『賢者の試練・マリアと、洋琴の守り人』 『マリア』の充実した連休は終りを告げ、再び『礼緒』にとって退屈な日常が始まった。 そろそろ冬服だと暑くなってきたな、と考えながら学校までの道を歩く私の背後か ら、珍しく定刻通りに登校しているルカくんが声を掛けてきた。 「おはよう、礼緒ちゃん」 「あ、おはようルカくん。早いね、今日は」 「まあね。一緒に行こうよ」 人懐っこい声で誘われた私は、特に断る理由もないのでそのまま彼と通学を続ける。 すると、先程から私の顔を二、三度チラ見していたルカくんが、おもむろに口を開いてきた。 「ねえ、こないだの連休の夜なんだけど…礼緒ちゃん、ひとりで何処に出かけてたの?」 一瞬何の事だか判らなかった私は、ややあってそれがライブ会場であったバーに向かう途中 に感じた視線の正体であるのに気づくと、無意識に口元を引き締めた。 暫しの沈黙の後、私はぎこちなく切り返す。 「……ルカくん、ひょっとして私に声かけてくれた?もしそうならゴメンなさい。 私、あの時急いでたから…」 「ううん、俺もバイト中にちらっと見かけただけ。何だか礼緒ちゃん、いつもと全然雰囲気 違ってたから、ちょっと戸惑っちゃって」 遠慮がちに切り出すも、昔から何処か鋭い観察眼を持っていた彼に、私は心中で己の気の緩みを戒める。 「えっと…あの日は連休だったから、久々に前の街の友達に会いに行ってたのよ。ホラ、向こうの高校生 って色々な面でアダルトでダイナマイトなコが多いでしょ?あれくらいしとかないと、子供扱いされちゃって」 欧米人にコンプレックス丸出しのような発言を照れ隠しにする私を見て、ルカくんはある程度 納得したのか、それ以上は追求してこなかった。 「そっか…でも、俺はいつもの礼緒ちゃんの方がイイと思うな」 「…ルカくん?」 「だってこないだの礼緒ちゃん、ちょっと洗練され過ぎてたもん。何だかコウのヤツの ストライク、ど真ん中ってカンジで」 「コウくんって、そういうタイプの女の子が好みなんだ?」 「うん。だから礼緒ちゃんは、大和撫子タイプでいてよ」 「…何か、イマイチよく判んない理屈なんだけど」 ルカくんの意図に首を傾げながらも、私はどうにか誤魔化せた事にホッと胸をなで下ろしていた。 昼休み。 お弁当も食べ終わり、これから購買でデザートでも見に行こうかと花椿さんたちと話していた矢先、教室の スピーカーから、冷徹そのものといった声が聴こえて来た。 『…1年A組の蔵田礼緒。至急、音楽室の氷室まで来るように。繰り返す、1年A組の蔵田礼緒……』 「何々?バンビ、呼ばれてるよ!」 「氷室先生がどうして…バンビ、心当たりは?」 「いや、全然…」 私のクラスの数学担当であり学年主任でもある氷室先生の事は、既に入学式の時点で知っていたが、個別に 呼び出される関係もいわれもなかったので、文字通り私は困惑する。 「取り敢えず行ってくる。ふたりとも、デザートはまた今度ね」 「行ってらっしゃい、バンビ」 「ヒムロッチに泣かされたら、いつでもアタシの胸に飛び込んでくるのよ!」 すっかり馴染んでしまった彼女たちに見送られながら、私は音楽室へと続く渡り廊下を、ぎこちない足取りで 進み始めた。 社会科教室や視聴覚室など専門教室がひしめく教棟の最上階に位置する音楽室の扉の前に到着すると、深呼吸を 済ませてからノックをする。 「失礼します。放送、聴きました。蔵田です」 「──入りたまえ」 先程の呼び出しと変わらぬ声が返って来たのを聞いた私は、重々しく音楽室の扉を開けて入室した。 窓際に立つ氷室先生の隙のない佇まいに、こちらまで心身共に引き締まる想いがしてくる。 