数日後。
久々の「梅雨の晴れ間」に、優子はクローゼットから、おろしたての白いスカートを 取り出した。
元子と買い物に出掛けた時に購入したもので、細かい刺繍とギャザーがとても気に入って いるのだ。
「でも、白だからなぁ…一応、下着に気をつけた方がいいかしら」
そう独り愚痴ると、優子は、抽斗(ひきだし)からいつもと違う下着を取り出した。
鏡の前でよからぬラインがうつっていないか確認してから、バッグを手に部屋を出る。
学校への道を歩いていると、背後から聞き覚えのある男の声がかかった。
「よっ、おはよう優子ちゃん。久しぶり」
「鷲塚。貴方がいない間に、オッサンまた暴走始めたわよ。しかも今度は、幸太郎を巻き込んで」
「えぇ?それって俺のせい?」
半分は言いがかりだが、放浪癖のある佐助の不在中に、彼というリミッターの外れた武田が 周囲を混乱させる言動をするのは、ゼミ内でも既知の事実である。
「まあまあ、過ぎた事は仕方ないとして…はい、これお土産。伊○湖岬のファームで取った メロン。後で皆で食べようよ」
「…柳○国男でも気取ってきたの?椰子のかわりに流されて来れば良かったのに」
そんな冗談を交わしながら、やがてふたりは学校へ到着する。
「幸太郎のヤツ、センセの言いつけで剣道一時再開したんだってな。これからちょっと見に行 ってみない?」
「え?」
「あいつ、普段はチャランポランだけど、剣道やってる時はそれなりに男前なんだぜ?」
「べ、別に私は興味ないから…」
彼女と幸太郎の関係が少しだけ気になる佐助は、優子に水を向けてみた。
「そう?いつだったかセンセも言ってたけど、優子ちゃんも地元じゃ、かなりの剣豪で知られ てたそうじゃない。あんなに強かったのに、どうしてやめちゃったの?」
「……」

武田と佐助の言うとおり、優子はかつて、地元では負け知らずの剣の達人であった。
視力だけに頼らず、五感を研ぎ澄ませて相手と勝負の駆け引きをする事の緊張や快感と相性 が良かったらしく、幼年期から高校まで道場に通い詰めていた。
だが、高校2年の時。インターハイへの予選にあたる県大会を前に、優子は突如剣道をやめた。
彼女ほどの実力なら、県大会どころかインターハイでも充分戦える筈なのに、優子は文字 通り剣を捨てたのである。
小さい頃から貰い続けた賞状や記念品も、その時にすべて廃棄した。
そんな彼女の姿を、周囲は困惑気味に見守っていたが、優子はそれらに一切無視を決め込んでいた。

──何故なら、そこには自分の最も望む人の視線はなかったからである。


「あの日以来、何をしてもあの人は、私を認める事なんか……」
「──どうしたの?」
佐助の呼びかけに、優子は我に返る。
「な、何でもないわ」
「あ、ほら。道場に着いたよ。俺、幸太郎に渡すものあるし、優子ちゃんも一緒に行こうよ」
無意識に佐助の後をついて行く内に、道場に辿り着いてしまった優子は、仕方ないので彼に そのまま同行する事にした。
引き戸を開けて足を踏み入れると、懐かしい木の匂いと引き締まった声が聴こえて来る。
「…!」
そこでは、道着姿の幸太郎が素振りの稽古をしていた。
精神を統一し、見えぬ敵に向かって竹刀を繰り出す動きに無駄はなく、思わず優子は自分の背筋が ゾクリと震えるのを覚えた。
「おーい、幸太郎」
頃合を見計らった後で、竹刀を下ろした幸太郎に佐助は声を掛けた。
「あ、佐助。お帰りなさい…って、ゆ、優子先輩!?」
こちらに気付いた幸太郎は、それまでの表情はどこへやら、赤面しながらふたりの 傍へと駆けて来る。
そんなはにかんだ彼の笑顔は、優子の胸を微かに揺らめかせた。
「おはよう、幸太郎。中々様になってるじゃない」
「いやー、でも本当に久しぶりなんで、最初の何日かは筋肉痛になりましたよ」
「センセの扱きが、ハンパないからだろ」
「あ、それもある」
茶化す佐助に、幸太郎は愉快そうに相槌を打つ。
暫し、他愛のない会話が3人の間で繰り返されていたが、不意に話題が優子の剣の 腕前になった所で、奇妙な空気が取り巻き始めた。

