鷲塚佐助(わしづか さすけ)は、武田ゼミ唯一の院生である。(時折研究室に訪れる 博士課程の片倉は、学部は同じだが、所属するゼミが異なる) 現在は、東京の下町で祖父母と暮らしている彼だが、かつては両親と共に信州上田に 住んでいた時期もあり、真田信太郎(さなだ しんたろう)・幸太郎という「生 涯の友」とも呼ぶべき兄弟と出会ったのも、丁度その頃であった。 「……フム、終了。佐助よ、結果はどうなった?」 互いに疲労の色をその顔に浮かべながら、牽制の視線を交わし合う優子と幸太郎の 姿を横目に、佐助は両手の中にあるカウンターをそれぞれ見比べた。 「えー…集計の結果、優子ちゃんのテキサス訛りは10カウント。ちなみに幸太郎。……お前の コックニー(ロンドン訛り)は23カウント。初めてだからしょうがないけど、もうちょっと 真面目にやれよ」 「……What!?俺、そんなに訛ってた!?」 「ホラ、今のも。『What』を『ウォッ』って言ったろ?お前の発音、コックニーのお約束で『t』 と『h』が抜けまくり。友達と喋る分には構わんが、公式の場では改めないと恥かくぞ」 「ちゃ、ちゃんと喋れるよ!でも、渡された英語の表記が、みんなコックニーなんだもん。 それを引っかからずに、公用語で喋り続けろって方が無理だって!」 「それをあえて可能にする事が、武田ゼミ名物『訛り対決・グローバル編』じゃ。幸太郎よ、 お前もまだまだ修行が足りぬぞ!」 「おじ様ぁ…」 未だ何処か不満げな幸太郎の舌を、武田の一喝が止める。 「──『おじ様』ではない!学内では『教授』と呼ばぬか!」 「は、はい!教授!」 「幸太郎!」 「教授ううぅ!」 「幸太郎おおぉ!」 「おじ様ああぁぁ!」 「違うわ、馬鹿者!」 「ぶぅっはぁー!」 武田ゼミでは、時折このような一風変わった実践授業 を行っている。 今まで優子と幸太郎が行っていたのも、互いに渡された用紙に書かれた地方訛りの英文(そ れも、ご丁寧にアクセント表記まで付いている)を、いわゆる公用語に直しながら読み上げ るというものである。 プレゼミ生である優子たちは、今の所英語対決のみだが、院生の佐助に至っては、第二 外国語まで採用されるので、日頃から言語に関する知識を、常に頭の中に叩き込んでおかなければならないのだ。 ちなみに、教授の武田はあるテレビ番組で、地方出身の芸能人が、いかに訛りを出さずに 話し続ける事が出来るか勝負をしていたのを見て、この実践授業を思いついたらしい。 (それってパク…あ、失礼しました。今は『インスパイヤ』ですね) 「ねえ。あれ…ほっといていいの?」 「大丈夫。昔からだから」 渋面を浮かべて尋ねてくる優子に、佐助はいつもの調子で返事をする。武田と、熱い抱擁とどつき合いとい う名のコミュニケーションを繰り返す幸太郎を一瞥すると、彼は手の中の万年筆を一回転させた。 来月に迫った学会に、武田の助手として同行するので、その書類を纏めているのである。 「それにしても、だいぶ優子ちゃんも、武田ゼミに慣れて来たじゃないか」 「そりゃ毎日、こんな破天荒な授業を受けてればね」 「どうだい?幸太郎と対戦してみて」 「……流石、本場で留学経験した人間は違うわね。単に発音だけなら、悔しいけど完璧に彼の方が上だわ」 「へぇ…」 「まあ、勝負は勝負だから、私の勝ちに変わりないんだけど」 幸太郎の実力を認めてはいるものの、やはり彼に負ける事をよしとしないのだろう、優子は腰に手を当てると 軽く鼻を鳴らす。 「アイツの前じゃとても言えないけど、最初は優子ちゃんも物凄い『訛りカウント』を稼いでたからね」 「……言ったら、ただじゃおかないわよ」 「言わないよ」 照れ隠しに凄んだ優子の視線の先に、佐助の持つ万年筆の輝きが映った。 「…あら?意外に良いもの持ってるのね」 少々型は旧いが、上質とおぼしき佐助の万年筆に興味を覚えた優子は、彼の手からそれを器用に取り上げる。 「コラ、返せ」 すると、いつもの佐助からはあまり想像の付かない厳しい声と共に奪い返してきた。 「ご、ごめんなさい」 「あ、いや。