない「彼」を、 今更政宗に引き合わせるつもりはなかった。 自分の中に沸き起こった隠し切れぬ醜い想いを抑えながら、小十郎は、努めて「これは政宗様の為なのだ」 と、言い聞かせていた。 「待った!俺だよ、俺!」 人影に対して、背中越しに肘を打ち込もうとした青年は、些か慌てた男の声を耳に、漸く全身の緊張を解いた。 「どうしてここへ?」 「アンタに渡してた鳩が、俺の所へ届いたからさ。そんで、村に行く途中でここら一帯が妙な狼煙に包ま れてるのを見つけて寄ってみたら、屍の前に佇むアンタがいたって訳」 おそらく、自分を心配した村の子供が、一刻も早く男に知らせようと飛ばしたのであろう。 「俺が上げた仕込みの槍、役に立ったみたいだね。…それにしても見事です。かつての腕前、衰えてない みたいじゃないですか」 「……やめてくれ」 おどけた口調で続ける男に、青年は眉間に皺を寄せた。 「もう、私は戦場には立てない。それはお前も知っているだろう」 「──判ってますって。気に障ったのなら謝りますよ」 気まずい雰囲気を払おうと、男は青年に頭を下げる。 「子供たちも心配してるし、取りあえず戻りましょう」 男に促され、青年は今度こそ指笛を鳴らし、愛馬を呼び戻した。 村に戻るまでの道中、落ち着きを取り戻した青年は、男に事の経緯を説明した後で、 懐に忍ばせていた件(くだん)の矢が包まれた手拭いを渡した。 「あの賊たちは、誰かに頼まれてあの村を襲撃していたらしい。おそらく相手は、両国で結ばれた 同盟破棄を狙った者の…」 「……それはまた、物騒な話だね」 受け取った矢を調べながら、男は僅かに神妙な面持ちをする。 「その矢に見覚えは?」 「はじめて目にするものじゃないですが…もうちょっとこっちで調べてみたいと思います」 「そうか。頼んだぞ」 「──旦那。言葉遣い、言葉遣い」 「あ。……お願いします」 「はいはい、任されましたっと」 自分に指摘されて、律儀に言い直した青年を見て、男は面白そうに笑った。 「それじゃ俺は、武田に報告するとしますよ。今は、勝頼様が当主代理やってる けど、あの御仁も昔と違って結構頑張ってるみたいだから、まっ、信用しても大丈夫でしょ」 男の言葉に、青年は訝しげな顔をする。 「勝頼様が…?『あの方』はどうしたのですか?」 「ん?ああ……実は今、大将のヤツ、療養先の温泉に行ってるんだ」 青年のすがるような目つきを見て、男は少々歯切れの悪い調子で答えた。 「療養って…まさか、何処かお体を患っていらっしゃるのですか!?」 「そ、そこまで大袈裟じゃないって!大将、季節の変わり目で風邪引いただけだよ。 『鬼の霍乱』だって、皆笑ってるくらいなんだから」 「そうですか……それなら良いのですが」 心底安堵する青年に気付かれない程度に、男は口元を結んだ。 青年が戦場を去ってからというもの、周囲は様々に変化している。 越後の上杉との間に休戦協定を結んだ武田信玄は、現在では家督は未だ自分が所持しているも のの、権限の殆どを息子の勝頼に譲って、半分隠居生活を決め込んでいる。 「少々歳を取り過ぎた。上杉や伊達の脅威もひとまず去った事だし、後は任せる」と は言うものの、本当の理由は、火を見るよりも明らかだった。 いつも信玄の隣にいた「彼」が、いないからである。 「彼」がいなくなってから、信玄が一気に老け込んだというのが、当人達を除いた関係者なら、 誰もが認める周囲の見解であった。 今の「彼」を守りたいと思う一方で、やはり男は、心の何処かで かつての「彼」を求めてしまう。 果たしてそれが自分のためなのか、信玄の為なのか、あるいは── (「あいつ」は何処に行ったんだ。生きているのか死んでいるのか、頼むから教えてくれ!) 信玄の元を訪れる度に、最早懇願と化した詰問を繰り返す独眼竜の姿を思い出すと、男は何か を拒むように首を振る。 (……誰がアンタの望みなんざ、叶えてやるものか) それは、「彼」の漸く手に入れたささやかな幸せを、壊す事になる。 そして、自分の手の届く所で自分に頼ってくれる今の心地良い「彼」との関係を、男は失いたくなかったのだ。 「どうしたのですか?」 突然、押し黙ってしまった男を気遣うように、青年は視線を寄越してくる。 「…何でもないですよ。さあ、もうすぐ村に着きます。一応皆には『危ない所を、俺に助けて貰った』 って事にしておきましょう」 「……そうですね。苦労をかけます」 「いいって。俺は、アンタを守る為にいるんだから」 心中渦巻く暗い感情をおくびにも出さず、男はにっこりと笑みを浮かべた。 |