「いけない、寝過ごした!」 携帯電話の表示で時刻を確認した優子は、短く叫ぶとベッドから飛び起きた。 「よりによって今日の1限は、オッサンの授業じゃないの!遅刻したら何言われるか 判ったモンじゃないわ!」 慌しく寝巻きを脱ぎ捨てながら、ラックにかかったワンピースを取る。 メイクをする暇もないので、手っ取り早くドレッサーに鎮座した化粧水と日焼け 止めだけ塗ると、優子は廊下から隣の部屋のドアを開けた。 「──幸太郎、起きてる?学校行くわよ!ちょっと、聞いてるの幸太郎!?」 瞬間。眼前に広がった空間に、優子は我に返る。 「…そうだった。幸太郎、先週出てったんだっけ……」 (優子先輩、本当にお世話になりました) 奇妙なきっかけで始まった同居生活だったが、漸く新しい住居を確保した幸 太郎は、何度も礼を言いながら優子のアパートを去っていった。 元々、期限付きで間借りさせていたので当然と言えば当然なのだが、こうしてひとり に戻ってみると、見慣れた筈の部屋が、妙に寒々しく感じられる。 学校に行けば毎日顔を合わせるのだし、通学の便宜上、幸太郎の引越し先 は、優子のアパートからそれほど離れていない。 なのにどうしてこんなにも、心の中にぽっかりと穴が開いたような気持ちになるのか。 「どうしたのよ優子…ひとりは慣れている筈でしょう……」 だが、掠れた呟きは、誤魔化し切れない優子の心の内を、如実に表していた。 「幸太郎。今度の週末だが、空いておるか?」 授業を終えた後、研究室で与えられた課題をこなしている幸太郎に、武田が呼びかけ てきた。 「んー…今の所、特に予定はないですけど」 「ワシが顧問を務めておる剣道部の試合があるのだが、おぬしに助っ人として出て貰いたいのだ」 「──俺がですかぁ?」 さも意外そうに言葉を返す幸太郎を見て、武田は僅かに片眉を寄せる。 「何じゃ、その反応は」 「え…だって俺、ココの剣道部には入ってないし、それどころか今じゃ、まともに竹刀も握 ってないから……」 「一週間あれば、若いおぬしなら充分取り戻せる。明日から扱いてやるから道場に来い」 「ええー!嫌ですよぉ!おじ様の扱きは、剣道通り越えてバリトゥードなだけじゃないですかぁ!」 「学内では『教授』だといつも言っておるだろうが、このバカモンがぁーっ!」 「ぶぅっはぁーっ!」 もはや『武田ゼミ』の名物ともなってしまったふたりのど付き合いに、周囲は何事もないかのよ うに、各々の作業を続けている。 だが、何となくふたりの会話を聞いていた優子は、武田に吹っ飛ばされたにも拘らず、無傷で机に 戻ってきた幸太郎に問い掛けた。 「幸太郎。貴方、剣道やってたの?」 「ええ、一応。実家の親父が、礼儀や作法にうるさくて。『日の本一の兵』の子孫たる もの、常に己の腕を磨いておけだなんて…ホントにいつの時代の話だってカンジですよね」 それでも父親の言いつけを守り、高校までは真面目に道場に通い続けた幸太郎だったが、二段を取 った時点で、剣道に対する興味は失せてしまっていた。 代わりに幸太郎を新たに魅了したのが、文学や言語の世界である。 幼い頃から真田家と交流のあった武田に、半分英才教育のように話を聞かされ続けていたのも あって、学校の交換留学制度を利用してイギリスに渡ったのは、16歳の時であった。 「そもそも、ちゃんと剣道部の部員がいるじゃないですか。部外者の俺が参加 しなくちゃなんない理由なんて、何処にあるんですか?」 「うむ、実は今度の試合の相手が、神奈川の北条大学なのだ」 「北条大学というと…神奈川の古豪ですね。弓道部も、何度かあそこには苦杯を舐めさせられた 事がありますので」 学生時代弓道部だった毛利の言葉を聞いて、武田はうむ、と頷く。 「これまでの対戦成績が、互いに7勝7敗。次の試合でどちらかの勝ち越しが決まるので、どうし ても落とせないのだ。お互い戦力を知り尽くしている故、ノーマークのお主なら相手も油断す るかも知れぬ」 「何なのよ、その角番の千秋楽みたいな展開は」 「そんな!自分の都合だけで、可愛い教え子に面倒押し付ける気ですか!」 武田の返答を聞いた優子と幸太郎は、脱力しながら渋面を作る。 「無論、タダとは言わん。対戦相手から一本勝ちする毎に、ワシのポケットマネーから、幾らか 渡そう」 「…え?」 「武田教授。そのような事を堂々と…」 「それだけではない。たとえ負けても、おぬしが行きたがっていた銀座某所の寿司屋で、好きなだけ 食わせてやる。…どうじゃ?」 「──やります」 「幸太郎!?」 あっけなく懐柔されてしまった幸太郎を見て、優子は武田に向き直った。 「ちょっとオッサン!ワガママも大概にしときなさいよ!」 「おお、何なら優子。おぬしも出るか?」 「へ?」 「おぬしも故郷では、そこそこ有名だったクチじゃろう。『仙台の独眼姫』の噂は、ワシも 聞いた事があるぞ」 思わぬ矛先を向けられて、今度は優子が狼狽した。 「優子先輩も、剣道やってたんですか!?」 「む…昔の話よ、昔の話!やらされてた理由も幸太郎と変わんないから、イヤになって やめちゃったし」 目を輝かせて尋ねてくる後輩に、優子はうんざりと返す。 「はあ…きっと綺麗だろうなあ、優子先輩の道着姿。先輩も出るなら、俺張り切っちゃいますよ!」 「出ないわよ!オッサンも、これ以上無責任な発言はよして頂戴!第一、北条の剣道部は女人禁制でしょ!?」 「…鷲塚さん。こんな状況の中、貴方は一体また何処を放浪してるんですか……」 武田のフォロー役にして、ゼミの防波堤たる佐助の不在に、毛利は逃避気味に窓の外を眺めていた。 |