しかし、そんな彼に呼び出された理由が判らない私は、不躾かと思いながらも先に話を切り出した。 「あの…失礼ですが、どういったご用件でしょうか?」 「……」 「…先生?」 眼鏡越しに私を正面から見据えてきた彼の鋭い視線を感じ、益々居心地が悪くなって来たので、早々に退散したい 気持ちを抑えながらも再度口を開こうとしたが、 「……こうして直に顔を合わせるまでは、私の勘違いであると思いたかったのだが」 「え…?」 「お互い、周りくどい事はやめにしよう。君は上手く隠しているつもりだろうが、私の目は節穴ではない。蔵田礼 緒……いや、『ブルースのマリア』」 「!」 思わぬ人物からいきなり確信という名の手榴弾を投げ付けられた私は、咄嗟の言い訳も見つからず、その場に 立ち竦んでしまった。 「仰る意味が…判らないんですけど……」 動揺を抑えようと必死で言葉を紡ごうとするも、何もかも見透かしたような彼の冷たい視線の前では、それも 無駄な足掻きだという事を、これでもかと思い知らされる。 「とぼけても無駄だ。先日君が演奏をしたバーは、私の親友がマスターをしている店だ」 「あの人が…?」 「そして、私もあそこで君の演奏を聴いていた。かつて『港のジャズマスター』と呼ばれた男に、数年前 後継者が現れたという噂は、私も耳にした事があったが…まさか、それが君だったとは……」 彼の口から新たに漏れたため息が落胆なのか驚嘆なのか、今の私には判断出来ない。 だが、彼が私に対してあまり良い印象を持っていないという事だけは、確かであるようだ。 もはやこれ以上誤魔化すことは無理だと悟った私は、取り繕うのも忘れて『マリア』本来の口調に戻る と、やや挑戦的な視線を彼にぶつけてみせた。 「…だとしたら、どうなんです?『マリア』の正体は、こんな年端もいかぬ子供だったと吹聴して、私を引き ずり下ろすとでも言うんですか?」 「そのつもりだった。あの日、君の演奏を聴く直前までは」 憎らしいほど淡々とした口調で答える氷室先生に、私は益々自分の中で苛々が募ってくるのを覚える。 「君の演奏が一定水準より上の価値である事くらい、私も音楽に携わる者として理解は しているつもりだ。しかし…やはりいち教師として考えると、未だ年若い君の所業を安易に認める訳にもいかない」 「……貴方も、私の両親と同じ事を言うんですね。私から『マリア』を…音楽を引き剥がそうと、無理矢理こ の学校へ放り込んだように」 吐き捨てるような私の言葉に、氷室先生は眼鏡の奥で暫し目を瞬かせた。 「…どうやら、私も君のご両親も、君に対して同じ気持ちを持っている事だけは確かなようだな」 「どういう意味ですか」 「かつての私ならば、このような取引じみた事など、決して行わなかったのだが…」 一旦言葉を切った氷室先生は、教卓の上にあった楽器ケースを差し出してきた。 「何コレ…アルトサックス?」 「交換条件だ。蔵田礼緒、『マリア』の事を口外されたくなければ、吹奏楽部に入部したまえ」 「──What!?」 予想だにしなかった彼の申し出を聞いた私は、思わず素っ頓狂な声を上げる。 「どうして私が…ペットの方が、未だ即戦力になるんじゃないですか?」 「私の吹奏楽部に、『マリア』のトランペットは全く必要ない。第一、今更高校の部活動レベルに合わせ るなど、君の奏者としてのプライドが許さないんじゃないか?」 的を得た指摘に言葉をつまらせている私の前で、更に氷室先生は一枚の紙切れをちらつかせて来た。 「ジャズは、サックスも重要な役割を担っている。