この頃、戦国大学文学部の武田研究室は、珍しいほどの静けさを保っている……一部 を除いて。 「うぅ〜…未だあるんですかぁ…?…」 「ムダ口を利ける暇があるなら、余裕のようだな。次は、これだ」 「……No way(ありえない)!もうやだよぉーっ!おじ様ああぁぁっ!」 「黙りなさい。それと、学内では武田教授をそう呼ばないように」 教授の武田が、院生の佐助を伴って地方の学会に出掛けている間、文学部の非常勤 講師である毛利就明(もうり なりあき)が、武田の代わりに書類や文献をまとめていた。 その際、武田から自分のいない間、幸太郎を鍛えるように言われていた毛利は、忠実すぎるほどそれを 実行に移していた。 英文で書かれた文献の山を、毛利は幸太郎と一緒に翻訳・解説の書類を作成し続けているのだ。 幾ら英語に通じているとはいえ、長時間にも及ぶ地道な作業を続けていれば、未だ学生の 幸太郎が根を上げるのは当然である。 「…あーらら、かわいそ。手伝ってやんないの?」 彼らから少し離れたデスクにだらしなく腰掛けながら、経済学部3年の長曾我部元子(ちょうそ がべ もとこ)は、隣の優子を軽く肘で小突いてきた。 「何言ってるの。幸太郎という新入生を鍛える為に、先輩として見守っているのよ」 「とか言って。ホントは面倒臭いだけのクセに」 「……うるさいわね。アンタこそ、部外者のクセに、ナチュラルに研究室に溶け込んでんじ ゃないわよ」 「いいじゃない、別に。私、噂の『幸太郎くん』とやらを、一回見てみたかったのよ」 優子にとって元子は、数少ない友人である。 戦国大学に入学したばかりの頃、その美貌故か、ひっきりなしに合コンやサークルの勧誘 を受けていた(殆ど歯牙にもかけず、無視を貫いていたのだが)優子は、同時に女子学生 からのやっかみも受けていた。 面と向かって抗議すれば良いものの、女性特有の陰湿な嫌がらせまでされるようになり、 ある日、運動部倉庫に閉じ込められそうになった優子の窮地を救ったのが、当時2年生なが ら、既にチアリーディング部の主将を務めていた元子であった。 「……誰も、助けてくれだなんて言ってないじゃない」 「へーへー、さようでございますか。でも、沈黙が美徳とされるのは、日本のごく限られた場所 だけよ。アンタも英文専攻なら、グローバルな世界でもちゃんと意思疎通出来る術くらい、身 に付けておくのね」 加害者の女子学生たちを一喝する一方で、元子はロクに拒絶の意思表示をし なかった優子にも原因の一端はある、と指摘した。 それまで、どちらかというと「お嬢様」で、周囲からも腫れ物に触るような扱いしか受けてい なかった優子にとって、元子というタイプの女性は初めてだった。 結局、その場は険悪な別れ方をしたものの、その後何故か学部の異なる筈の彼女と顔を合わせる 機会が多くなり、付き合っていく内に、優子は裏表のない彼女の事が好きになった。 同様に元子も、優子の事を気に入ったらしく、いつしかふたりは「心の友と書いて親友」の 間柄になったのである。 「しっかし、浮いた噂ひとつないアンタが、どうしちゃったの?あの片倉さんですら、満足 にアパートに上げないクセに、いきなり年下を囲っちゃうなんて♪」 「囲っ…ち、違うわよ!アレは、新しいアパートが見つかるまでの救済措置よ!」 予想以上の優子の慌てぶりを見て、元子はアクの強い笑みを浮かべる。 「幸太郎は、実家の弟と似たようなモンだし…そ、そう。私のなけなしの『母性本能』が 働いたってヤツ」 「母性本能?私は、そうは思わないけど」 優子の言葉を聞いた元子は、半泣きで書類と格闘している幸太郎に視線を移す。 「アンタがどう思ってんのかは知らないけど、私は彼に男特有の魅力は感じても、母性本能は 擽られないなあ。それなら寧ろ、鷲塚先輩の方が『守ってあげたい』って気持ちになるわ」 「え…」 「それに実の所、ウチの新入生たちの間でも、幸太郎くんって結構人気あるのよ。中に は、思い切って告白したコもいたみたい。断られちゃってたけど」 瞬間、優子の胸にズキリ、と仄かな痛みが走った。 自分にとっての幸太郎は、武田の愛弟子で愚直な所もあるが、いつも自分や誰かに真摯な態度 で向き合う可愛い弟分である。 ──その筈である。 なのに、どうして元子の話に、ここまで動揺してしまうのか。 自分は幸太郎という人間に、異性として魅力を感じ始めているのか…? (…違う。弟に浮いた話が出た時に、面白くなくて嫉妬する姉の心境よ。来月になれば、 幸太郎はウチを出て行くんだし。私には、片倉が……) そう思い始めた優子だったが、途中で虚しくなってきたので止めた。 