「しつこいわね。だから、私はとっくに剣道はやめたって言ってるでしょ」
「まーまー。何も別に、幸太郎と手合わせしろって言ってるんじゃないんだって。『仙台 の独眼姫』の腕前を、ちょーっとだけ披露してやってくんない?」
「さ、佐助。優子先輩嫌がってるじゃないか。それに…仮に手合 わせしても、俺、先輩の相手は出来ないよ」
「──それ、どういう意味?」
佐助を諫めるつもりで言った幸太郎の科白は、優子に思わぬ波紋を投げ掛けた。
「いくら女だからって、私の事バカにするつもり?」
「ち、違いますよ。とにかく俺は、優子先輩と手合わせなんて出来ません。 万が一、先輩に怪我させちゃったら大変じゃないですか」
「生憎、私はそんなにやわには出来てないの。…疑うなら、見せてあげるわ」
そう言いながら優子は立ち上がると、傍らに転がっていた竹刀の一本を取った。 幸太郎同様、数年のブランクがあったが、それを感じさせぬほど隙のない構えで、正面か ら彼に向かい合う。
「どうしたの?来なさいよ」
「来なさいって……先輩、そんな大胆な」
「なっ…ふざけてるの!?つべこべ言わずにかかって来なさい!」
「わわっ!」
慌てて幸太郎が立ち上がろうとするも、優子は先程よりも表情を怒りの色に染めながら、 佐助の制止の声も聞かずに、容赦のない突きを彼に向かって繰り出した。
間一髪で優子の鋭い攻撃をかわした幸太郎は、半回転しながら上体を起こして僅かに身構える。
「Get your "SHINAI"!何してるのよ!?」
「い…It'my saying!先輩こそ、その物騒なモノをおろして下さいよ!」
優子の英語に律儀に返した幸太郎は、どうにかして彼女の手から竹刀を取り上げようとする。
だが、幸太郎の手を振り払うように、優子の竹刀の剣先は彼の首筋を捉えた。
咄嗟に反応して直撃は防いだ幸太郎だったが、首の薄皮をちりちりと走り出した疼痛に、顔を顰める。
「どうあっても、聞かないつもりですか」
「くどいわね。これ以上怪我したくなければ、本気で来なさい」
「イヤです」
「な…」
「俺には、優子先輩は殴れません。先輩は女性だし、それに…とっても可愛い人だから」
「……今、何て言ったの?」

幼少の頃。
ウイルスが原因の高熱にうなされた優子は、その時に右目から視力の殆どを奪われた。
突然、右目が見えなくなった恐怖に、母親に泣きつこうとするも、その母親は、まるで自分を化け物 のように怯えた視線を返すだけで、優子に何も言葉をかけてはくれなくなったのだ。
人一倍では済まないほど、日頃から伊達家に対する伝統と格式を重んじる母親にとって、その事は、 大きな衝撃だったのだろう。
それは、「こんな事まで、ご先祖様に倣わなくても良いものを」「おまけに、弟の名前まで『小次郎』と 来たものだ」等という、周囲の興味本位の揶揄が拍車をかけ、以来優子と母親の間に大きな溝が出来 てしまったのだ。

(優子はいい子ね。きっと将来、美人で素敵な女性になるわよ)
こんな事になる前までは、母は私を可愛がってくれたのに。

(…今、私は忙しいのです。お部屋に戻ってお勉強なさい)
ウソ。さっきまで小次郎と、あんなに楽しそうにしてたじゃない。

この濁った右目が、どれだけ周囲の好奇の元に晒されていたか。
同年代の女子達が、恋やお洒落や、可愛い話題に花を咲かせている裏で、自分はどれほど寂しい思い をしていたか。
『独眼竜』?冗談じゃないわ。
こんな右目がなかったら……!


