長曾我部元子(ちょうそがべ もとこ)は、経済学部の3年生である。
文系の専門教科を履修している訳ではないので、本来文学部の武田ゼミに関 係ない筈なのだが、頻繁に研究室を訪れて来る。

「ハーイ♪皆、元気?」
「あ、元子先輩。こんにちは」
「よぉ、元子ちゃん。毛利先生ならまだ来てないぜ」
5月の爽やかな外の陽気に相応しい快活な声と共に、研究室の扉が開いた。
そこから現れた人物を認めた幸太郎と佐助は、慣れた調子で返事をする。
「やーだ、やめて下さいよぉ。鷲塚先輩の方が、アイツより年 上じゃないですかぁ」
「でも俺は、現役の皆より遅れて学校入ってるし。武田センセのゼミ生だった 頃から、毛利先生は他のどの先輩よりも、ずば抜けて優秀だったからね」

佐助の言うとおり、毛利就明(もうり なりあき)は、戦国大学を首席で卒業する程の 秀才であった。
それは、「大学院へ進むよりも、講師として後進の指導に あたってみる気はないか」と武田に言わせるまでに至り、卒業と同時に母校の文学部の 非常勤講師として教鞭を執る事になったのである。
それまで講義室の同じ場所にいたかつての先輩(又は、同級生)の講師としての姿に、 当初戸惑いを隠せなかった学生は少なくなかったという。

「あ、また部外者が来てる」
棘の含んだ声に続いて、優子が大股に歩を進めてきた。
均整の取れた体型と女性特有の魅力に富んだ優子に、その優子よりも長身で チアリーディングで鍛え上げられた、グラマラスな肉体を誇る元子が並ぶと、一気に 周囲の空気は華やかなものになる。
「優子、丁度よかった。こないだウチに、晴れ着屋のDM(ダイレクトメール)来てたのよ。 何でも成人式用の振袖の展示会やってるんだって。一緒に行かない?」
「振袖?アンタ、持ってなかったっけ?」
「実家に誂(あつら)えて貰ったのはあるけど、最新のデザインも出るっていうから。 入場自体は無料だし、私、あのデザイナーの着物、試着してみたいのよ」
「ふーん…」
気のない返事をしつつも、実は満更でもなさそうな優子と、ウキウキと瞳を輝かせている 元子の表情に、暫し見とれていた幸太郎だったが、はた、とある疑問に気が付いた。
「…元子先輩って、3年生ですよね?だったら、成人式はもう済ませてるんじ ゃないですか?」
「あ、そうか。幸太郎くんには話してなかったっけ」
幸太郎の問いに、元子は顔を上げて彼を見つめ返す。
まるで、彼女の力そのものの様な躍動感溢れる瞳に、幸太郎はつい吸い込まれそう になった。
「元子ちゃんは、学年こそ3年生だけど、年齢は優子ちゃんと同じなんだ。つまり、俺と逆」
「へぇ…日本でも『飛び級制度』はたまにあるって聞くけど、珍しいですね」
「だから、私が元子にタメ口をきいているのは、別に尊大な後輩が、人格者の先輩に暴言吐いてる 訳じゃないからね」
「……誰もそんな事思ってませんよ」
噛んで含むような優子の言葉に、幸太郎は口元を綻ばせる。
すると、ふたりの傍にいた元子から、思い出し笑いが聞こえてきた。
「?何よいきなり」
「あ、ううん。ちょっと昔を思い出しちゃって」
「昔?」
「そっ。過去にも私の『飛び級』に、驚いた人がいてね……」

脳裏に浮かんだとある男性の姿に、元子はもう一度笑声を漏らした。


2年前。

四国から上京して戦国大学に入学した元子は、憧れの東京でのキャンパスライフに、その胸を 更に大きく期待に膨らませていた。
高校時代から続けていたチアリーディングを、大学でもやろうと入部した元子は、程なくして 「チア部期待の新人」として、部内をはじめ、応援先の体育会系の部員達の注目を集めるようになった。
そんなある日。
いつものように、運動部の応援に向かおうとしていた矢先、慌てていた元子はひとりの 学生とぶつかってしまった。

「す、すみません!ごめんなさい!」
「……」

アタフタと謝罪する元子に目もくれず、道着を身に纏ったその男子学生は、無言で足元に散らばった矢 筒と、布に包まれた和弓を拾う為に上体を屈める。
「あ、て、手伝います」
「触らないでくれ」
手を伸ばそうとした元子を、硬質な男の声が止めた。
黙々と自分の荷物を拾い上げる男の、近寄りがたい雰囲気に呑まれ、元子は微動だに出来ずに その場に立ち尽くしてしまう。
気まずそうに視線を遊ばせていると、男の手の甲に僅かだが出血しているのを見つけると、思わず 声を張り上げた。
「怪我してるじゃないですか!大丈夫ですか!?」
女性にしては明らかに大柄な部類に入る元子に詰め寄られ、男はほんの少しだけ瞳を細める。
「只のかすり傷だ。大袈裟に言うほどのものでもない」
「でも…あなた、弓道部の人ですよね?弓手(ゆんで)に傷負って、競技に影響したら……」
「私が、大丈夫だと言っているんだ。そういう君は、チアリーディングの部員だろう。急いだ方が いいんじゃないか?」
言いながら、荷物を拾い終えた男は、元子から背を向ける。
元子は、暫しその背中を見つめていたが、
「待って下さい」
再び男に近付いた元子は、ユニフォームのポケットから、絆創膏を1枚取り出すと、男に手渡した。
「あの…私達チア部は、弓道部の応援には行かれませんが…それでも…心の中では応援してます。 だから…頑張って下さい!」
ペコリと頭を下げた後で、元子は気恥ずかしいのと時間が迫っている焦りとで、脱兎の如く走り 去っていった。
訳が判らず、残された男は、手の中の絆創膏を胡散臭げに見やる。

「……これを私に付けろというのか、君は」

その後、道場で他校との練習試合をしていた戦国大学弓道部は、文学部4年の毛利就明による皆中 (かいちゅう:20本の枠で20連発で的にあてる事)に、恐れ戦く事になる。
彼自身の実力もさる事ながら、一体その左手甲に貼られたリラ○クマの絆創膏は、何のまじないか嫌が らせなのかと、暫くの間部員達のもっぱらの噂になっていたらしい。




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