片倉との事は、所詮最初から報われる事のない片思いである。 いっその事、誰か他に好きな異性でも出来れば、楽になれるかも知れないが、なまじ 片思いの相手が相手なだけに、彼以上に魅力の感じる男性がいないのだ。 でも、今は…… 「……子。優子!」 元子の呼びかけに、優子は慌てて我に返った。 「どうしたの?ぼーっとしちゃって」 「……何でもない」 「…ま、いいけどね。ただ、理想を崇拝し過ぎた挙げ句、気が付いたら誰もいなくな った…なんて、寂しい負け犬人生だけは歩まないようにね」 「よ、余計なお世話よ」 呆れ返った様子でこちらを見ている元子を避けるように、優子はぶっきらぼうに答えなが ら、机に向かう。 「それに…幸太郎くん、アンタが思ってるよりずっといい男よ。アイツと出会う前だ ったら、私も彼にモーションかけちゃったかも」 「──え!?」 語尾の跳ね上がった親友の声を聞いて、元子は面白そうに笑う。 「だから、誰にも取られたくないんだったら、今の内にしっかり捕まえておきなさい。 じゃあ、私そろそろバイトだから行くわ」 椅子から立ち上がった元子は、こちらに気付いて会釈してきた幸太郎に手を振ると、バ ッグを肩にかけた。 「バイトって、あそこ?」 「そっ。見かけによらず体育会系なトコだから、性に合ってんのよ。…誰かさんは辞め ろ、ってうるさいんだけどね」 元子のバイト先は、胸を強調させたウェイトレスの制服で有名な、某レストランである。 含んだ物言いをする彼女の背中に、何処からともなく厳しい視線が向けられたが、それに 気付かないふりをしながら、元子は研究室を出て行った。 残された優子は、いつの間にやら冷めてしまったカップに口を付け、幸太郎は、相 変わらず辞書その他と睨めっこで作業を続けていたが、 「今日はここまでにしよう。真田くん、後は君ひとりでも出来るな?」 「え?…ええ。これくらいなら何とか」 突然の毛利の言葉に、幸太郎は目を丸くさせた。 「よろしい。では任せたぞ。終わったら、纏めたファイルを私のPCに送ってくれ。帰る時 には、戸締りを忘れないように」 「判りました」 言うが早いが、毛利は支度を整えると、足早に研究室の扉に向かう。 扉を開けた所で、何かを思い出すように、毛利は幸太郎を振り返った。 「話は聞いていたが…君は思った以上に見所のある学生だな。教授が君を気に入って いるのも、判る気がする。今後も、その調子で頑張りたまえ」 辛うじて判るくらいの笑みを、その端正な口元に浮かべた毛利は、入室してきた時 とは対照的な靴音を響かせながら、研究室を去っていった。 ふたりきりになった優子と幸太郎は、どちらともなく互いを見つめあう。 「な、何か用?」 「い、いいえ」 精一杯、平静を装った筈の優子の声は、何処か音が外れていたが、それに気付かないほ ど、幸太郎の返事もいつもより上ずっていた。 「元子先輩って…何か、気さくなお姉さんって感じで、いいですよね」 気分を変えようと、幸太郎は努めて明るい声で優子に話題を振ってきた。 「……言っとくけど、元子は付き合ってる人いるわよ」 親友を褒めて貰うのは嬉しいが、反面、どうも煮え切らない思いを隠しつつ、優子は やや憮然とした顔で返事をする。 「ああ、判ります。毛利先生でしょ?さっきも作業しながら、時折チラチラ元子 先輩の事見てましたから」 「え?」 「…ひょっとして違ってましたか?」 「う、ううん。正解…」 幸太郎の意外な観察力の良さに、優子は改めて表情を引き締めた。 今は未だ、彼に対する自分の微妙な思いを、悟らせてはならない。 自分の中で、ある程度気持ちの整理が付くまでは。 ──だけど。もし、幸太郎が他の誰かに惹かれた時に、自分はどうすれば良いのだろ うか…… 「優子先輩?」 気遣わしげにこちらを覗き込んで来た幸太郎に、優子は自分の鼓動が跳ね上がるのを感じる。 「きゅ、急に近付かないでよ!ビックリするじゃない!」 「す、すみません!」 照れ隠しに大声を出すと、幸太郎はバカ丁寧に頭を下げてきた。 そんな自然な彼の様子に、優子は内心有難いと思う。 「毛利先生に長時間しごかれて、流石に疲れたんじゃないの?冷蔵庫に取って置きのチョコケ ーキがあるから、一緒に食べましょう。しょうがないから、手伝って上げるわ」 「い、いいんですかぁ!?」 「その代わり、帰ったらお風呂の掃除、ヨロシクね」 「了解っス!」 幸太郎には悪いけど、当分は『先輩』・『恩人』の立場を隠れ蓑に、彼の好意に甘えさせて貰おう。 いそいそと紅茶の支度を始めた幸太郎を盗み見ながら、優子は少しだけ厚めに、彼の分のケーキを切り分 けた。 |