『洗濯(後編)』



その日。小隊のメンバーは、廃材を手にした芝村の姫君の姿を、何度 も見かける事になった。
水道場で自分の身長にも匹敵するドラム缶の汚れを洗い流し、穴が開 いている箇所を念入りに溶接して塞いだ。そして、幾重かに張り合わ せた板を釘で打ち付けると、女子高の工具室から借りてきた電動鋸で、 大きな丸型に切り取る。
巨大なドラム缶を何の苦もなく担いで屋上の階段を上がる彼女の姿は、 まさに「漢らしい」という形容詞が良く似合っていた。


原がすべての仕事を片付けると、仕事終了時間を3時間もオーバーし ていた。
相変わらず自分に反発してくる整備士達にそれでも指示を与え、書類を 小隊長室に届けた頃には、大半の生徒たちが学校を離れていた。
疲労しきった身体を動かしながら、原はデスクの荷物を整頓すると、 ハンガーを出る。

「……すっかり遅くなっちゃったわね」
こうやってひとりで仕事場を後にするのは、今日で何日目になるのだ ろう。
自らが招いた結果とはいえ、心の内の物寂しさが、やはり何処かで原 を苛んでいた。
「芝村さんは、まだ待っているかしら?…そんな訳ないか」
そう独り愚痴ながら、原は教室の私物を取りに行こうと、プレハブに 足を進めた。
階段の手すりに手を掛けた時、ふとプレハブの屋根から煙のようなも のが上っているのが見えた。
「…何かしら。まさか、火事?」
訝しそうに煙を見つめながら、原は屋上へと急いだ。その長い脚をせ わしなく動かすと、プレハブの階段を1段抜かしで駆け上がる。
普段では考えられないほど機敏な動作で、原が青い屋根の上に足を踏 み出すと、

「───待っていたぞ」

……そこには、湯気を立ち込めたドラム缶のそばで、舞が微笑みなが ら立っていた。
「芝村さん…それは?」
原は、呆気に取られながらドラム缶を見つめる。
「シャワールームが完成するのは、明日からだ。今日は、こちらで汗 を流してはどうかと思ってな」
そう言って、舞は傍らのドラム缶を指差した。
原は近寄ると、ドラム缶を凝視する。屋根に火が及ばないようにブロ ックと盛った土で台を作り、その上に湯を張ったドラム缶が、倒れな いようにきちんと固定されていた。何気なく手を伸ばして中の湯を確 かめると、ちょうど良い温度になっている。
それはまるで、人間が入浴するのに最適な水温に。
「悪くない話だけど…裸で入るのはちょっと……」
身体に染み付いた汚れと汗を流せるのは魅力的だが、カーテンも仕切 りもない屋上でドラム缶風呂に入るのは、やはり女としてはためらわ れる。
「ならば、水着で入るというのはどうだ?火加減と見張りを兼ねて、 私も傍にいるが」
舞の言葉に、原は少しだけ考える。もう夜も遅いし、誰もいない学校 でこのような形で汗を流していくのも、たまには良いかもしれない。
「…そうねぇ……」
原は呟くと、やがて小さく頷いた。


原は、自分の荷物を持って女子トイレに行くと、個室の中で水着に着 替えた。
そして、もう一度制服を着込むと(流石に水着のままでは外に出られ ないので)、舞の待つ屋上に戻ってきた。
「中の板を踏むようにして入れば、火傷をしない。湯加減はどうだ?」
「……もう少し熱いと嬉しいんけど。お願いしても良いかしら?」
「──判った。任せるがいい」

