試験やレポート提出も無事に終え、本来なら楽しい夏休みが訪れる筈だったのだが。 『夏休みは、こっちに戻って来るなよ』 「……実家で悠々と暮らしてる長男坊に、言われたくないわよ」 果たして弟の小次郎の言うとおり、学祭終了後、優子は実家の母親から、国会の質疑応答も 真っ青な糾弾を浴びせられる羽目になった。 事前の片倉によるフォローや、武田自らの状況説明もあって、どうにかある程度 まで彼女の機嫌を直す事には成功したものの、それでもやはり、今優子が故郷の仙台 へ帰る事は憚られる。 「ねえ、元子ぉ。日帰りでも何でもいいから、どっか付き合ってよ」 「あ、ゴメン。私、8月末まではダメ」 帰り道。偶然一緒になった心友に、優子は交渉をもちかけるも、元子の返事はつれない ものであった。 「えー?チア部の合宿は8月の頭まで、って言ってたじゃない」 「あ…うん。そうなんだけど…」 「……毛利先生と田舎帰るの?」 元子が1年生の時から付き合っている毛利とは、すでに互いの親公認の仲である。 ふたりの実家が四国と瀬戸内なのもあって、長期休暇の際には、それぞれの家へ訪れ る事もあるらしい。 「え…っと、あの…今年は…」 「?」 「私の…20歳の記念だって、就明さんが…その、南の島へ……」 元子の言葉が途切れた瞬間、電光石火の如く優子の手刀が、心友の頭に炸裂した。 「いたーい!何するのよ!」 「滅べ、バカップル。そのまま帰って来るな」 「優子…?」 「……いや、やっぱり帰って来い。そんで土産に○○の全身美容液と、××の海外限 定コスメ買ってこい!」 「ええぇ!?そんなの高すぎる!!」 「知るかーっ!幸せ者の弁解なんか、聞かーんっっ!!」 まるで武田のような怒号を張り上げる裏で、優子はこの時ばかりは、つくづく人付き合 いの下手な自分を疎ましく思っていた。 夏休みの初日。 「はぁ…」 武田の語学教室でバイトをしていた優子は、子供の喧騒や、窓の外で夏の訪れを喜 んでいるようなセミの鳴き声に、もう一度深いため息を吐いた。 「真田幸太郎、ただ今戻りました!先輩、お弁当買って来ましたよ!」 偶然同じシフトだった幸太郎が、店のビニール袋を手に買い出しから戻ってくる。 「ご苦労様。暑かったでしょ」 「いえいえ。俺、暑いのは割と大丈夫ですから。…それにしても東京の夏って、アスフ ァルトの照り返しがキツいですね」 子供達の相手を他のスタッフに任せて、講師室に移動したふたりは、備え付けの冷蔵庫 から麦茶のボトルを取り出すと、テーブルの上に弁当を広げた。 「流石に夏休みともなると、子供達の出入りが、いつもと変わってきたわね」 「そうですね。でも、8月になったら早目に夏期休館にするって、おじ様は言ってまし たよ」 「お盆の頃じゃなくて?」 「ええ。『夏休みは、のんびりするものだから』って」 「……こっちは暇疲れしそうだっつのに、あのオヤジ」 「…先輩?」 渋面を作りながら弁当に箸をつける優子を、幸太郎は目を丸くさせながら見返す。 こげ茶色の穏やかな双眸が、自分を捉えている事に気付いた優子は、咄嗟に顔を横に背 けると、麦茶で喉を潤した。 「来週になったら、おじいさん達と旅行に出かけてる佐助が、こっちに戻って来る から。そしたら俺も、東京を一旦離れる予定です」 「実家に帰るの?」 「ええ。優子先輩は、戻らないんですか?」 「………あんな事があったばっかで、ホイホイと帰れると思う?」 「そうでしたね、すみませんでした」 「もう、いいわよ。いつまでも怒ってるのも、大人気ないから。…でも、困ったな。気分 転換しようにも、今からじゃロクにチケット取れそうにないし、その前に、女のひとり 旅は虚しい上に、あんまり歓迎されないし…」 「……」 物憂げな優子の横顔を、幸太郎は瞬きもせずに凝視する。 暫し、自分の頭の中にある様々な思惑を巡らせていたが、 「優子先輩、あの、ちょっといいですか?」 努めてさり気ない風を装うと、幸太郎は席を立ち、優子に声を掛けた。 「これがホテルの連絡先。旅行中、就明さんがノートパソコン貸してくれる から、何かあったらメールして」 「うん」 「緊急の時は、一応携帯も繋がるから」 「うん」 「……今日も、いい天気だね」 「うん」 「優子、人の話聞いてる?」 