文学部校舎に到着したふたりは、「研究室・武田」と書かれたドアを開けて中に入る。 「武田のオッサン」 「──おお、優子か。お前が探していた書物を、神保町の知り合いから貰って来たぞ」 「それは、どうも」 プレゼミ生にしては妙に粗野で態度の大きな優子に、戦国大学文学部教授武田哲生 (たけだ てっせい)は、さして気に留めずに笑いかけてくる。 「ここに来る途中、オッサンに会いたいって新入生を連れて来たん だけど…ひょっとして隠し子?」 「なに?」 「……武田のおじ様!」 武田の姿を目にした途端、幸太郎の顔が傍目でも判るほど輝き出した。 幸太郎の声を聞いて、武田も目を見張ると、声を張り上げる。 「幸太郎!ついに来たか!ふははは、待っておったぞ!」 「おじ様!」 「幸太郎!」 「おじ様ああぁっっ!」 「幸太郎おおぉっ!」 「はよーっす。…って、もう昼前だけど。ありゃ、優子ちゃんどうしたの?」 気の抜けた声と同時に、院生1年の鷲塚佐助(わしづか さすけ)が、室内のあまり に盛り上がった様子を、目を丸くさせながら見つめてきた。 「新入生を、オッサンの所へ連れて来ただけなんだけど…あれ、一体何なの?」 「ん?…お前、幸太郎じゃねーか!」 「──佐助か!?」 佐助の呼びかけを聞いて、それまで武田と熱い抱擁を繰り返していた幸太郎は、す っかり解けてしまったネクタイをぶら下げながら、優子たちの傍へと駆けて来た。 「おいおい、俺は年上だぞ?呼び捨てはねえだろ」 だが口調とは裏腹に、佐助の表情は愉快そうに綻んでいる。 「だって、佐助のご先祖様は、真田家に仕えていた忍なんだろ?兄さんが言ってたぞ」 「あれは作り話。お前大学生にもなって、そんなの信じてんじゃないよ」 「俺は信じてる。佐助は、俺の子分だ!」 「コノヤロ!年長者に対する礼儀を弁えやがれ!」 「うわぁ!」 兄弟のようにじゃれあい始めた幸太郎と佐助の前を、優子は、痛み始めた頭を押さ えながら通り過ぎた。 「はい、どうぞ」 「有難うございます!」 大げさに頭を下げると、ソファに腰掛けた幸太郎は、優子から湯飲みを受け取った。 「……という訳で、ワシが昔信州上田に研究に訪れた際、真田家に世話になった事が あったのだ。幸太郎はそこの次男坊でな。幼い頃から利発な良い子だったが、 ここまで大きくなっていたとはな」 まるで実の息子を見るように、武田は幸太郎に視線を向ける。 「ちなみに俺は、昔ちょっとだけ上田に住んでた事があって、その時に幸太郎の兄貴 と同級生だったんだ」 「それでふたりとも、この新入生と知り合いって訳なのね」 「やだなあ。幸太郎って呼んで下さいよ。優子先輩」 物怖じしない幸太郎の態度に、優子は思わず面食らう。 どちらかといえば、初対面の相手が彼女に持つ印象は、「近づき難い」「仏頂面が怖い」 といったものが殆どだからだ。 例外だったのは、幼い頃から自分の傍にいた片倉を除くと、武田と佐助くらいである。 (……なるほど。類はなんとやら、ってヤツね。それじゃ、このコもオッサ ンのゼミ生になるのかしら) 「幸太郎。今日からお前は、ワシの生徒だ。手の空いた時はここへ来い」 「はい!」 「ちょっと待って。研究室は、新入生の遊び場じゃないんだけど。このコ、ち ゃんと役に立つの?」 「別にいいじゃないか。俺たちだって、半分センセと遊んでるようなモンだし」 カラカラと笑う佐助とは対照的に、優子は武田に詰め寄る。 「ワシは、見込みのある学生は、どんどん鍛え上げるのが信条だ。 だから未だ2年生であるお前の事も、他のゼミ生と同じ扱いをしているだろうが」 「……じゃあ、彼にもそれだけの実力があると?」 武田の言に、優子は幸太郎を値踏みするような視線を向けた。向けられた方は、数回 瞬きした後で、何故かほんのりと頬を染めてきた。 「こう見えて幸太郎は、お前同様由緒ある家の子息だ。幼い頃からひと通りの嗜み に加え、高校時代には2年ほどイギリス留学をしている」 「一応、英語だけならアメリカ式とイギリス式、どっちも出来ますよ」 さらりと述べられた言葉を聞いて、優子は目を丸くさせる。 「それで、判ったんですよね。狭い日本ですら色々な方言があるんだから、 それが世界ならもっと変化してるって。そして、かえって発祥地から離れているから、 本来の古典的な文法や発音を守っている土地もあったりして、『本当に言語って、面白 いな』と感じるようになったんですよ」 「……」 「よく『文系は大学のあまりもん』なんて、心無い事言う人もいるけど、俺はそうは 思いません。だって、俺じゃチンプンカンプンな知識を披露してる人だって、それを語 る・考える時に使っている言葉は、同じなんですから」 一見、頼りなげな青年・幸太郎の科白を聞いた優子は、彼の意外な知性の高さに 内心で舌を巻いた。 だが、易々とそれを認めるのも癪なので、 「──まあ、オッサンがそう言うなら、反対はしないけど…こっちの邪魔はしないでよ」 「勿論です!これから一緒に頑張りましょう、優子先輩!」 「……な!?何でそうなるの?」 「『ひとりより、ふたりがいい』って言うじゃないですか」 「……訳判んない」 自分への、これまでになかった接触の仕方をする幸太郎に、優子は困惑していた。 その後、早速新入生真田幸太郎の歓迎会を行う運びとなり、武田は、幸太郎に何か食べたい ものはないか、尋ねてきた。 「ホントに何でもいいんですか?」 「おお、高級料亭貸切でも帝国ホテルのディナーでも、好きなものを言ってみろ」 「やめてよ」 「領収書おちないっすよ、ソレ」 後ろでうんざりしている優子と佐助を他所に、幸太郎は少しの間思案する。 「そうですねぇ…俺、山育ちだから『海の幸』って弱いんですよ。東京はお寿司が 美味しいって聞きますから、回転寿司に連れてってくれると嬉しいです」 「……いきなりグレードダウンしたな」 「あなた、真田家のお坊ちゃんでしょ?心配しなくても、それくらいなら武田のオ ッサンは、余裕で奢ってくれるわよ」 言うが早いが、優子は研究室の電話を取ると、いつも来客等の時に頼んでいるそこ そこ高級な寿司屋に、出前の注文をする。 「優子。今日は男衆が多いから、大盛りでな」 「言われなくても、判ってるわよ。…あ、もしもし?こちら戦国大学文学部の武田 研究室ですが……」 電話の応対をする優子の後姿を、幸太郎はうっとりと眺めていたが、傍らの佐助に 声を掛けると、ぼそりとひと言、自分の心情を吐露した。 「俺、優子先輩にひと目ぼれしちゃったみたいだ」と。 |