こっちこそゴメン。…でも、これは俺の宝物だから」 驚く優子に、佐助はいつもの軽口に戻ると、軽く謝罪した。 「そういえば、鷲塚って公式の文章や大切な書類だけは、必ず直筆よね。パソコンの方が楽なのに」 「ん。そういったものを書く時はコレって、決めてるんだ」 「何処で買ったの?」 「これは貰ったんだ。…俺の大切なダチに」 相変わらず、武田と周囲ドン引きの遣り取りを続けている幸太郎に一瞬だけ視線を走らせると、佐助は 手の中の万年筆を握り締めた。 佐助は、転勤の多い父親の元で、小学校1年から中学卒業までの間を、信州の上田で過ごしていた。 『佐助だって。カッコいい。まるで忍者みたいだね』 転校生というだけでも目立つ存在に加え、幼い頃から揶揄の対象でしかなかった自分の名前を、ひとりの 少年は、そう言って褒めてくれたのだ。 少年の名は、真田信太郎。 上田一帯にその名を馳せる真田家の長男坊だが、それを鼻にかけない気さくな態度と、優しい性格 を併せ持つ信太郎の「僕と友達になってよ」という申し出に、佐助は喜んで己の右手を差し出した。 それからふたりは、お互いの家へ遊びに行ったり、近所の山へ秘密基地を作ったり、そこで将来の夢を語り 合ったりしながら、子供らしくも着実に友情を育んでいった。 程なくして、信太郎の家に弟の幸太郎が生まれた時は、我先にとお見舞いに出掛け、お包みの中でスヤスヤと 寝息を立てる赤ん坊の幸太郎を、眩しそうに眺めていた。 やがて、幸太郎が大きくなり、ふたりの輪の中に加わるようになってからは、3人で一層の友情を深めていく事となった。 『佐助。お前は、幸太郎のもうひとりの兄貴だ。俺がコイツの傍にいられない時は、どうか お前が守ってやってくれ。頼んだぞ』 『たのんだぞー!』 『はいはい、任されましたっと』 兄弟のいなかった佐助は、信太郎の言を、迷う事無く快諾した。 当時の佐助にとって、信太郎と幸太郎は、何にも代え難い大切な宝物だったのだ。 ところが、そんな平穏だった日々は、思わぬ形で幕を閉じる事となる。 志望していた高校へどうにか合格し、後は卒業式を待つのみだった中学3年のある日、佐助の家庭を 不幸な事件が襲ったのだ。 その頃、佐助の教育や進学の事情等で、彼の父親は単身赴任の形で仕事に就いていたのだが、長い間 家族と離れての孤独な生活は、父親の心の隙間を広げる結果となってしまった。 赴任先の女性と男女の関係になってしまった父親から、離婚届が送られてきたのだ。 突然の事に、佐助も母親も取り乱し、頑として離婚には応じない姿勢を取り続けていたが、更にそれ に追い討ちをかけるように、相手の女性の妊娠が発覚。憔悴し切った母親は、離婚届を提出すると、佐助を東京 の祖父母の所へ向かわせた後で、自らの命を絶ってしまったのだ。 僅かの間に、父親と母親をいっぺんに失った佐助は、決まっていた高校への進学を断念、信太郎・幸 太郎にロクに別れの挨拶も出来ないまま、東京の祖父母の元で暮らす事になった。 だが、いくら理屈では判っていても、不条理に愛する娘を失った彼らから、「娘を不幸に 陥れた男の血が混ざっている」佐助への風当たりは、決して良いものではなかった。 そんな彼らから援助を受けるのはしのび ない、と考えた佐助は、高校には行かず、アルバイトなどで生計を立てながら、なるべく祖父母に負担を かける事を避けていた。 (お金を貯めて、18になったらここを出よう) そんな決意を胸に、佐助は3年の間、脇目も振らずに働き続けていた。 だが、そんな佐助の決意を嘲笑うかのように、運命の女神はまたしても彼に過酷な試練を与えた。 18歳の誕生日を間近に控えたある夜。 それまで、佐助に嫌味を言わない日はないくらい元気だった祖母が、突然病に倒れたのだ。 処置が早かった為に一命は取り留めたものの、後遺症の残った彼女の身体は、介護の必要を余儀無くされた。 散々、自分にきつく当たってきた祖母だったが、佐助にはそんな彼女と、同じく年老いた祖父を見捨 てて出て行く事は出来なかった。 なんだかんだいっても、その気になれば施設に放り出す事の出来た自分を、住まわせてくれた。 