原の言葉に、舞は用意しておいた薪を追加した。火の勢いが少し強く なる。
学兵用宿舎よりも狭い風呂であったが、程よく熱い湯に全身を浸した 原は、心地よい息を吐いた。
「…いい気持ち。こんなに落ち着いたのは、何日ぶりかしら」
ぱしゃりと水音を立てながら、原は湯を肌に浴びる。
「明日からのシャワー室も待ち遠しかったけど、こういったレトロな お風呂も、かえって贅沢よね」
「そうかもしれぬな」
「…でも、何だか私ばかり悪いわね。あなたはいいの?」
「私は後で入る。ちなみに私は、ぬるい湯の方が好きなのだがな」
わざとおどけたように答えた舞に、原は小さく笑った。その笑顔を見て、 舞は口元を綻ばせる。
「…やっと、数日分の険が洗い流されたようだな」
「──え?」
「今、そなたはとても良い表情をしている」
「……」
原は舞に視線を移した。舞は、そんな原に薄く微笑むと上を向いた。 原も、舞につられて顔を上げる。

「──あ…」
そこでは、あまたの星たちが春の夜空を彩っていた。美しいその光景に、 原は瞳を輝かせた。
「綺麗…」
原は目を細めると、うっとりと夜空の星を見つめる。暫く時間を忘れて 見入っていたが、ふと視線を戻すと、再度舞を仰ぎ見た。
「……あなたが私に見せたかったのは、これだったの?」
「この頃のそなたは、下を向いてばかりいたからな」
腕を組みながら、舞は首を縦に振った。優しくこちらを見つめてくるヘ イゼルの瞳に、原は何故だか胸が高鳴るのを覚えた。
思わずこみ上げてきたものを隠すように、慌しく顔を洗う。
舞は、無言でその様子を眺めていた。


湯の温度が安定するように、舞は再び薪の量を調節する。

「…私ね。昔、善行くんと付き合っていたの」
湯の中でタオルを風船のように膨らませながら、原は言葉を切り出した。
「私、ここに来る前にはある機研にいて…その時に彼と知り合ったの。 あの頃の私は、恋なんてロクに知らない子供で…だから、彼に捨てられた 時は、ショックで暫く立ち直れなかった。まるでこの世の終わりのような 気になって……笑っちゃうわよね」
原はそう言うと、タオルを湯船に沈ませる。細かな気泡が、水面にシュワ シュワと浮かび上がった。
「だから、ここに来てもう一度彼に会って…動揺したわ。彼にとって私は、 もう過去の女かも知れないけれど、私はまだあの人を忘れられないでいた から。何でもないように振る舞おうとすればするほど、心は騒ぐ一方で… そんな彼は、あの子に……石津さんに近づいていた」
「……」

善行が石津に近づいているのには、理由がある。
舞はそれを知っているが、事情が事情だけに、周囲に説明する訳にはい かなった。
理由が判れば、あるいは善行が石津に異性として近づいていたのならば、 原もまだ諦めが付いたのかも知れない。

「あんな子のどこがいいの…正直、そう思った。どう見ても、彼女が魅 力的な女性には見えなかったから──馬鹿よね。くだらない嫉妬で、あ んな事するなんて…本当は判ってたの。こんな事したって、虚しいだけ だって。でも、彼と一緒にいる石津さんを見る度に、私の中で醜い想い がこみ上げて……」

振り絞るように声を出す彼女は、整備班長という肩書きも、百翼長とい う階級もない、普通の少女の顔をしていた。
捨て切れない思いを抱いている最中に、過去に自分を捨てた男が目の前 に現れ、あまつさえ自分以外の異性と一緒にいる所を目の当たりにして、 平静を保てる女はいるだろうか。
勿論、それが石津にした仕打ちへの免罪符になる訳ではないが、原もま た、自分のどうしようもない思いに苛まれ続けていたのだなと、舞は考 えていた。
「───だからね、」
原は、湯の中に沈めていた手を、勢いよく水面から伸び上げた。
翻った彼女の右手から、水滴が春の夜空に舞い上がる。
「あなたに皆の前で石津さんの事を咎められた時、恥をかかされて悔し かったのもあったけど…本当は、心の何処かでホッとしたの。まるで子 供が、親や先生にいたずらを怒られたような感じかしら…見つかってよ かった、止めてもらえてよかった…って」
「…そうか」
「ええ」
原は頷くと、もう一度顔を洗う。すべての汚れを落とした彼女の表情は、 普段化粧で彩られたものとは、又違った美しさを醸し出していた。

