「私の住んでいる所、部屋がひとつ余ってるの。条件付きで使ってもいいわよ」 (──何を言っているの。犬や猫を飼うのとは、訳が違うのよ?今日会ったばかりの、 それも年下とはいえ男性に対して、そんな軽率な事をしていいの?) (だからと言って、顔見知りになった行く当てのない後輩を、置き去りにするような真 似は出来ないじゃない。これは飽くまで「人助け」よ。…「人助け」なんだから……) 脳裏で呆れ返っている冷静な自分にそう言い聞かせると、優子 は幸太郎の傍へと近づいた。 「……ほ、本当ですか!?」 「ただし、」 驚愕の声を上げた幸太郎を、優子はそっと制する。 「条件付きだって言ったでしょ。来月いっぱいまでに、貴方は新しい部屋を 探す事。そして、住んでいる間は、私の言うルールを守る事。……OK?」 小さく微笑みながら、優子は幸太郎の黒目がちの丸い瞳を見上げる。 すると、それまで何処か沈んでいた幸太郎の表情が、目に見えて輝きを取り戻した。 ボストンバッグが地面に落ちたのも構わず、優子の両手を握り締めてくる。 「有難うございます、優子先輩!……有難うございます!」 「ちょ、ちょっと!何もそんな大げさにしなくても…」 幸太郎の節くれた大きな手が、優子のそれを包み込む。 そこから伝わってくる温もりが、意外に心地良くて、優子は思わず胸を躍らせていた。 優子の住んでいる場所は、駅から少し離れた住宅街の一角にあった。 都内特有の細い路地を幾つか抜けた後、ひとつの住宅の前で優子は足を止めた。 「ここよ」 「あれ?先輩の住んでる所って、アパートじゃないんですか?」 「アパートよ。建物の奥に階段が見えるでしょ?あそこにも部屋があるの」 鍵を取り出した優子は、一見普通の一軒家と変わらない玄関の扉を開けた。 「私の部屋は、元々はアパートの大家さんが暮らしていた所なの。 だけど、大家さんが身体を壊してここを離れる事になって。この部屋も賃貸になった から、借りる事にしたって訳」 「なるほど。そうだったんですか」 玄関で靴を脱ぐと、幸太郎は簡素だが設備の行き届いている内装を、感心し ながら見回した。 「こういう構造なら、女性のひとり暮らしって気付かれにくいから、セキュリテ ィ面も結構安心出来ますね」 「……そうね。だから決めたのもあるし」 背後からの声に頷きながら、優子は2階へ続く階段を上る。 その先に見えた廊下と、ふたつ並んだドアを指差すと、 「奥の部屋がそうよ。ちょっと私の荷物とかもあるけど、あんまり気にな らないと思うわ」 優子に促された幸太郎は、些か緊張しながらドアを開けた。 「うわぁ…」 部屋の角に、優子のものと思しきスーツケースが置かれていたり、冬用のコートや ジャケットがラックにかかっていたが、フローリングの床に敷かれたラグ とセンターテーブル・クッションが、持ち主の趣味の良さを表していた。 「布団はそこの押し入れ。寝る時は、テーブルを移動させて。シーツとカバーは 後で持って来るわ」 「あの…部屋代は…?」 「いいわよ、そんなの気にしなくても」 「ダメです。期限付きとはいえ、下宿させて頂くからには、こういう事はキチン としないと」 先程のトラブルが尾を引いているのか、あるいは彼本来の気質か、主張を曲げない 幸太郎に優子は苦笑する。 「…それじゃあ、食費と光熱費の一部を負担して貰うわ。それでいい?」 「はい!」 「じゃあ、これが鍵。絶対に無くさないでよ」 風呂で疲れを癒した幸太郎を、ダイニングテーブルに坐らせると、優子はカモミー ルティの入ったカップと一緒に、キーホルダーを渡した。 「門限は夜の12時。遅くなりそうな時は必ず連絡をして。連絡がない時は、容赦なく 締め出しちゃうからね」 「判りました」 優子はメタリックブルーの携帯電話から、自分の番号とアドレスを呼び出すと、幸太 郎に送信する。 「部屋の掃除は各自で。トイレとお風呂は一週間交代。