『その4・海ゆかば、虎の視線』 期末考査も無事に終わって、待ちに待った夏休み。 「蔵田ー、お前も自分で判ってるとは思うが、せめて夏休みの間に義務教育程度の読み書きは、出来るようにしとこうな」 一応、困らない範囲で勉強は出来るものの、小中学校をインターナショナルスクールで過ごしていた 私は、時々漢字が怪しくなる事がある。 携帯電話やパソコンは予測変換などで普通にこなせているが、筆記の時に「へん」や「つく り」を間違えたり、余計な線を一本引いたり逆に足りなかったりする事が多々あるのだ。 実際、今回の現国の試験も、問題自体は正解でも漢字の書き間違いが原因で部分的にマイナスを食らった り、漢字の「よみ」はともかく「書き取り」に至っては、1問しか正確に答える事が出来なかった。 担任で現国担当の大迫先生は、終業式の日に他の宿題と一緒に中学生向けの漢字ドリルを、苦笑いしながら 私に寄越して来た。 教師としては良い人なのだが、折角の夏休みを前に憂鬱な気分になったのは否めない。 おまけに氷室先生率いる吹奏楽部は、休み中でも3年生以外はしっかり全体練習が義務付けられているので、学 校に通わなければならない日は、結構ありそうな気がする。 何よりも、 「よりによって、ジャズフェスタの日にまで全体練習ぶつける事ないじゃないですか。いじめですか?これは いじめなんですか?」 「……全くの偶然だ。それに、夏休みの全体練習は午前中のみだから、本番には 充分間に合うだろう」 「そうですけど…」 「国内、それもはばたき市内などまだぬるい方だ。昔吹奏楽部にいた卒業生は、外国でレッスンを 受ける為に、全体練習終了と同時に空港まで直行していたぞ」 「…それ、ホントですか?」 「うむ。現在は、ヨーロッパの音楽院で勉強と演奏活動を続けている。…今でも時々、私に写メなどを寄越してくるのだ」 氷室先生の口から「写メ」という言葉が出てきたのも驚きだったが、その卒業生の話をしている先生の表情がとても 楽しそう事に、私はこの人でもこういう顔をするんだな、と素直な感想を抱く。 「……設楽も、彼のように良いきっかけを見つけてくれれば良いのだが」 言葉を続けながら、氷室先生は音楽室のピアノに腰掛けてスコアを確認している設楽先輩に視線を移した。 先生の言いつけで、先輩は時折吹奏楽部のトレーナーとして音楽室を訪れている。 確かに、音楽の知識の豊富な先輩がいれば、部活の活性化やレベルアップには申し分ないと思う。 だけど、先日その先輩と初対面で抗争を起こした自分としては、正直顔を合わせづらい。 それは向こうも同じなようで、私を前にすると、必ず腕組の渋面姿で歓迎してくるのがデフォルトとなっている。 「まあ、初日の段階でどん底まで嫌われましたから、今更どうという事もないんですけどね」 「そうか?私は、設楽は君の事を気に入っていると思うが」 「は?冗談ですよね!?」 「私は、冗談は言わない。事実、あの舌戦の後で私に『あそこまで言われたら、悩んでる自分が少しだけ馬鹿 らしくなってきた』と漏らしていたからな」 「……マジですか?」 「うむ、『マジ』だ。案外、君たちは良いコンビになるかも知れないな」 「それは、いくらなんでもちょっとありえないですよ…」 縁起でもない賢者の予言を、私は心底うんざりとした顔で否定した。 8月。 実家に立ち寄った琥一は、West Beachに戻ると一枚のビラを弟の前に差し出した。 「何これ。『はばたきジャズフェスティバル』?」 「今月の第3日曜日に、臨海地区で行われるらしい。今回親父がそこのスポンサーやってて、 招待券を何枚か持ってると言ってた。お前も行くか?」 