「しくじっただと?」

甲斐の国境から数里離れたとある場所。
部下の報告を受けた男は、イラついた声で小さく唸った。
「は。村のひとつを潰した所で思わぬ邪魔が入り、これ以上の滞在 は、こちらの素性がばれる恐れがあると判断し…」
その際、雇った山賊どもをすべて始末し、出来るだけ痕跡を残さぬよう 引き返してきたという。
「何故だ!調べによれば、今信玄は甲斐を離れて いる筈。ヤツの他に我らの行く手を阻む者が、何処にいたというのだ!」
更に声を荒げてきた男に、部下は先程よりも身を竦ませつつ口を開く。
「……ひとりは、村にいた野武士崩れ。それともう一方は…奥州は伊達の 者、と」
「伊達が…!?」
予想外の名前を聞いたその男は、口調はそのままに語尾だけ上げる。
「同盟を結んでいたとはいえ…武田との絆は、こちらが思うほど 浅くはなかった、という訳か……」
男は腕を組み直すと、暫し何かを思案するように黙り込んでいたが、
「伊達はともかく、武田に我らの気配を悟られれば、計画がダメになる。 伊達が甲斐を離れるまで監視を怠るな」
「はっ」
「もう一方は、如何いたしましょうか」
「…捨て置け。たかが村人ひとり、いざとなればどうとでも出来る」
言いたい事だけ捲し立てると、男は、さっさと背を向けて去っていった。
雇い主の後姿を見送りながら、その場に残された部下は「甘いな」と低く呟いた。


「伊達殿直々のご足労、まことに恐縮にございますな」
翌日。
武田の屋敷に赴いた政宗一行は、昨日の一件を説明した。
生憎、当主の信玄は不在で、息子である勝頼が政宗達を 迎えてきた。
「既に草の者から、此度の村落の話は耳にしておりましたが…伊達殿の お陰で、更に詳しく知る事が出来ました。礼を申し上げます」
「何だ、知ってたのか。せいぜい恩着せてやろうと思ってたのによ」
「ここは甲斐。言うなれば我々の『てりとりぃ』というヤツですよ」
「ha、違いねぇ」
勝頼の思わぬ切り返しに、政宗は喉の奥で笑う。
現在、正式には家督を譲っていないものの、半分隠居状態の信玄に代わって、 彼が武田を動かしている。
一時は、何かと当主としての器や優劣を信玄と比較され、ギスギスとしていた事も あったが、この頃は段々とその角も取れて、「甲斐の虎の後継者」に恥じぬ働きぶり を見せていた。

「ジイさんはどうした?」
「信玄は、甲斐から少し離れた武田所有の保養地に滞在しております。療養中 故、出来るだけ手を煩わせるような事はしたくないですが、いざという時には、直ぐに知 らせられるよう、手筈は整えております」
「…何だよ療養って。鬼の霍乱か?」
「ははは。やはり伊達殿も、同じ事を申されましたな」
「季節の変わり目で、少し体調を崩しただけですよ」と愉快そうに笑う勝頼を見て、政宗は 心の片隅で安堵する。
真田幸村がいない今、かつて彼と過ごした時間を共有出来る人物と言えば、信玄と佐助くら いである。
幸村の事を尋ねる度に、煩そうに返されてはいるものの、政宗には、幸村だけでなく彼らまで 自分の前からいなくなってしまう事を、何故だかとても恐れていたのだ。
「……なあ、」
「はい?」
「アンタは…幸村の行方を知らないのか?」
「……信玄が知らぬ事を、私が存じ上げる筈がないではありませんか。…ただ、」
「──『ただ』?」
視線を政宗から外へと移した勝頼は、僅かに表情を硬くさせると言葉を続ける。
「もしも今、ここに彼がいるなら伝えたい事がある。『何があろうと、そなたは 我らにとって、なくてはならぬ者なのだ』と……」
「勝頼…」
伏し目がちに遠くを眺め続ける勝頼を、政宗は不思議な気持ちで見つめていた。