洗濯物は、洗濯機に放り込ん でおけば洗っておくから。冷蔵庫の中のものは、基 本的に何でも食べていいけど、下の段に入ってるサプリメント飲料とゼリーは、 絶対に手を出したらダメ」 「やっぱり優子先輩も、年頃の女の子なんですね」 「叩き出されたい?」 「……すみません。失言でした」 テーブルに手をついて頭を下げる幸太郎に、優子は小さく吹き出した。 こんな風に、誰かと談笑交じりに会話するなんて、一体どれくらい久しぶりの 事だろう。 「人助け」だと理由をつけても、自分のした事は、お世辞にも懸命な判断とはいえない。 幸太郎が部屋の鍵を悪用しないとも限らないし、あるいは、優子によからぬ真似を 働くという可能性も否定出来ない。 だけど。 (どうしてだろう…よく判らないけど、彼の事は信用出来る……) あの時。アパート前で、自分に危害を加えようとした男を止めた幸太郎に、 不覚にも優子はほんの少しだけ惹かれた。 理想の男性である片倉とは、比べようがないほど年下の未熟な青年なのに、彼の真っ直 ぐな気性と彼の瞳に、優子の心は揺り動かされてしまったのだ。 (……経緯はどうあれ、自分を助けてくれた人間を、蔑(ないがし)ろには出来ない じゃない。それだけよ) 恩人を放り出すなんて無礼な真似は、伊達家の主義にも人の道にも反する。 それに、幸太郎は実家にいる弟とそれ程年齢も変わらないし、この際、親戚の男の子を 暫くの間預かってると思う事にしよう。 心中で何度も繰り返しながら、優子はややぬるくなったカップに口を付けた。 再び、与えられた部屋に移動した幸太郎は、実家に電話をかけた。 幸か不幸か、両親は旅行で留守にしていたらしく、義姉の稲美(いなみ)が出た後で、 幸太郎が武田と同じくらい敬愛する兄の信太郎(しんたろう)に代わって貰った。 『佐助から、おおよその事は聞いたぞ。災難だったな』 「うん。多分、明日にでも例の不動産屋から連絡が来ると思うから、悪いけどヨロシク」 どうやら、親友である佐助からある程度の説明を受けていたらしく、信太郎はさして 驚いた様子もなく、淡々と幸太郎に話しかけてきた。 『それで、お前は今何処にいるんだ?』 「実は…」 一旦言葉を切った幸太郎は、暫し頭の中で考えを整理する。 「…おじ様のゼミで知り合った、伊達先輩って人の家に、期限付きで間借りさせて貰う 事になったんだ」 『ほう…』 女性である優子の名前は出さないよう努めながら、幸太郎は言葉を続けた。 「アパートに住めないって判った時は、正直どうしようかと思ってたけど…先輩のお蔭で 本当に助かったよ」 『じゃあ、その先輩にお礼と挨拶をしておかないとな。幸太郎、代わってもらえないか?』 「えぇっ!?」 保護者としては、ごく自然な会話の流れだが、兄の発言に幸太郎は狼狽する。 『どうした?』 「いや、それが……何だか先輩、昨日からほぼ完徹でゼミに篭ってたみたいで、さっき寝ち ゃったんだ。俺の事もあって更に疲れてるのに、そんな先輩を起こすのは……」 『…そうか。それなら仕方ないな。幸太郎、くれぐれもその先輩によろしく伝えておいてくれ』 「うん。判ったよ」 どうにか誤魔化す事に成功した幸太郎は、兄との電話を切ると、深く安堵の息を吐いた。 後ろめたい訳ではないが、やはり女性のひとり暮らしの家に、男である自分が厄介になってい る事は、優子の為にも出来るだけ内密にしておきたい。 「優子先輩、弟がいるって言ってたし…きっと俺の事も、同等扱いなんだろうな」 布団に寝転がりながら、幸太郎は壁の向こうにいる優子の事を想う。 一見、ぶっきらぼうで冷たい印象を受けるが、本当は、その名の通り思いやりのある優しい先輩。 「そんな人と、一つ屋根の下で暮らせるなんて……あー…俺、どんどん先輩の事 好きになってくよ……」 身体を襲う疲労と、精神を支配する興奮は、幸太郎が眠りに付くまでの間、ずっと苛(さいな) み続けていた。 |