桜井兄弟の父親は、はばたき市に昔から根付いた建設業を営んでいる。 ゆえに、地域特有の祭りや催し物には積極的に取り組み、事実あちこちから何かの時には非常に頼りにされる存在なのだ。 時折手伝いに駆り出される事もあるが、兄弟はそんな自分達の父親を、密かに誇りに思っていた。 「俺はいいよ。ジャズならオヤジもコウも好きだろ?親子水入らずで楽しんでこいよ」 「──ルカ」 語気が強くなった兄の仏頂面を見て、琉夏は反射的に下を向く。 「…ごめん。どちらにしろ俺、その日バイト入れちゃったから無理。何か面白そうなのがあったら、お土産買ってきて」 それだけ言うと、琉夏は階段を上がって自分の部屋に引き上げてしまった。 人一倍寂しがりのくせに、未だに自分達家族にも何処か越えさせない壁のようなものを作る弟の様子に、 琥一は諦めにも似たため息をひとつ零した。 ジャズフェスティバル当日。 午前中にあった吹奏楽部の全体練習を終えた私は、一旦帰宅して即効で制服を脱ぎ捨てた後、あらかじめ玄関に用意し ておいた『マリア』の荷物一式を手に、再度家を飛び出した。 駅まで到着すると、既にバンドの仲間が広場で待っていたので、私は彼らの元へ足を急がせる。 「マリア、お疲れ」 「皆もようこそはばたき市へ」 「こないだのバーもそうだけど、結構良い所よね…ねえマリア、前にも電話で話したけど、ちゃんと ヌーブラは持って来た?」 「…え?うん、まあ一応……」 「それならOK♪向こうでバッチリ支度しましょうね」 私達バンドのマネジメントを主な生業としている彼女は、昔から私にとって姉のような頼もしき存在であるが、 時に自分の趣味や好みを押し付けてくるのだけは、正直勘弁して欲しい。 そして、彼女がこのようないたずらっ子の顔をする時には、ロクな事が待っていないのだ。 「わーっ!ちょ、やめて!何するの…って、あは、あははは!くすぐったいって!」 専用に与えられた控室に着いた私は、ヌーブラ以外は上半身裸の状態で、革張りの長椅子の上に無理矢理うつ伏せにさせられると、 何やら背中をモゾモゾといじくり回されていた。 「ああ、動かない!私の渾身の作品が歪むでしょ!」 「それ以前に、どうして私が、あなたのゲイジュツとやらの犠牲になんなきゃいけないの!?」 嘘か誠か、昔NYのアートスクールで学んだという彼女は、戯れに他の仲間にボディペイン トを施したりする事がある。 別段、彼女の趣味にケチを付ける気はないが、それに巻き込まれるのは勘弁して欲しい。 そんな私の抵抗もむなしく、約小一時間程拘束された結果、私の背中には、宗教画に出てくる聖母をイラ ストチックにアレンジしたようなものが、まるでTシャツのカエルの如く貼りついていた。 「…もうっ!なんなのよこれ!?」 「『ブルースのマリア』、夏バージョンよ♪謎めいたジャズ奏者『マリア』、顔は見えずともその背中には 文字通りマリアの姿が!なーんて、カッコよくない?」 「アメリカの美意識と日本の美意識は違う!これって、強力な塗料なんでしょ!?どーすんのよ、こんな背中 じゃ暫く海にもプールにも行けやしない!」 「平気、平気。1週間もすれば落ちるから。どうしても我慢できなかったら、これ使えば一発よ♪」 「…うわー、肌荒れそう……」 彼女の手から外国製の化粧落としを受け取った私は、これ以上口答えするのを諦めて、支度にかかった。 いつもより若干濃いめにメイクをすると、ウィッグと帽子とサングラスを掛けて『マリア』を完成させる。 いつもは比較的カッチリ着込んでいるマリアの衣装は、今回の「売り(?)」とやらの為に、完全に背中の開いたホル ターネックのキャミに変更されていたので、夏とはいえ若干の涼しさのようなものを感じていた。 