「佐助。優子先輩って、彼氏いるの?」 出前の寿司をつつきながら、幸太郎は隣の佐助にこっそり耳打ちした。 「なんだよ、急に?」 「言っただろ、『ひと目ぼれした』って。好きになった人の事訊くのが、そん なに可笑しいか?」 「いや、そんな事はないけど。へぇ…オマエが優子ちゃんをねぇ……」 しみじみと呟くと、佐助は自分の寿司桶から巻物を口に運ぶ。 「俺の知る限りだと、今んトコ優子ちゃんには、特定の彼氏はいない筈だぞ」 何しろ、学内でも「美人だけど無愛想」「冷徹の独眼姫」などと、あまり よろしくないあだ名で知られている優子の事だ。 これまでにも、彼女に交際を申し込もうとした輩がいない訳ではなかったが、 そんな猛者たちの健闘も空しく、高嶺の花をその手に出来る者は、誰も現れな かったのである。 「それに。優子ちゃんには、もうずっと片想いを続けている相手がいるからな。 彼女の牙城を崩すには、ちょっとやそっとの努力じゃ無理だぜ?」 「誰?優子先輩にそんな勿体無い事させてる、罰当たりなヤツは」 「それは…お、そろそろかな」 壁にかかった時計に一瞥した佐助は、研究室のドアへと視線を移した。 すると、控え目なノックの後でひとりの男が入室してきた。 「失礼します。武田教授、先日頼まれた史料をお持ちしました」 「おお。ご苦労だったな、片倉くん」 男が現れたと同時に、優子の表情が仄かに綻んだのを、幸太郎は見逃さな かった。 「元気そうですね、優子様」 「…なあに?また、オッサンの使いにかこつけて、私の様子を見に来たの?」 含んだ物言いの優子にも、片倉の表情は変わらず、穏やかな笑みで応えた。 特別長身という訳ではないのだが、清潔な白衣をその細身に纏った姿は、まるで こちらの身まで引き締められるような印象を受ける。 片倉景次(かたくら けいじ)は、佐助が所属する修士課程のもうひとつ上に あたる博士課程の院生である。 『伊達三傑』で有名な片倉小十郎を先祖に持つ彼は、幼い頃から優子の教育 係として、彼女の世話を務めているのだ。 「奥様が、心配してましたよ。この間の春休みも、とうとうご実家へは戻ら なかったそうですね」 「こっちの研究が忙しかったからよ。…それに、あの家には私の居場所なんてないから」 「また、そのような事を」 「私も、もうすぐ二十歳よ。そろそろ自分の生き方くらい、自分で決められるわ。だか ら貴方も、いつまでも私のお守りなんかしてないで、好きなようにしたらどうなの?」 「優子様…」 「ダメだ…悔しいけど、全然勝ち目ない」 片倉と優子の様子を見ていた幸太郎が、佐助にだけ聞こえるような小さな声 でぼやいた。 「そんな素直な所、昔から変わんないな」 「悪かったな」 「怒るなよ、褒めたんだぜ?俺、オマエのその真っ直ぐな性格、好きだぞ」 「……ありがと」 俯きながらも礼を言う幸太郎を見て、佐助は優しく微笑んだ。 「…でもな。人間は、誰しも完璧って訳じゃないんだぜ」 「え?」 「その証拠に、あの片倉さんは、優子ちゃんの気持ちに全然気付いてないんだ」 あくまで片倉にとって優子は、「大切な伊達家のお嬢様」であって、それ以上でも それ以下でもないからだ。 まして優子が、自分に対して仄かな恋愛感情を抱いているなど、彼は想像すらして いないのである。 「だから優子ちゃんは、そんな片倉さんに自分の気持ちを打ち明ける事す ら出来ないし、片倉さんは片倉さんで、優子ちゃんが自分にそんな想いを寄せ ているだなんて考えてすらいない。……あのふたり見てると、ホント人生って 上手くいかないモンだって感じるよな」 「でも、主従関係が重んじられてた昔じゃあるまいし、その気になれば……」 「断られるの判ってんのに、告白する勇気があるヤツは、そういないよ」 「え…」 武田と会話を続けている片倉を、気付かれないようにこっそり覗いている優子 の姿を見て、佐助は僅かに眉根を寄せる。 「片倉さんには、大学時代からの彼女がいるんだよ。だから可哀相だけど、優 子ちゃんが入る隙間はないって訳。…それが判ってるから、優子ちゃんもあの 人への想いを、自分の中だけに留めているんだろうな」 「……」 佐助の言葉もそこそこに、幸太郎は優子に視線を移した。 強靭さを兼ね備えた彼女の美しい瞳が、抑え切れない感情に揺らめいているの を見つけ、幸太郎は小首を傾げる。 「──辛くないのかな」 「…幸太郎?」 「『片想いでも、ふたり分好きになれば両想い』なんて言うけど…優子先輩は、 本当にそれでいいと思ってるのかな」 「おいおい。女の子の心に無闇に侵入するのは、幾らなんでも野暮すぎだぞ?」 「判ってるよ。だけど…」 佐助の指摘はもっともだが、幸太郎は、奇妙な胸騒ぎを覚えていた。 ──いつか優子が、自分の抱え続けている想いに潰されてしまうのではないか、と。 片倉が研究室を出て行った後、優子は靴音を立てながら、佐助と幸太郎の前に近づいてきた。 「食べ終わったのなら、桶はシンクに出しておいて。洗うから」 「あ、はいはい」 「ご、ごちそうさまでした」 「……どうしたの?」 挙動不審な幸太郎を見て、優子は訝しむような表情をする。 「な、なんでもないです」 そう返すと、幸太郎は空の桶を手に立ち上がった。 その時、勢いが良すぎた所為か、彼のズボンのポケットから、何かが音を立てて 床に落下する。 「あ」 それは、新品とおぼしき真っ赤な携帯電話だった。 「…そうだ。入学式の前に電源切ってて、そのままだった」 慌てて拾い上げた幸太郎は、携帯電話のスイッチをONにする。 否や、間髪入れずにけたたましい呼び出し音が、研究室一帯に響き渡った。 「どわっ!?」 「ちょ…幸太郎!貴方、音量大き過ぎ!」 「す、すみませんっ」 抗議するふたりから避けるように、幸太郎は着信ボタンを押すと、受話器を耳 に当てる。 「はい、真田です…あ、はい…そうですが……ええっ!?ちょ、ちょっと待って 下さい!それって、どういう事ですか!?」 らしからぬ、僅かに怒気を含んだ声を聞いた佐助と優子は、何事かと幸太郎を振 り返った。 |