「いいこと?幸太郎。その形容詞は、私に対する最大級の侮辱だというのを、教えてあげる」
「…は?な、何言ってんですか優子先輩!先輩はどっから見たって、可愛……」
「未だ言うかーっ!」
絶妙なすり足で幸太郎との間合いを詰めた優子は、大きく上段から振り被ると、幸太郎の頭上を狙う。
丸腰では捌き切れないと判断した幸太郎は、足元に転がったままの竹刀を拾い上げると、剣先 が脳天に炸裂する寸での所で優子の手元を牽制した。
「やっと本気になったわね」
「ある意味、本気です。先輩が認めないなら、俺が力尽くで認めさせるまでです!」
「な、何よ…」
「いくら否定しようとも、優子先輩は見紛う事なき、素敵で可愛い女性です。むしろ俺に言わ せれば、自分が可愛いという事を認めようとしない先輩の方がどうかしてます!」
「うるさい、うるさい、うるさーい!」
「この……先輩の判らず屋ぁ!」
瞬間、険しくなった幸太郎の表情に、優子は僅かに目を丸くさせた。
「うおおおぉぉ!」
咆哮一発、地を蹴った幸太郎は、床に落ちていたもう一本の竹刀を拾い上げると、まるで剣術という よりは杖術のようにして、ふたつの竹刀を両手に優子に向かって突進してきた。
「──!?ち、ちょっと幸太郎!それ反そ……」
思わぬ幸太郎の猛攻に、優子は僅かに反応が遅れた。
眼前に迫ってきた幸太郎に、持っていた竹刀を叩き落されてしまう。
これが本気の力か、と納得すると同時に、勢いの止まらぬ幸太郎の気迫に押された優子は、覚悟を決 めると目をつぶる。
しかし。

「でええええぇぇぇいっっっ!!!」
「きゃあああああぁぁっっ!?」


無意識に両腕で防御の姿勢を取った優子の脇を擦り抜けた幸太郎は、竹刀を手放して背後に回 ると、彼女の白いスカートの端に手を掛け、豪快に捲り上げた。
翻ったスカートから覗いたのは、ボトムに勝るとも劣らぬフリルをふんだんにあしらった、薄水 色のタンガショーツが。
「い…いやあああああっっっ!!!」
あまりの事態に、優子は無防備な悲鳴を上げると、そのままへたり込んだ。
「ど、どうだ!『可愛くない』なんて言ってるヒトが、そんな可愛い声出せるかあ!」
「な…?」
「これで判ったでしょう!?俺が断言します!つーか、出来ます!先輩は、とっても可愛い女 の子です!マジ、太鼓判です!」
無茶苦茶な幸太郎の力説に、優子だけでなく佐助まで呆然としていたのも束の間。
「…先輩…その下着、破廉恥っスよ…sexy過ぎる……」
「お、おい!幸太郎!どうした!?」
言いながら、幸太郎は引っくり返ると動かなくなった。
背後で幸太郎の倒れる音を聞いた優子は、わなわなと唇を震わせながら、妙に満 足そうな表情のまま気を失っている後輩に向き直った。
「……言いたい事言って、寝てんじゃないわよ!何捲った方が気絶してんのよ!? 逆でしょ、普通!」
「優子ちゃん…」
「何よ…何なのよぉ……何で私、こんな事で泣かなきゃいけないのよぉ……」
いつしか、優子の瞳には涙が溢れていた。
「馬鹿…幸太郎の馬鹿ぁ…あ、貴方なんか…貴方なんかぁ……う…うぅ……うわあ ああ〜〜ん!!!」
「……幸太郎。お前『肉を斬らせて骨を絶ちすぎ』だ。ま、でもある意味お前らし いっつーか……」

果たしてこれは、何の涙なのか。
誰にも見せなかった胸の内を見透かされた悔しさか。
いい歳をして醜態を晒す羽目になった事への怒りか。
いずれにせよ、その中に「悲しみ」の感情が見当たらなかった事に、優子は極力気付かぬよ う努めた。
そうでなければ、自分の幸太郎に対する気持ちが吹き出してしまいそうだったからだ。
今はダメ。今は未だ早い。
自分の気持ちに整理を付けるまでは、この感情は悟られてはいけない。

「う…ひっ…く…私、バカみたい……」
「うぅ…ん。優子せんぱ…い……」

それでも、不器用な幸太郎の想いに、優子が仄かな喜び感じていたのは、紛れもない事実 だった。




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