寸での所で元子を連れ出した毛利は、騒然となり始めた店にも構わず、夜の街を歩き続ける。 その内に、掴んでいた元子の腕が段々と重くなるのを感じ、やがて動かなくなった。 振り返ると、元子が歩道に坐り込んだまま、泣いていたのだ。 「立て。こんな往来の真ん中で、通行人にも迷惑だ」 「…っ」 こんな言葉しかかけられない自分をもどかしく思いながら、毛利は元子を立ち上がらせる。 すると、今度は立ち上がったは良いがその場から動かず、嗚咽を繰り返す元子に、毛利は 深々と息を吐くと、偶然目の前にあったタクシー乗り場から、運良くやって来た車に乗り込んだ。 自分達の様子を、サイドミラー越しから胡散臭そうに盗み見ている運転手に行き先を告げると、 元子にハンカチを手渡す。 「着くまでの間、それで隠していろ」 「何処へ…?」 「私のマンションだ。洗面所を貸すから、その顔を何とかしたまえ」 元子から視線を反らすように、毛利は窓の外を見続ける。 同情の欠片もない言葉だが、そうした毛利の行動が、今の自分の化粧の落ちたみっともない顔を見 られなくて済む事に、心の何処かで安堵していた。 毛利のマンションに案内された元子は、 履いていたヒールを脱いで素足になった途端、全身の緊張が解けていくのを感じた。 そのまま洗面所に移動した後で、鏡に映った見るも無残な顔を確認すると、情けなくなってきた。 バッグから携帯のクレンジングを取り出すと、化粧だけでなく、今夜の自分の全てを落とすような 勢いで顔を洗い始める。 暫くすると、元子が洗い終えるのを見計らったように、毛利からタオルを渡された後、リビングへ通 された。 ソファに腰掛けた元子の前に、ミルクの入ったカップが出される。 「飲むといい。温まる」 「すみません」 「謝罪は必要ない。こういう時は、素直に礼を言うものだ」 「……有難うございます」 ミルクに混じって、ほんのり含まれた蜂蜜の甘さが、何とも言えず心地良い。 すると、先程まで引っ込んでいた筈の涙が、再び元子の頬を伝っていった。 「どうした?何処か痛むのか?」 「違うんです。ただ…自分が情けなくて……」 ──所詮、自分には、未だ都会の空気は相応しくなかったのだ。 背伸びをして大人の世界に憧れただけならまだしも、後先を考えずに安易についていった自分は、 何て愚かだったのだろう。 「私…あの人の事、好きになってたんです。私、女にしては背が高すぎるし、田舎じゃいっつ も『デカ女』ってからかわれてたから…だから『可愛い』って言われた時、本当に嬉しかった んです……」 「……」 「バカですよね。それが、あの人たちの常套手段なんて事も気付かずに。ちょっと甘い言葉かけら れただけで、調子に乗って……」 毛利が助けてくれなかったら、今頃自分は、女性なら死にも匹敵する仕打ちを、彼らから受けてい たのだと思うと、全身に震えが走る。 「…そうだな。君の行動は、褒められたものではない」 コーヒーの入ったカップを、テーブルに置くと、毛利は元子から身体ひとつ分離れた場所に腰を 下ろす。 「だが、その失敗を次に生かせば良い。学業も部活も。…そして恋も」 自分には縁のない単語を口にしながら、毛利はらしくない己に、内心で渋面を作っていた。 「フフ。先輩は、優しいですね」 涙を拭いながら、元子は小さく微笑む。 「でも…もう恋はいいです。故郷の両親に心配かけたくないし、当分は勉強と部活に打ち込みます。 いつか、こんな私でもいいっていう物好きな人が、現れるかもしれないし。……なんて」 自嘲気味に続ける元子の横顔に、気が付くと毛利は手を伸ばしていた。 「…先輩?」 先程より距離を詰めてきた毛利の様子を見て、元子は小首を傾げる。 「……『物好き』は、ちゃんとお前の傍にいる」 「え?…む、ぅんっ!」 毛利の言葉の意図が判らず、問い返そうとした元子だったが、それは毛利に唇を塞がれる事によって、 叶わなかった。 振り解こうにも、薬の抜け切ってない身体では、ろくな抵抗も出来ない。 「せ…先輩!や、やめ…待っ…!」 抗議しようとする度に、毛利の薄く形の良い唇が、元子の口を封じてしまう。 