それは、ふたりの少年にとって、運命の分岐点でもあった。

ひとりの少年は、今まで望んでも得られなかった人としての「自由」を 得る為に。
そして、もうひとりの少年は、普通の学生から人類を脅かす敵と戦う 軍人となる為に。
そんな彼らが出会ったのは、天から与えられた好機か、 あるいは見えない世界から手を引くものたちの戯れか。

「今日から、僕が……だよ」

人類の敵と戦う前に、何者かに生命の糸を断ち切られた少年は、自分を 見下ろす者の姿を、意識が途切れるまで両の眼(まなこ)に焼き付けていた。


「お願い…舞にその事だけは言わないで……!」
力なき声で、速水は笑いを噛み殺している男に懇願する。
「何を今更、恐れる必要がある?そいつの前にも、何人もの人間をその 手にかけてきたのだろう?」
速水の言葉を軽くいなすと、男は新たな酒瓶を手に、舞を見た。
「こいつが、『速水 厚志』の筈がないんだよ」
「……何だと?」
「お前の相棒となるべきだった、『速水 厚志』など、既に この世にはおらぬのだよ」
嘲るように続けられた男の言葉に、舞は虚を突かれた表情を、そして速 水は、絶望と恐怖にその美貌を歪めた。
「お前が相棒だと思っているこいつは、『速水 厚志』などではない。 こいつは、我々の研究所から逃げ出した実験体だ。そして……」
「──やめて!お願い!」
男を止めようと、速水は飛び出したが、長い間ろくな睡眠・食事も取 らずに拘束されていた身体は、思うようには動いてくれなかった。
覚束ない足取りで男に詰め寄ったものの、逆に男によって腕を捻り上げ られると、何の遠慮もなく床に身体を叩き付けられた。
「坊や!」
「無力のものをいたぶるのはやめろ、この下衆が!」
「下衆…だと?じゃあ、こいつは俺以上に劣る下衆の塊だなあ。ええ?」
「……!」
床に倒れた速水の髪を掴みながら、男は口元から肉食獣のような歯を見せて 笑った。
「本来、お前の相棒となる筈だった『速水厚志』は、とっくに死んでる んだよ。……こいつの手によってな!」


男の言葉が、決して広くはない室内に、奇妙な反響を轟かせていた。
それを聞いた速水は、極刑を言い渡された囚人のように崩れ落ち、 舞や瀬戸口たちも、あまりの事実に何も反応を返せないでいた。
そして。
来須は、自分の背後でひと粒の光と化した少年の思念が、揺 らめいているのを感じ取っていた。
「くっくっく…ハハハハ!とんだお笑い種だぜ!今まで相棒だと思っ ていたヤツが、相棒の名を騙っていた、ただの殺人鬼だったんだからなぁ!」
男は、これ以上ないというほどの笑い声を上げると、速水の頭を乱暴に振り払う。
最早抵抗する気力も無くなっていた速水は、男の暴挙にその身を任せ、冷たい床 の上に横倒しになった。
「そう…だったのか……」
張り詰めた空気の中で、舞は僅かに強張った口を開くと、短く言葉を呟いた。
傍目にはいつもと変わらぬように見えたが、彼女を良く知る者であれば、力強き ヘイゼルの瞳が、言い知れぬ感情に揺さぶられているのに気付いたであろう。
そして、その事は、彼女の幾重にも感情の織り交ぜられた視線を浴びている、速水自身が 何よりも痛感していた。
「芝村…」
「……」
ただならぬ舞の様子に、瀬戸口は何かを告げようとしたが、かけるべき言葉が 見つからない。
来須もまた、自分の背後で漂う少年と打ちひしがれた速水の様子を、傍観する だけだった。
「──ハッ!これで判っただろう!こいつは、わざわざお前たち青臭いガキ が手を差し伸べる価値もない、クズなんだよ!」
床に倒れた速水の背を踏みつけながら、男は勝ち誇ったように言い放った。


「なるほど。それが貴様の言い分か」
不意に、凛とした少女の声が、周囲の動きを止めた。
それまで俯き加減の姿勢を取っていた舞は、顔を上げると真っ直ぐに男を見据えた。
14の少女にしては、あまりにも強い光を放つ瞳に、男は不快気に眉を顰めた。
「確かに、そなたの言う事にも一理ある。もし、私がそなたの言う『本当の速水 厚志』 とやらの事を知っていれば、同じように速水に断罪を下したであろう」
抑揚のない少女の科白に、速水は無意識に自分の身体を抱きしめた。
「だが…私はその『本当の速水』の事を、そなたに聞かされるまで知らなかった。私にと っての『速水 厚志』は、そこにいる彼の事なのだ」
「何ィ…?」
「誰が本者か偽者かなど、どうでも良い。私にとって最良の相棒である速水厚志 は……紛れもないそなただけだ」
「舞…」
呼びかけられた舞の声は、いつもと寸分違わぬ穏やかなものだった。
優しく細められたヘイゼルの瞳を、速水は次第に涙でぼやけていく視界いっ ぱいにおさめていく。
「黙れ…黙れ黙れ黙れ!そんなお為ごかしで、この咎人を許すつもりか!」
口から泡を飛ばしながら、再び感情を昂ぶらせた男が速水の脇腹を蹴りつけた。
男のエナメルの靴先が、無防備な箇所にめり込み、速水は短く悲鳴を上げた。
「俺たちの…俺の受けた仕打ちはどうなる!こいつの手によって存在を消された『速水 厚志』の事も水に流すつもりじゃないだろうな!?」
「──無論だ。確かに、それについての落とし前は、つけなくてはならぬ」
「ほぉ?どうするつもりだ?」
男の挑発に、舞は腰から小太刀を抜くと、従者である来須に手渡した。
武器を預け、丸腰になった舞は、そのまま男のもとへと歩いていく。
「な…何のつもりだ、貴様……」
無言でこちらに向かってくる舞に、男は僅かに身構えたが、次いで目の前で起こった 光景に、目を奪われた。