ライブハウスやバーなど屋内での演奏は慣れているが、屋外の、それも海に面した特設ステージでの演奏など、はじめての事だ。 もしも『あの人』がここにいたら、彼はこんな私を見て喜んでくれただろうか? ブラインドをずらして窓から海を眺めながら、私は暫し感傷的な気分を持て余していた。 夕焼けのライブ会場は既に人でごった返していたが、父親のおかげでスポンサーだけが坐る事の可能な 特別ブースへ案内された琥一は、その大柄な身体を椅子に預けていた。 「今回のバンドは、どれも秀逸だぞ?琉夏も来れば良かったのにな」 「しょうがねえだろ。バイトだっつってんだから」 プログラムを手に子供のようにはしゃいでいる父親を、琥一は腕組みの姿勢で一瞥する。 「地元の奏者やバンドは大体網羅してるんだが…今回のイチオシはココだ。父さんの若い頃に 一番港町で輝いていた『ジャズマスター』の後継者とも言われる、『ブルースのマリア』!滅多に姿を見せな い謎の美女らしい」 「……謎なのに、どうして『美女』って判るんだよ。程々にしとかねえと、おフクロにチクんぞ」 「これは純粋に興味だ。母さんには黙ってろよ」 いまいち不毛な親子の会話を交わしている内に、いよいよジャズフェスティバルの開催を告げるアナウンスが聴こえてきた。 オープニングを告げたMCが舞台袖に下がると同時に、ひとりの女性がトランペットを手に現れる。 「…キタ!彼女が『マリア』だ!」 父親の声に、琥一は顔を動かすと舞台に立つ女性を見る。 帽子とサングラスに隠れて顔は判らないが、凛然と佇むその女性は、会場とその更に向こうに広がる海 に視線をやった後で、楽器を持っていない右手を己の胸元に当てて敬意の仕草をすると、アカペラの状態でト ランペットを構えた。 直後、彼女のトランペットからは、予定していた演目とはまったく違った唄が流れてくる。 「あれは…」 年配の人間や、ジャズに精通した人間ならば知っているであろうその曲は、半世紀以上昔の軍歌であった。 戦後、日本でも活躍したイタリア人奏者に倣っているのか、『マリア』はワンコーラスのみそれを奏でると、 バックのバンドに合図を出して、本来の演奏を開始した。 観客に対してあえて後ろを向いたその瞬間、背中に現れたマリアのタトゥーに、会場のテンションは一気に上昇する。 演奏か彼女の背中かは不明だが、息子そっちのけで『マリア』に歓声を上げ続けている父親を他所に、琥一はトラン ペットからブルースハープに持ち替えた彼女を見て、自分の記憶の底に眠っていたある事を思い出した。 (あいつは…!) はばたき学園の入学説明会に出かけた帰り。 コンビニでトイレを借りてくるという弟を待つ琥一の耳に届いた、ブルースの音色。 興味を惹かれて砂浜まで移動すると、長い髪を潮風に煽られながら、堂に入った様子でハープを吹く女がいた。 ──自分の強面に驚いたのか、琥一が声をかける前に彼女は逃げ出してしまったが。 (あのブルース、あの音色…間違いねえ。あいつが『マリア』……?) 「どうした、コウ?お前も『マリア』が気に入ったのか?」 普段、寡黙な長男が視線を舞台に集中させているのに気づいたのか、父親が何処か揶揄するように尋ねてきた。 「いや、別に…」 「隠さなくてもいいぞ?…そうだ。ダメもとだが、たまにはコネとやらでも使ってみるか」 何かを閃いたらしい表情で、父親は席を立つと運営本部の所へ歩き始めた。 「…スポンサーが?」 演奏を終えて控室で汗を拭っていた私の所へ、会場でマネジメント活動をしていた彼女か ら電話が入ってきた。 『うん。