息苦しさと、よく判らない感覚に元子が翻弄されている隙をついて、毛利は彼女の身体をソファに 押し倒した。 「ぃ…やだっ!先輩、やめて下さい!」 クラブでの出来事が脳裏をよぎり、元子は悲鳴を上げる。 だが、カットソーをたくし上げた毛利の手が元子の胸に触れた瞬間、まるで電流が走るような 刺激を覚えた。 あっ、と漏れ出てしまった声に、元子は赤面する。 そんな間にも、毛利の手は巧みに元子の身体を這い回り、いつしか彼の愛撫は肌蹴られた胸から スカートの中へと移っていた。 「やめて、お願い!私…私、誰ともした事ないの!」 最早半泣きの状態で、元子は毛利に懇願する。 そんな元子の涙声に、毛利は手を止めると彼女を見下ろした。 「…で?」 「あの…だ、だから私、初めてで……」 「安心しろ。私もだ」 「…へ?」 自分の返した言葉に、間抜けな相槌を打つ表情があまりにあどけなくて、毛利はクスリと笑うと、 元子の耳元で優しく囁いた。 ──「心から、『欲しい』と思った女を抱くのはな」と。 「信じられない…失恋して、危ない目に遭って、助けて貰ったと思ったら…こ、こんなのって……!」 「悪くはなかったろう。はじめこそ抵抗していたが、途中からお前も私に腰を寄せて来て……」 「わああああっっ!もう、最低ーっ!」 差し出された手を、元子は反射的にひっぱたく。 シーツに包まりながらこちらを睨み据えている元子を、毛利は面白そうに眺めていた。 「わ、私を助けたのも、下心があったからですか!?幾らこっちが弱ってたからって、当たり前のように 『据え膳を食う』なんて……!」 「それは違う。これまでお前と接してきて、自分の想いに気付いたのが、たまたま今夜だっただけだ」 「そんなお為ごかしで、納得するとでも思ってるんですか!?この強姦魔!」 「多少強引に迫った事は否定しないが、最後には自分から積極的に私に縋り付いてきたのは誰だ?あれは 合意の上だろう」 「……めっそな事ばっか、言いなや!」 思わず標準語を忘れるほどの勢いで、元子は憎らしいほど平静な毛利に向かって、半ば八つ当たりのように 喚き散らした。 ともすれば、毛利の言葉を否定出来ない自分を、自覚せずにはいられなくなってしまう。 「喉元過ぎれば」ではないが、あんな目に遭ってから間もないというのに、自分はここまで軽薄な女だったのだろうか。 悶々とベッドの隅っこで、自問自答を繰り返している元子の傍に歩み寄ると、毛利は有無を言わさず彼女 の身体を引き寄せた。 「私を好きになれ、元子」 「…はぁ!?」 「悪いようにはしない。私なら、お前の望むものや望む事を、かなえてやれる自信がある」 一体、この満ち溢れた自信の根拠は、何処から来るのだろうか。 あまりの事に、元子は暫くの間怒りも忘れて毛利を見つめていたが、やがて小さく息を吹き出すと、 出来るだけふてぶてしい笑顔を彼に向けて見せた。 「……いいわよ。そこまで言うなら付き合ってあげる。だけど、貴方なんか所詮、ただの『繋ぎ』なんだか らね!貴方よりも素敵な人が現れ次第、即刻切り捨ててやるんだから!」 「構わん。だが、私がお前といる限り、そんな男は永久に現れそうにないがな」 さも愉快そうに笑いながら、毛利は腕の中の元子と深く口付けを交わした。 奇妙な経緯で付き合い始めたふたりだが、本人達が思っているよりも、互いの相性は悪くなかったらしい。 程なくして、元子の週末は、毛利のマンションで過ごすのが習慣となっていった。(元子のアパートは女子 学生専用なので、男の毛利は立ち入れないのである) ある週末の昼下がり。 いつものように毛利の所へやって来た元子は、何やら沢山の包みを抱えていた。 「どうしたんだ?それは」 「私、今日誕生日だったの。だから、友達や部活の先輩からプレゼント貰っちゃった」 友人からのバースデイカードを、嬉しそうに眺めている元子とは対照的に、毛利は渋面を作ると眉根を寄せる。 「すまん。知っていれば、贈り物を用意したものを」 「いいわよ。だって、教えてなかったし」 「…今からでもいいなら、何か欲しいものはないか?」 