「───私、決めた。明日、ちゃんと彼女の所に行く」

自分自身に言い聞かせるように、原はすっきりした顔で決意を口にし た。
「…ありがとう、芝村さん。私に気づかせてくれて」
「私は、別にそなたに礼を言われる様な事はしておらぬが」
「──相変わらずね」
舞の態度に笑みを浮かべながら、原は再び夜空を見上げた。
「あ、流れ星!」
その時。星空の塊から、ひとつの流星が曲線を描きながら落ちていった。
「どこだ?」
「判らなかったの?あそこよ。──あ、ほら!また光った!」
舞の返事をよそに、新たな流れ星を発見した原は、思わず身を乗り出す。
すると、

「うわーっ!」
屋上の近くに立つ大木から、突然ガサガサ、パキパキという音が聞こえ てきた。
続いて、屋根の上に複数の影が、折り重なるようにボトボトと落ちてく る。
「!?」
原と舞のふたりは、弾かれたように影の山を見つめた。そこにいたのは、

「バッカヤロー!急に動くなよ!あぶねーじゃねーか!」
「そげんこつ言われても、絶好のシャッターチャンスだったばい」
「も、素子さん…素敵だ……」
「……キャーッ!」

滝川、中村、若宮の3人の闖入者に、原は甲高い悲鳴を上げた。
「何をしているか、この不届き者どもがーっ!」
舞は眉を吊り上げると、懐から愛用の小太刀を取り出し、出歯亀3人衆に 踊りかかる。
逃げようにも逃げられない原は、舞が滝川たちを追い払うまでの間、 湯船の中に頭まで潜り込んでいた。


「…許してくれなんて、ムシのいい事は言わないわ。ただ、今までの事 を謝りたくて。…本当にごめんなさい」
翌朝。HRが始まる前の1組の教室に現れた原は、反射的に脅えている石 津の前まで歩み寄ると、神妙な態度で頭を下げてきた。
そして、思わぬ出来事に呆気に取られている善行にも小さく会釈をする と、そのまま悠然と去っていった。

「どーいう風の吹き回しだ?あの原班長が石津に頭を下げるなんて」
「信じらんなーい!ボク、度肝抜かれたよぉ」
「…いーんじゃねぇの?侘び入れたんならそれで。ムカつくだけの女か と思ったけど、ちゃんと一本筋が通ってるじゃねぇか」

プライドの高い彼女が観衆の前で頭を下げる姿は、学兵たちにある種の 衝撃を与えていた。
だが石津の、
「もう…いいの。…あのひとの…目は…嘘を付いて…いなかった…から …」という言葉で、今回の件はこれまでという事になった。


一皮剥けて成長した原に、整備士たちも漸く素直に従うようになった。
「相変わらず暑いですねえ…でも、今日からシャワー室が使えるからい いか。夜までの辛抱ですね」
工具箱を手渡しながら、森が原に話しかけてくる。
デスク前のホワイトボードにメモを貼り付けていた原は、小さく肯定の 返事をしたが、少し考え込むように腕を組み直すと、何処か悪戯めいた 口調で、ハンガーの階段に向かって声を上げた。
「──でも、シャワーもいいけど、星空の下で入るお風呂も最高よね。 そうでしょ?」
すると、間髪いれずに、
「──そうだな」
笑いを含んだ声と一緒に、ハンガーの2階から、舞が顔を覗かせてきた。


一部であまりにも強い原さんバッシングに疑問に思って書いた話。
勿論いじめは悪い事だけど、彼女にも何かしらの心の葛藤があった筈…と、 考えています。
現実の世界では難しいかもしれないけど、こういった世界でくらいは、彼 女にも萌ちゃんにも、そして皆にも幸せになってほしいと私は思うのです が(苦笑)



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