「勝頼のヤツ、以前よりも随分丸くなってたな、梵天」
滞在先の屋敷へ続く農村地帯を、政宗たちは馬でゆっくりと進んでいた。
「流石に信玄殿には及ばないものの、今の彼なら信用しても問題ないでしょう」
「……そうだな」

(伊達殿の事ですから、余計な心配は無用かと存じますが、甲斐を離れるまでは暫し身辺に お気を付け下さい)

必要とあらば、こちらの忍や護衛を使ってくれて構わない、とも言われたが、政宗はそれを 丁重に辞退した。
成実や小十郎の言うとおり、今の勝頼は、立派に甲斐の当主としての役目を果たしていた。
同盟の事もあり、戦場で太刀を交し合った頃とは違い、武田と伊達の関係は別の意味で綿密な ものへと変わりつつある。
将来の上洛の為には悪くない手段ではあるし、敵に回せば厄介な彼らが味方につけば、こちら としても心強い。
だが。
(ここには…アイツがいない……)
川中島での対決を最後に、突如槍を捨てて戦場を下りてしまったあの男。
あれだけ忠義に厚い男が、自分との約束どころか、敬愛する主(あるじ)まで置いて去っていった のは、一体どうしてなのか。
(お前は今、何処にいるんだ?幸村……)
馬に揺られる政宗の胸を、「彼」に対する様々な想いが去来する。
その時、

「あ、やっぱりそうだ。昨日の偉そうなお侍さん」

聞き覚えのある声に、政宗は顔を上げると馬を止め、周囲を見渡した。
すると道端でわらの束を抱えた子供が、自分を見上げていた。
「『偉そうな』は余計だぞ、ガキ」
「ガキじゃないやい。…でも、お礼だけは言っとくよ。あれからお兄ちゃん、村に 戻って来たんだ」
子供の話によると、馬で助けを呼びに行こうとした『お兄ちゃん』は、途中で山賊に襲わ れかけたが、寸での所でどうにか逃げ切り、知り合いの男に連れられて帰って来たのだという。
「そっか。良かったな。これに懲りたらもう無茶すんなって、お兄ちゃんにも 言っとけよ」
「お兄ちゃんは、忙しいんだ。今日も、遠くの町へ荷物を運びに朝から 出掛けてるんだから」
「お兄ちゃんは、運び屋をしてんのか」
「そうだよ。『大変だけど、戦の後で物が必要な人たちにとって、とても大切な仕事なんだ』って、お兄 ちゃんは言ってた。俺も大きくなったら、お兄ちゃんの手伝いをして、立派な運び屋になるんだ」
「……Right。いい心がけだな。お兄ちゃん、喜ぶぞ」
「うん!」
元気に駆けていく子供の姿を、政宗は眩しそうに見送った。


「我らの邪魔をした者は、この村に住んでいるのか」
「しかし、山賊を退けたとはいえ、所詮片腕の野武士崩れに何が出来ようか」

政宗が子供と別れ、空に夕闇が訪れ始めた頃。
村外れにある大木の上から、村の様子を窺っている、尋常ならざる複数の気配があった。
武田の草の者がいれば、彼らの正体を即座に察したかも知れない。
「我らの計画を妨げる障害は、排除するのが努めだ。片輪だろうと例外ではない」
やがて、道の向こうから馬を駆るひとりの青年が通り過ぎていった。
左腕がない事をまるで感じさせない手綱さばきと、ちらりと掠めた青年の横顔に、大木に身を潜め ていた者の表情が僅かに変わった。
(あの者の顔…何処かで見た事があるような……?)
眉を顰めた者の視線の先では、村人とその子供に迎えられ、微笑んでいる青年の姿があった。
嬉しそうに青年の身体に抱きつく子供の頭を、右手で優しく撫でている様子を見て、彼の顔つきは元の 平静さを取り戻す。

「もう一度言う。障害の排除の為には、手段を選ばぬ。──それが何であってもだ」

青年と子供の笑顔とはまるで対照的な歪んだ笑みを、彼は己の顔に貼り付かせていた。




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