「そうだな…じゃあ、駅前に美味しいケーキ屋があるから、そこでバースデイケーキを買って くれる?」 「いいだろう」 マンションを出たふたりは、数分歩いた所で目的のケーキ屋に到着する。 目を輝かせてショーケースの中のケーキを見つめる元子の横顔が、とても可愛いと毛利は思った。 「これがいいな」 やがて、目当てのものを決めた元子に頷くと、毛利は店員に声を掛けた。 「プレートのお名前は、こちらでよろしいですか?」 「はい」 「それではお会計をさせていただきます。ロウソクは何本ご利用でしょうか?」 「大きいの1本に、小さいのを8本付けて下さい」 元子の言葉に、毛利は訝しげな表情をする。 「有難うございました」と、店員に見送られながら店を出た後、毛利は、ウキウキとケーキの包 みを持つ元子を呼び止めた。 「ケーキに立てるロウソクだが…1本足りなくはないか?」 「ううん。これで合ってるわよ」 「しかし、お前は大学1年生なのだから、小さいロウソクは9本必要だろう?」 「…え?あ、ああ。そっか」 毛利の顔を、不思議そうに見つめていた元子だったが、やがて何かに思い当たったような表情をす ると、ニッコリと笑った。 「私、1年スキップしてるから、ロウソクは18本分でいいのよ」 「…何だと?」 「私の通ってた高校は単位制の所で、私のいた時に、飛び級制度を試験的に行ってたの」 地元の高校で、それなりに成績優秀だった元子は、担任の薦めで飛び級試験に挑戦し、見事2年生 の時点で卒業単位を取得し終えていた。 そして、飛び級を受け入れている大学の中に、戦国大学が入っている事を知った元子は、東京の大 学に行きたいという長年の想いを叶えたのだという。 「……ちょっと待ってくれ」 そこまで話した所で、滅多に表情の変わらない恋人の顔色を失った姿を見た元子は、何事かと 目を見張った。 「元子…お前は、ウチに飛び級で入学したという事だな?」 「ええ、そうだけど…」 「それでは、お前は今日19歳ではなくて、18歳の誕生日を迎えた事になるのか?」 「う、うん…さっきから一体何なの?」 「つまり…お前は昨日まで17歳だったんだな?」 「当たり前じゃないの…って、就明さん?どうしたの?就明さん!?」 「……計算してないぞ……」 心配する恋人も目に入らないのか、毛利は地を這うような低い声で、己の正直な心情を吐露 していた。 「あ〜、そりゃまずいねぇ。幾ら合意とはいえ、18歳未満じゃねぇ…」 「お陰で、その年の冬休みにいきなりウチの実家に挨拶に来たんですよぉ。『元子さんと お付き合いさせて頂いております』って。あまりの畏まりさに、逆にウチの両親 ビビってたくらいなんですから」 「…破廉恥っスよ、先輩……」 「さり気なくのろけてんじゃないわよ。顔がニヤついてるわよ」 佐助とたちの揶揄に、元子はそれでも満更ではなさそうな表情をしていた。 毛利が大学を卒業して、元子が2年に進級した時点で、ふたりは同棲生活を始めている。 (というより、毛利が元子を半ば強引に呼び寄せた) 学内では講師と学生という関係を保っているが、この頃ではふたりきりになった時、たまに 毛利が元子に甘えてくる事が増えてきた。 付き合い始めた時は、もっぱら元子が毛利に甘えてばかりいたのだが、今ではこの関係を とても心地良く思っている。 「あ」 バッグの中の携帯が振動したのを見つけた元子は、画面を確認すると、帰り支度を始めた。 「ごめん。私、そろそろ帰るわ。優子、そのパンフは持ってていいから、行く気になったら 明後日までに連絡頂戴」 「判ったわ」 優子の返事を背に、元子はパタパタと足音を立てながら、研究室を後にする。 「元子先輩、随分急いでましたね」 「いや〜、理由は簡単でしょ?ホラ」 佐助が指した研究室の窓に移動した幸太郎は、自分が敬愛する武田とは違う意味で厳しい 講師の姿を見つける。 やがて、彼に向かって駆け寄って来たひとりの女性と、大学の裏門を出た瞬間、どちらからとも なく手を握り合う様子を、幸太郎たちは温かく見守っていた。 |