一応、OKするかどうか判らないって言っといたけど…その人、マスターの爺さんの事も知っ てるくらい詳しくてさ、見た所単なる冷やかしでもないみたい。今回のフェスに協賛してくれた人だし、ホーム 以外のファンにサービスするのも大切だと思うわよ。…どうする?』 暫し逡巡した後で私は彼女に承諾の返事をすると、暑さから外していたウィッグに制汗ス プレーを吹きつけてからかぶり直し、汗で流れたメイクをカバーする。 支度が整った後で再度電話を掛けると、控室まで迎えに来た彼女と一緒に、一般入場者のいる場所とは違う、主 催者その他スタッフが控えるテーブルまで移動した。 途中、幾人から声を掛けられながら、やがて慣れない7センチヒールに包まれた私の足は、ひとつのスポンサーブ ースで歩みを止める。 「お待たせしました。彼女が『マリア』です」 「やあ、君が『マリア』か!無理を聞いてくれて、本当に有難う。素晴らしい演奏だったよ!」 「…有難うございます。こちらこそこの度は、はばたき市にお招きいただき光栄に思っております」 心持ち俯き加減にしながら、私は上機嫌で握手を求めてきた中年の男性に返した。 「『ジャズマスター』も、君のような美しい後継者に恵まれて、安心しているんじゃないかな。あ、良かったら どうだい?一杯」 「いえ…そういうのは頂けない事になっておりますので……」 「え、そうなの?」 残念そうに呟くスポンサーに、背後からマネジメントの彼女に小突かれた私は、 「申し訳ありません。かわりに、そちらの水を1本頂いてもよろしいですか?」 サングラスと帽子で笑顔も何も無いのだが、出来るだけ営業用スマイルを浮かべると、テーブルに林立した ミネラルウォーターのボトルを指差した。 「お安い御用だよ。おい、コウ!そこの水渡してやれ」 スポンサーの口から出た名前に、私が「え?」と思う暇もなく、 「……」 「………」 細目をこれでもかと見開いたまま、私にボトルを差し出しているのは、私のよく知る幼馴染の男性の姿だった。 声もなく私を見つめてくる彼の視線に耐えられなくなった私は、努めてそっけなく水の入ったボトルを受け取ると、 帽子を更に深くかぶり直す。 「有難うございました。それでは失礼します。私の出番は終わりですが、演奏はまだまだ続きますので、どうぞお楽しみ下さい」 明らかに先程よりも早口になりながら、挨拶を済ませた私は出来るだけさり気無く、だけど一刻も早く彼らから…否、彼から遠ざかった。 建物のドアを開けると、もつれそうになりながら控室まで走りだし、ウィッグや帽子をはじめとする『マリア』の衣装すべ てを脱ぎ散らかす。 「マリア、何してるの?打ち上げには出ないの?」 「ゴメン…私、今日は帰る!」 「どうしたのよ?」 彼女の戸惑うような声にも構わず、私は一心不乱に帰り支度を始めた。 早く、ここから出なくては。 一刻も早く、私はここから逃げ出さなくてはいけない。 『ブルースのマリア』から、さえない高校生『蔵田礼緒』に戻った私は、彼女に呼んでもらったタクシーに 乗り込むと、未だ熱気の覚めやらぬジャズ会場からひとり寂しく遠ざかった。 道中、誰にも会わずに済んだ事に安堵していたのも束の間、 「…っ!?」 カバンの内ポケットから、マナーモードにしていた携帯電話が、呼び出しの振動を始める。 震える手でディスプレイを確認すると、 『Incoming 桜井琥一』 今、もっとも見たくなかった人物の名前が表示されていた。 留守番電話サービスには入っていない私の携帯は、このまま放っておくと伝言メモの案内が流れてしまう。 彼の声を聞きたくも残したくもなかった私は、深呼吸をひとつした後で、やましい心と罪悪感を抱えたまま携帯の電源を落とした。 |