他パートを理解するのも、奏者として必要な事だと思うが」 「それはそうだけど…」 「騙されたと思って、やってみたまえ。これで隠したがっている君の秘密が守られると思えば、安 いものだろう?」 まるでこちらを挑発するかのような物言いに、ついカッとなった私は、彼の手から紙切れをひったくると、机上にあっ た誰かの忘れ物らしきボールペンを、半ば殴り書き状態で走らせた。 程なくして「入部届」と書かれたその紙切れを氷室先生に突き返すと、さっさとここを出て行こうと足を踏み出す。 「知っているだろうが、吹奏楽部は学業との両立・合同練習日は絶対参加が鉄則だ。『マリア』を貫きたけれ ば、『蔵田礼緒』はそれを遵守するように」 そう追い打ちをかけられた私は、勢い良く音楽室の扉を閉めて階段を駆け下りると、誰もいない校舎裏で 「アンドロイド」と噂される吹奏楽部顧問への、あらん限りの罵詈雑言をまくし立てていた。 本日の5時限目が、先程顔を合わせた吹奏楽部顧問の数学である事に、私は今日という日を呪いたいと思わず にはいられなかった。 感情を吹きこぼさぬよう、頭の中で平常心を唱えながら授業を受け続けている私の所へ、その元凶が歩を進めてくる。 「先程、サックスケースを忘れていっただろう。あれは、君へ貸与する部の備品だ。放課後、取りに来るように」 「……判りました」 芯どころか本体そのものをへし折りそうな勢いでシャーペンを握り締めながら、私は引きつった顔で返事をする。 彼の言う事が本当ならば、今回の取引とも呼べる行為は、確かにそう悪いものではない。 それでも、両親と同じ事を口にして私を制して来ようとした彼を見ていると、大人にやり込められた、ハメられたとい った被害妄想が高まって来るのだ。 きっと彼から見れば、私の意地もプライドも、下らない子供のワガママでしかないのだろう。 (そりゃ、サックスは一度ちゃんと触れてみたいとは思ってたけど…まさか、こんな形で機会が訪れるなんて…) 適当に過ごせばいいと考えていた私の高校生活は、どんどん当初の予定から外れてしまっているのでは と思いながら、私は自分の胸の中で折り合いを付けきれない複数の感情を持て余していた。 大迫先生の元気な声と共に帰りのHRが終わった後、私は氷室先生の言いつけ通りに再び音楽室へと向かった。 腹を立てる一方で、サックスを備品として貸し出してくれるなんてやっぱり私立の学校は違うのだな、などと考えながら、私 は足を動かす。 「部活をやる事になった」と家にサックスを持ち帰れば、それにかこ付けて多少は『マリア』の事も見逃して もらえるかも知れない。 こうなったら、O型の特性「開き直り」を駆使して、この状況を楽しんでしまえ。 そう言い聞かせながら、音楽室への階段を上っていると、ふと私の耳にピアノの軽やかな旋律が聴こえてきた。 「ん…?」 クラシックは範囲外だが、それが並の腕前ではないという事くらいは、私でも理解できる。 興味が湧いてきた私は、極力音を立てずに音楽室の扉へと近づくと、そこの小窓からこっそりと中の様子を窺った。 (へぇ…) 目を閉じたまま一心に鍵盤を操っているのは、上級生とおぼしきひとりの男子学生だった。 クラシックのタイプにありがちな何処か神経質そうな雰囲気が、ガラス越しからでも見て取れる。 そのまま暫く彼のピアノに聴き入っていた私だが、それで気が緩んだのか、上履きに包まれたつま先をコツリ、と扉に 当ててしまった。 (あ、やば…ま、でもそんなに音は立てなかったから…) バ───ン! 「……やっぱ、ダメか」 直後、不用意な雑音を出した私へ、中からけたたましい不協和音という名の抗議が鳴り響いてきた。 