「本当に、申し訳ございませんでした!」
「…それはいいですから。どうしてこんな事になったのか、説明して貰えませんか?」
ひたすら平身低頭で謝罪を繰り返す若い社員に、幸太郎は、半ばうんざりしたような顔 で質(ただ)した。

彼は、ほんのひと月前に、突然会社を辞めてしまった先任の穴を埋める為に来たばかりで、 その先任者が担当していた全契約の内容を、把握しきれていなかったらしい。(勿論、彼自身 の確認ミスもあるが、先任者の退社というのが、殆ど失踪に近いものだったらしく、今でも 連絡がつかないという)
故に、先任の担当者が辞める直前の仕事で、既に男と契約を交わしていた事に気付かず、そ の後東京でのアパートを探していた幸太郎と契約・結果、ダブルブッキ ングが発生してしまったのだ。

「…という訳で、真田様にはまことに申し訳ないのですが、こちらの部屋は先に契約をなさ っていたお客様に…勿論、出来る限りの補償はさせて頂きます。よろしかったら別のお部屋 のご案内も……」
「……いいえ。敷金と礼金だけ返して貰えれば、もう結構です」
彼には気の毒だが、幸太郎には、この不動産屋に対する不信感しかなかった。
仮に、自分との契約の方が優先されていたとしても、もはやそれを受け入れられるほどの 度量は、持ち合わせていなかったのである。
落胆を隠せない様子の幸太郎を励ますように、佐助は彼の背を優しく叩いてやった。
「なんだよ。結局お前が勝手に騙されてただけじゃねえかよ。ったく、人騒がせにも 程があるぜ」
「…!」
優子は、幸太郎たちから少し離れた場所で、彼らのやり取りを眺めていたが、無神経な 男の揶揄を耳にした瞬間、思わず柳眉を逆立てた。
「まあ、気の毒っちゃ気の毒だけど…悪く思うなよ。お前み たいな親の脛齧った学生なんかと違って、こっちは生活かかってんだ」
「……お騒がせして、すみませんでした」
「おう。とっとと帰れ帰れ」
色々と腑に落ちない所もあるが、それでも幸太郎は男に頭を下げると、踵を返す。
だが、重ねて返された男の暴言に、凛とした女性の声が異を唱えてきた。

「──それが、大の大人が取る態度なの?」

「あぁ?」
「ゆ、優子先輩…?」
腕組みの姿勢で鋭い一瞥を寄越してきた長身の美女に、男の顔が一瞬強張る。
優子は、更に一歩男に詰め寄ると、もう一度口を開いた。
「つい今、自分の所為ではないにもかかわらず、住む所を無くしたばかりの彼に向かって『帰 れ』だなんて、随分と無神経な事が言えたものね。仮にも成人した社会人なら、もう少し周囲 の状況や空気を読んだらどう?」
辛辣な優子の科白を、男は暫し呆然と聞いていたが、
「このアマ!言わせておけば、いい気になりやがって!」
瞬時に昂ぶった男の感情は、そのまま優子に向けられてきた。怒りに顔を歪ませると、 左手を振り上げながら彼女に迫る。
伊達家の子女として、幼い頃からそれなりに武道をたしなんできた 優子だったが、彼女の殆ど見えない右目は、自分に向けられた男の悪意を確認するのに、 多少の時間を要した。
「きゃ…!」
避けられない、と判断した優子は、目を閉じると身体を硬くさせる。
だが、肉を打つ乾いた音とは裏腹に、優子の身体には何の痛みも感じられなかった。
顔を上げると、いつの間に移動していたのか、優子と男の間に立ちはだかった幸太郎が、 男の拳を片手で受け止めていたのである。
「くっ!テメェ…」
「確かに俺は、田舎から上京したばかりの青二才です。でも、貴方にこれだけは 胸を張って言えます」
「何ィ…?いっ、痛ててて!」
男の手を掴んだ幸太郎は、そのまま力任せに捻り上げた。直後、襲ってきた痛みに、 男はだらしない悲鳴を上げる。
「女性に暴力を奮うような男は、最低だ!男なら、女性は守ってやるものでしょうが!」
そう言って、幸太郎は痛みに抵抗する男の手を、わざと振り払うようにして開放した。
「幸太郎…」
「──ふたりとも、行きましょう。もう俺、こんな所に一秒だっていたくありません」
床に尻餅をついたまま、呆然とこちらを見上げてくる男を横目でひと睨みすると、幸太郎は、 そのまま振り返る事無く、アパートの階段を下りていった。


「あー…やっちゃったよ、俺……」
アパートから離れ、駅前の一角に到着した幸太郎は、両手で頭を抱えながら地面にうずくまった。
「俺、ついカっとなっちゃって…あの男の人に『暴力だ』って、訴えられたらどうしよう……」
「大丈夫だよ。オマエの剣幕に相当ビビってたから。ったく、なーにが社会人だ。ア イツ絶対俺より年下だぜ」
「自分の権利だけ主張していれば良かったのに、余計な暴言まで吐いた報いよ。貴方は悪くないわ」
自分の発言が、男に喧嘩を売るきっかけとなった事はしっかり横に置くと、優子は佐助と一緒に、 自己嫌悪しながら落ち込む幸太郎に慰めの言葉をかけた。
「これからどうするつもりだ?」
「金銭に関する事は、明日にでも実家に連絡するとして…取りあえず今日の仮宿を 決めたいと思います」
駅のコインロッカーからボストンバッグを取り出すと、幸太郎は佐助の質問に答える。
「ごめんな。ウチに呼んでやりたいのは、山々なんだけど…」
「いいよ。佐助の家、病気のおばあちゃんの介護とか、大変なんでしょ?」
「…悪い。その代わり、他にして欲しい事があったら、遠慮なく言えよ。俺は幸太郎の、東京の兄貴 だからな」
「うん。…ありがと、佐助お兄ちゃん」
「…な、何だよ!いきなりそんな風に呼ばれると、照れ臭いだろうが!」
「だって、昔はこう呼んでたじゃないか」
「いい、いい。頼むから普通にしてくれ」
仄かに赤面しながら頭を掻く佐助を見て、幸太郎は嬉しそうに笑う。だが、やはり僅かな不安は隠せ ないようで、その後で小さく息を吐いている様子を、優子はそっと垣間見ていた。


駅ビルの喫茶店で休憩を取った後、「これからバイトがある」という佐助と別れた幸太郎は、駅備え付 けの案内表示板で、周辺の地理を確認していた。
「ねえ…仮宿って言っても、あてはあるの?」
何となく、幸太郎をひとりにさせられなかった優子は、地図と睨めっこをしている彼に 声を掛けた。
「ノープロブレムですよ。最近のネカフェなら仮眠室があるし、いざとなったらファミレスでも カラオケBOXでも、夜明かし出来る場所くらい、幾らだってあります」
「それじゃ、身体が休まらないでしょ。研究室なら、多少はマシな仮眠用のベッドがあるから、一度 大学に戻ったら?」
「入学早々、おじ様に迷惑はかけられませんよ。それに、新しいアパートが見つかるまで、学校 で寝泊りを繰り返す訳にもいかないでしょう?」
「……」
表情の硬い優子を見て、幸太郎は気遣うような笑顔を向けてきた。
「…そんなに心配しなくても、俺は男ですから大丈夫ですよ。幸い、今日の入学式で何人か友達も 出来た事だし、どうしようもなかったら、そいつらの助けを借りようと思ってます」
「幸太郎…」
「──それじゃ、優子先輩。今日は本当に有難うございました」
「……待って!」


ボストンバッグを手に歩き出した幸太郎を、優子は呼び止めた。




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