寝室のベッドで気だるい身体を持て余していた元子は、再び聞こえてきた携帯電話の呼び出 し音に、薄目を開けた。
名残惜しむように絡んでくる毛利の腕をやんわりと解きながら、ベッド下に置いてあ ったバッグの中で鳴り続けている携帯電話を取る。
「…優子?どうしたの、こんな時間に…って、ああ、ごめん。さっきまで……ちょっと外に 出てて。携帯持ってなかったのよ」
自分のコールに応えなかった事を詰問された元子は、もっともらしい弁解でかわす。
だが、続けて受話器から届いた親友の愚痴と、突然自分から離れた毛利の腕に、元子の眠気 は吹き飛んだ。
やがて電話を切った元子は、すっかり自分から背を向けてシーツに包まっている恋人に、不 気味なほど平静な声で問い掛ける。
「……就明さん?ちょっと、訊きたい事があるんだけど」


翌日。
チア部の朝練の後で、元子は学校近くのカフェの前で、むくれ顔の優子と待ち合わせをした。
「もう!ゆうべあれだけ電話したのに!」
「ごめんごめん。だから、お詫びにモーニング奢るって言ったじゃない」
軽く謝罪をしながら、元子は優子を促し店内へ入る。
未だ何か言いたそうにしていた優子だったが、取りあえず空腹を満たす為に注文を元子に任せる と、テーブルに腰を下ろした。
「武田教授も、随分思い切ったバクチに出たものねぇ」
「他人事だと思って。イヤよ私。晒し者になるなんて」
「ヒトの価値観はそれぞれなんだから。今のは他の出場希望者に対して失礼よ」
「判ってるけど…出たくもないのに、無理矢理出させられるコッチの都合も、考えて欲しいわ」
サーモンと野菜がサンドされたクロワッサンをパクつきながら、優子は恨みがましそうに愚痴を零す。
ふくれっ面の心友を面白そうに見つめながら、元子はカフェ・ラテの入ったカップに口を付けた。
「でも、いい機会じゃない?『冷徹な英文の独眼姫の意外な一面!』なーんて、注目集まるかもよ?」
「Don't kidding!冗談じゃないわ!」
「コレが切欠で、素敵な殿方のハートをクリティカルしちゃったりして」
「だから、私はそんなもの…」
不意に、脳裏に浮かんだふたりの男性に、優子は慌てて頭を振った。
単純に自分の出場を喜んでいる幸太郎はともかく、「あの人」がこんな事を知ったら……
「──とにかく、」
気持ちを落ち着かせるために、優子は紅茶をひと口飲むと息を吐く。
「エントリーはしても、どうせ並み居る候補者に私がかないっこないんだから。そういうのは他の人に任 せて、適当にやるわ」
確か参加者には、参加賞として学食から食券が出ると聞いている。
こうなったら、それを目当てと割り切って、コンテストの数時間だけ我慢すればいい。
そう結論付けた優子が、もう一度紅茶で喉を潤そうとした瞬間。


「あらあら。早々に敗北宣言という事かしら、伊達優子さん?」


背後で人影が立ち上がったかと思いきや、言葉の端々に棘を含んだ女性の声が、優子たちの耳 に届いた。
何事かと振り返ると、純和風的魅力を帯びた、しかし何処か冷たい印象を与える美女が、扇を 手に嫣然と微笑んでいた。

「誰、貴方」
「まあ、ご挨拶ね。ご自分も出場なさるコンテストの、候補者の名前もご存知ない だなんて」
「…ごめん。コンテスト云々以前に、私、本当に貴方の事知らない」
素で切り替えしてきた優子の言葉に、その美女はひくり、とこめかみに小さな青筋を作る。
「ま…まあ、いいですわ。所詮、『独眼姫』の貴方では、様々な面に置いて視野が狭くなるのも、無 理はないでしょうし」
扇子越しに含み笑いをする美女に、今度は優子の左目が細められる。
「……思い出した。貴方、法科の今川ってヒトでしょ。確か去年の学祭で準ミスに選ばれた」
「あら、御存知のようで嬉しいわ。いかにもわたくしは、法学部4年の今川可憐(いまがわ かれ ん)。今回のコンテストで、そちらの伊達さんと共に、競わせて頂くひとりですわ」

口では言うものの、絶大な自信を帯びた微笑で返してくる今川に、うんざり顔の元子は勿論の事、 何故か普段あまり他人に関心のない優子まで、怪訝な顔をしている。
「言っておきますけど、わたくしは如何なる相手でも、手加減はしない主義ですの。こうい う事には不慣れな貴方にとって、少々敷居の高いコンテストかも知れませんけど…」
「な…」
「……あのさ。どう喚いた所で、『結果』が全てでしょう?そこまで自信満々なら、こっちの事なんか一 々気にしないで、精進してればいいじゃない」
口下手な上に、遠回しの侮辱に優子が内心で憤りを感じていると、助け舟とばかりに、元子が口を 挟んできた。
『チア部の鬼』のあだ名を持つ元子は、体育会系だけに留まらず、学内でも男女問わず絶大な支 持と人気を誇る。
一途に毛利を慕う元子本人は気付いていないが、学祭の度に、密かに水面下で行われている『裏 ・ミス戦国コンテスト』に、毎年ノミネートされている程なのだ。
そんな元子の咎めるような視線を受け、流石の今川も一旦笑みを消す。
「…そういえば長曾我部さんは、いつも噂は立っても、実際にはコンテストには出られないの ね。どうしてかしら?」
「興味ないし。第一、私はチアよ。自分がでしゃばるのは専門外だわ」
「そう。それは、賢明な判断ですこと」
「もっとも、私が応援する相手は、貴方じゃないけどね」