「見かけない顔だな…」 演奏の邪魔をされたにしては、予想以上に不機嫌極まりなさそうな表情をしたその男子学生は、音楽室の扉を開け ると、私を無遠慮に眺め始めた。 「あ…どうも、こんにちは。演奏の邪魔してスミマセン」 その視線を不快に思ったが、私が彼の演奏を妨げた事には変わりないので、短く謝罪すると中に入る。 昼休みに置き忘れたままのサックスケースを見つけると、私は無言でそれを手に取った。 「おい」 「…なんでしょうか」 そのまま帰ろうとした私を、憮然とした男子学生の声が呼び止める。 「お前は…今の演奏をどう思った?」 「え?ああ、まあ…良い演奏でしたよ。ああいう細かいフレーズも丁寧に表現されてるトコなんか、私個人的に好きですし」 唐突に尋ねられた私は、一瞬戸惑いながらも、無難な感想を述べた。 しかし、それをよしと思わなかったのかどうかは知らないが、次いで彼の口から出た言葉は、私の発言を真っ向から 否定するかのような辛辣な返事であった。 「そうか。俺は、弾けば弾くほど嫌いになる」 思わず眉根を寄せて向き直った私を、彼はまるで小馬鹿にしたような顔で見つめ返してくる。 今日は、つくづく腹の立つ日のようだ。 心中で呟いた私は、彼の挑発にあえて乗っかる選択をした。 「──訂正します。良い演奏だったと思いますよ。もっとも、演奏者はクソのようでしたが」 「……今、何と言った?」 「褒めたんですよ?『良い演奏だ』って」 「その先だ!」 先ほどとは変わっていきり立っている彼に、私は意識して伏し目がちに言葉を返す。 「何言ってんですか。演奏者にとっての『良い演奏』は、最高の賛辞ですよ?演奏さえ良けりゃ、その人格がクズだ ろうがクソだろうが関係ない。貴方は、過去の名だたる音楽家たちがみんな品行方正だったとでも 仰るんですか?」 「貴様…」 「先にふっかけてきたのは、そっちでしょう。ただでさえこっちは虫の居所悪いってのに…演奏がイヤなら、どうぞご自宅 でご存分に引きこもっててくれません?他人の賞賛も素直に喜べないくせに、学校のピアノ偉そうに占拠してイキがらないで 下さいよ」 「…待て!」 言いたい事を吐き出して出て行こうとした私の腕を、彼の見かけよりも筋肉のついたそれが力任せに 掴んできた。 あらぬ方向から力を加えられて僅かに顔を顰めている私に、彼は更に詰め寄ってくる。 「貴様、名前は!」 「アッパーの紳士なら、人に尋ねる前に、自分から名乗ったらどう?」 「……2年の設楽聖司だ」 「そ。私は蔵田礼緒、1年生よ。よろしく、先輩」 「お前となど、俺はよろしくしたくない」 「あら、奇遇ね。私もだわ。…ねえ先輩、貴方鼻持ちならないお坊ちゃんみたいだから、英語大丈夫よね?」 「…?まあ、日本語と同じくらいには喋れるが」 「そう…じゃあ、遠慮無く……」 度重なるストレスに、ついに私の中で、ブチンと何かが音を立ててはじけ飛んだ。 「すげー…セイちゃんと礼緒ちゃん、英語でケンカしてる」 「お前ら、いい加減にしろ!ソレ、学校で交わす会話じゃねえだろうが!」 「コウ、判るの?」 「聞き取りだけなら何とかな。喋れねえけど」 「じゃあ、訳してよ」 「嫌だ。…お前、アイツが普段俺らが余多高のヤツら相手にしてる時の10倍くらいの汚ねえ言葉遣い してるトコロを想像してみろ」 「……うん、ゴメン。俺が悪かった」 その後、音楽室で繰り広げられたクィーンイングリッシュとアメリカンスラングの応酬は、氷室 先生に止められるまで延々と続いていたという。 私は設楽先輩が大好きです。本当です。 |