舞は、男の前で足を止めると、膝と両手を着き、ゆっくりと頭(こうべ) を前に垂れた。
「生まれて初めてこの頭を下げよう……この通りだ。無論、これでそなた の溜飲が下がるとは思っておらぬ。だが…そこにいる速水は、私にとってかけが えのない、大切な相棒なのだ」
「ま…」
「……!」
土下座をする舞に、速水や来須たちもその場に凍りついた。
男は、暫し呆然と舞の姿を見下ろしていたが、
「は…はははは…ハーッハッハッハッ!大した役者だな、貴様も!天下の芝村のお姫 様ともあろうお方が、俺のような男を前に土下座かぁ!?」
高らかに笑いながら、男は手に携えていた酒瓶を傾けると、舞の上にぶちまける。
「お前も、バカなヤツだなぁ?そこまでして、こんなクズが必要なのか?」
「舞、やめて!僕は、君にそんな事をして貰う資格なんてないんだ!」
安物の酒を頭からかけられた舞は、それでも凛とした態度を崩さなかった。
そんな誇り高き彼女が、自分の為に屈辱を受けている様に、速水は 叫び声を上げる。
「お願いだから、顔を上げて。…もう、いいよ。こいつの言う通りなんだ。 僕は…僕は……」
「何を言っている」
涙混じりの哀願に、舞は小さく首を振る。
「相棒の不始末は、私の不始末。私はただ、それに対するけじめをつけているだけだ」
「…バカだよ、君は。僕の為に…僕なんかの為に……」
「そなたは、私がただの酔狂で、このような真似をしているとでも思っているのか」
「え…?」
頭を上げた舞は、顔や髪が濡れているのも構わず、真っ直ぐに速水を見る。
「そなたは、私の相棒だ。私は、そなたから袂を分かつ、と言われぬ限り、首に縄をつけ てでも連れて帰るつもりだ」
「舞…」
小さく笑う舞に、速水は近づこうとしたが、男の体重がその背にかかり、呻き声を上げた。


「三文芝居は、そこまでにして貰おうか…」
速水の動きを封じながら、男は不気味な笑みを張り付かせると、何も持っていない方の手を ゆっくりと頭上にかざした。
「な…あれは!?」
次いで現れた物の怪たちに、瀬戸口たちは息を呑んだ。
先程倒した筈だった異形のモノたちが、部屋全体を支配するように舞たちを取り囲む。
「うわああああっ!」
速水の背にあった男の足が、明らかに人間ではない物体に姿を変えていた。
まるで触手のようなそれは、速水の身体に巻きつき、徐々に締め上げていく。
『僕は…このまま死ぬの……?』
呼吸が困難になってきた速水は、朦朧となった頭で、そんな事を考えていた。
『でも、この辺が潮時かな……そうだよね。すべてがばれてしまった今、僕が生き ていく資格なんか…』
薄れゆく意識の中、速水の脳裏に様々な映像が浮かび上がっていく。
殆ど記憶にない両親の姿、研究所の人間。そして、自分が存在を成り代わった少年の姿。
だが、

『速水』

心地よく耳に届く少女の呼びかけに、速水は目を見開いた。
学校で、戦場で、何処でも自分を大切な『相棒』として接してくれる強く優しい少女。
世界を牛耳る一族にいながら、その一族からも脅威の対象とされている孤高の騎士。
彼女の傍にいたい。そして、彼女やみんなのいる、あのプレハブに戻りたい。
『いやだ…やっぱり、いやだ……僕は、まだ死にたくない!』

「たすけ…て……ま…い……」
振り絞るような声が、速水の口から発せられた瞬間。
「キシェエエエッッ!」
速水を捻り潰そうとした触手が、白銀に輝いた刃によって切断された。
来須から受け取った小太刀で異形を斬った舞は、地を蹴ると、落下してきた速水の 身体を、優しく受け止める。

「『運命』という名の迷宮に捕らわれしアリスよ。私は、そなたを護る騎士となろう」


片手で速水を抱えながら、舞は憎悪に満ちた男の視線を、不敵な笑顔で受け止めた。



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