巧みな元子の切り返しに、今川は引き攣りかけた表情を、辛うじて扇で隠す。
「まあ、当日までせいぜいご健闘なさる事ね。わたくしとしましても、戦い甲斐のない方を相手に するのは、些か拍子抜けですし」
コロコロ、と鈴の音のような笑みを振りまきながら、軽やかな足取りで店を出て行った。 残された優子と元子は、カップが冷めかかっているのも忘れ、呆然と彼女の後姿を 見送る。

「なんつーか…噂には聞いてたけど、実際目にしてみると、中々強烈な人だね……って、優子?」
俯き加減の心友を心配した元子は、気遣うように首を動かすと、様子を窺っていたが、
「──元子」
「ん?」
テーブルの上に残されていたサンドイッチを、鷲掴みする勢いで手にした優子は、次の瞬間ひと口 でそれを飲み込むと、カップを傾けて一気に流し込んだ。
些か乱暴な仕草で口を拭うと、左目を鈍く輝かせる。
「当日までの間、コンテストに向けての仕草やウォーキングやら…レクチャーしてくれない?」
「えぇ!?いきなりどうしちゃったの?まさか、本気で……」
「優勝や入賞なんかに、興味はないわ。だけど……あの『お公家モドキ女』に一泡吹かせてや らないと、こっちの気が治まらないってヤツよ」
「あ〜あ…優子がここまで本気になるのは、ある種珍しい事だけど……」

おそらく、今年の『ミス戦国コンテスト』は、ただでは済みそうにないだろう。
静かに、だが確実に闘志に身を燃やし始めた優子の姿を、元子は半ば投げ遣りに見つめていた。


戦国大学院博士課程の片倉景次(かたくら けいじ)は、かつて同じ机で学び、現在ではひと足 先に都内の博物館に勤めている恋人との電話を済ませると、デスク上の書類を纏めていた。
「そういえば…もうすぐ学祭か」
書類に混ざって、無造作に散らばっていた学祭のビラに、片倉は、当時を思い出して笑みを 漏らす。
そのまま、何となくビラの山を片付けていた片倉は、ある一枚に思わず目を留めた。
「これは…」
それは、他のビラとは明らかに大きさも、力の入れようも異なる、『ミス戦国コンテスト』の宣伝 であった。
その用紙に書かれた候補者の欄を見て、片倉は数回目を瞬かせる。
「まさか…?」
彼の発した第一声は、至極もっともな反応であった。
幼い頃から、どちらかと言えば引っ込み思案で、目立つ事が嫌いだった彼女が、いったいどうした 風の吹き回しか。
「優子様…あまり、無茶をされなければ良いのですが……」
窓越しに呟く片倉の視界には、澄み切った夏空が広がっていた。


都内某所の岩盤浴サロン。
「だーかーら、ただでさえ夏で気温高いんだから、初心者が無茶すんなっつったでしょう!?」
「あ…頭に響くから、耳元で怒鳴るの止めて、元子……」
「お、お客様、大丈夫ですか?」
「ああ、ほっといていいです。このコがバカなだけですから」
クールダウンを通り越えて、すっかりダウンしている優子の傍でうちわを扇ぐ元子は、サロンのス タッフの言葉に、にべのない返事を返した。
ぐったりと休憩室のソファで、ペットボトルの水を傾けている優子は、コンテストに向けての対策を この心友に頼んだ事を、僅かに後悔した。
普段はおおらかで優しい元子だが、後輩の教育その他に関連する事については、『鬼』と化すのを うっかり失念していたのだ。

「就明さんの許可も取った事だし、コンテストまでの間は、付きっ切りでアンタの食生活や、トレ ーニングの面倒見る事にしたから」
「……この後、解放してくれるんじゃないの?」
「今川に一泡吹かせたいんじゃなかったの?アイツ、レベルの高い戦国(ウチ)のミスコンで、準 ミスまでいくぐらいなんだから、何だかんだいってもそれなりの実力は持ってんのよ?」
「でも、別に私は優勝したいだなんて、ひと言も言ってな……」
「何、甘っちょろい事抜かしてんのよ。武田教授に啖呵切った挙げ句、『対コンテストの必要経費』ま で分捕ってきた(実際には、武田は嬉々としてスポンサーになってくれたのだが)んだから、今更後には 引けないわよ」

「帰ったら、ウォーキングとメイクの仕方、徹底的にやるからね」と、すっかり『鬼教官モード』 になってしまった心友の姿に、優子は己の下した判断を、先程よりも確実に後悔し始めていた。




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