「へ…あ、何?」 8月に入り、いよいよ猛暑も勢いを増してきた東京のとあるカフェでは、毛利と旅行に 出かける元子が、連絡先その他を優子に渡していた。 夏休み前に散々「薄情者」呼ばわりをされていた元子は、上の空な心友に小首を傾げる。 「な、何でもない。暑くてボーっとしてただけ」 「そう?さて…と、そろそろバスの時間だわ」 携帯の時計を確認した元子は、ミニボストンを手に立ち上がる。 「毛利先生は?」 「空港で、直接待ち合わせ。じゃあ、今度会うのは月末ね」 「気を付けてね」 「うん、優子も。良かったじゃない、予定が出来て。でも、いきなりどうしたの?」 言いながら、元子は優子の足元に鎮座する、小型のキャリーケースにちらりと視線を移した。 予め、空港にトランクを送っていた自分よりも荷物の多い優子の顔を、再び元子は不思議そ うに見つめる。 「ちょっとね。……知り合いのコネで」 「ふーん」 元子は、それ以上の詮索はせずに優子に手を振ると、ひと足先に店を出て行った。 残された優子は、ショルダーバッグのポケットから1枚のメモを取り出すと、畳まれてい たそれを目の前で開いた。 「幸太郎…」 ややクセがあるものの、割と達筆な幸太郎の文字が顔をのぞかせる。 あの日。 バイトの休憩中、突然席を立った幸太郎は、何処となく詰め寄るように、優子に尋ねてきた。 『予定がないなら、信州は上田へ避暑に来ませんか?』 『上田ってまさか…幸太郎の実家?』 『え!ま、それも嬉しいっちゃ嬉しいですけど…違います。実家近くに、ウチが懇意にし ている温泉宿があるんですよ。子供の頃は毎年家族で行ってたんですが、最近は御無沙汰で』 『温泉?』 『はい。特別高級じゃないですけど、いわゆる「知る人ぞ知る」な所なんで、寛ぐにはもって来 いですよ。先輩さえ良ければ、俺今すぐにでも話付けますから。ミスコン騒動で迷惑掛 けたお詫びも含めて』 『貴方はどうするの?』 『え?俺は……お盆やった後で、気が向いたら久々にアウトドアでもしようかな…と。多 分実家か、近くの山や湖辺りでだらけてる思います』 『あら、一緒には行ってくれないのね』 『ええ!?ダ、ダメっスよ!嫁入り前の先輩と、そんな破廉恥な…!』 己の軽口に慌てふためく幸太郎を、少しだけ物寂しく感じる優子だったが、 申し出自体は悪いものではなかったので、有難く彼の厚意を受ける事にした。 早速、件の旅館へ電話を掛ける幸太郎を、優子は彼に気付かれないよう盗み見る。 数分後、優子は幸太郎から、旅館の住所その他が書かれたメモを手渡された。 『取りあえず、2泊3日で頼んでおきました』 『有難う』 『いいえ。それと…』 やや言い淀んだ後で、幸太郎は何かを決意したように顔を上げると、真っ直ぐに優子を見つめ 返してきた。 その真剣な表情を見て、優子は不覚にも一瞬目を奪われてしまう。 『もし…もしも良かったら東京に戻る前に、俺と一緒にアウトドアでもしませんか?』 『え…?』 突拍子もない後輩の言葉に、優子は呆気に取られた。 『や、アウトドアって言っても、いきなり地べたに野宿や、ロビンソンクルーゾーのような真似はさせませ んから。初心者の優子先輩でも安心出来る場所で…って、何言ってんだ俺……あ、えっと、き、気 が向いたら電話下さい。旅館まで迎えに行きますから!』 『え…ええ。き、気が向いたら…ね?』 『ハイ、勿論です!気が向いたら!!』 他のスタッフ何事かと様子を見に来るまでの間、ふたりは弁当もそっちのけなまま、妙なテンション で会話を繰り返していたのであった。 (アウトドア、って…どんな事するんだろう…?) 避暑地に向かう列車の中で、優子はひとり自問自答する。 (野外だから、当然スカートはダメだし、虫除けスプレーや、け、携帯トイレとかも買 った方が……?) 確か、最寄り駅にはアウトレットモールがあった筈だ。 宿に向かう前に、少し揃えておいた方が良いだろう。 (そ、そうよね。気が向いた時にも、慌てないように…) しかし。 そんな優子の意識は、既に温泉宿のさらに更に先へと、支配されかかっていた。 |