母に死なれ、父親も自分の元から去った今、佐助にとって「家族」と呼べる者は、この老夫婦以外にいなか ったからである。 どうしようもない自分の境遇を呪いつつ、佐助は半分自暴自棄になりながら、惰性に日々を過ごしていたが、 そんな彼の前に思わぬ人物が現れた。 『佐助!やっと会えた。すまない、遅くなって!』 それは、高校3年になった真田信太郎であった。 大学の推薦入試を受ける為に上京してきた彼は、そのついでに佐助に会いに来たのである。 3年の月日を経て、更に誠実な青年へと成長していた信太郎の姿は、佐助には眩しくて、そして疎ましくもあった。 当て所なくさ迷っているだけの今の自分を見られたくなくて、佐助は信太郎を追い返そうとしたが、 信太郎は、そんな親友の心の機微を見逃さなかった。 『お前が、本当に今の自分に満足しているのなら、俺は何も言わない。だけど、俺は大切な友達が 苦しんでいるのを、黙って見過ごせないんだ』 『誰がそんな事頼んだよ!もう、俺の事はほっといてくれ!』 『放っておけるか!お前のそんな姿、俺が素通り出来るとでも思ってるのか!?』 東京での入試を危なげなく終えた信太郎は、有無を言わさぬ力で、佐助を信州上田の真田家へ連れ帰った。 小学校高学年になっていた幸太郎に「何で、今まで連絡をくれなかったんだ」と散々泣き付かれた後、佐助 は信太郎と一緒にかつて秘密基地を作って遊んだ山まで足を運ぶと、自分の本当の気持ちを吐露した。 『──俺、勉強がしたいんだ』 何年もの間、堪え続けていた感情を涙と一緒に零し続ける佐助に、親友は黙って頷いていた。 その後、信太郎や彼の屋敷に学術調査の為に訪れていた武田に諭されて帰京した佐助は、初めて祖父母に自 分の希望を述べた。 すると祖父母は、まるでその言葉を待っていたかのように、これまで佐助にしてきた仕打ちを詫びると、自 分達の出来る範囲で、彼の夢に協力する旨を約束してくれた。 バイトの傍ら、3年がかりで通信制の高校を卒業した佐助は、21歳の時に戦国大学文学部に無事入学を果た したのである。 戦国大学の入学式を終えて、家に帰ろうとする佐助を、信太郎と幸太郎の兄弟が、門の前で待っていた。 「どうしたんだ?信太郎はともかく幸太郎、お前まで」 「お祝いに来たのに、それはないだろ?」 はい、と幸太郎に渡されたプレゼントを開けると、中から出てきたのは、ディープグリーンのボディ に包まれた、イギリス製の万年筆であった。 「佐助。幸太郎のヤツが『これからは、俺も兄さん達と対等な関係になりたい。いつま でも子ども扱いは嫌だ』って、生意気言って来てな。少ない小遣い貯めてお前の為に買 ったものなんだ。受け取ってやってくれないか?」 軽口を利きながら、それでも弟を何処か誇らしげに見据える信太郎に、佐助は嬉しそうに頷くと、 幸太郎の身体を抱き寄せた。 いつの間に、自分とそんなに身長が変わらなくなった弟分に内心驚いていると、その弟分が、佐助の目を真 っ直ぐ見上げてくる。 「俺、もう決めたんだ。大学は、武田のおじ様と『佐助』がいるここにする。そうしたら、兄さんが 卒業して上田に帰った後も、寂しくないだろ?」 「おいおい。お前が現役で入れたとしても、俺は4年終わって卒業してるぞ?」 「大丈夫だよ。きっと佐助の事だから、俺が来るのを待っててくれるに決まってる」 「──バーカ!言ってろ!」 だが、そんな幸太郎の言葉に、佐助の胸が仄かな期待に弾んだのは、紛れもない事実であった。 信太郎が、大学を卒業して真田家を継ぐ為に上田に戻った現在、佐助にとって幸太郎の方が身近な存在 となって来ている。 親友に頼まれた大切な弟。 だが、その「弟」分の時折見せる何気ない仕草は、かつての信太郎を髣髴とさせる所もあり、いつの間 にか信太郎と並ぶ「もうひとりの親友」になりつつあるようだ。 「…まあ、もう暫くくらいは『弟』でいて欲しいモンだけどな……」 「──何か言った?」 「いや、別に」 そう尋ねてくる優子に首を振ると、佐助は再び万年筆を走らせた。 |