『その5・マリアと虎と、海辺の要塞』


ジャズフェスティバルの会場から逃げるように帰宅した私は、その日ひと晩携帯の電源 をつけることが出来なかった。
しかし、不義理をしたマネージャーや、他の仲間に沈黙を通し続ける訳にはいかな かったので、翌朝になってから意を決してスイッチを入れた。
恐る恐るディスプレイを確認すると、『彼』からの着信はあの時の一回きりで、後は様子 のおかしな私を心配した彼女からの数件と、メールが届いていただけだった。
ホッとしながら、私は彼女に謝罪の電話をする。
「…そういう事情だったのは理解したけど、昨夜のあなたの態度はジャズ奏者『マ リア』としては許されない行為よ。今回は何とか誤魔化したけど、今後は中途半端な真似 は慎みなさい」
口調は優しいが厳しさが含まれた声を聴いて、私は彼女に改めて謝罪した。
「で、その彼の事はどうするの?」
「──自分で言う。それしかないだろうから」
「そう、その方が良いと思うわよ。『マリア』としても……『礼緒』としても、ね」
「…うん」

私は電話を切ると、長身の幼馴染である『彼』の姿を思い浮かべた。
「とはいったものの…」
『彼』ら兄弟には、『マリア』の正体を一番知られたくなかったというのに。
幼い頃一緒に遊んだ少女があのような顔を持っていると知って、『彼』はどのように思っただろうか。
もしかしたら、あまりの衝撃にうっかり家族に口を滑らせているかも知れない。
寡黙な『彼』がそのような真似をするとはいまいち考えにくいが、可能性がまったくないとも言えない。
「無理やり黙らせるなんて、私の力で出来っこないし…」
先ほどから、何度か携帯の電話帳を開いては閉じるという行為を繰り返すも、自分から着信 を拒否した後ろめたさもあって、どうしても『彼』に電話をかける事が出来なかった。
「あ〜〜…What should I do(どうしよう)……」
するべき事はひとつしかないのに、その一歩が踏み出せない自分の意気地のなさに、私は心底 情けない声で弱音を吐いていた。


悶々としている内に、3日が過ぎてしまった。
帰宅後、貰った化粧落としを使いまくったのもあり、背中に施された塗料はすっかり消えて いたが、私の心は未だあの夜のモヤモヤから抜け出せないでいた。
「いつまでもこのままって訳にはいかないし、どうせ夏休み終わったら嫌でも顔合わせるん だから…やっぱり、ちゃんと面と向かって話した方がいいよね。でも、どうやって……」
壁にかかったカレンダーを寝転がったまま眺めていた私は、おもむろに起き上がると、気晴らし に外へ出る事にした。
遠出をする予定はなかったので、着用していた七分丈のパンツとカップ付キャミソールの上に カーディガンを羽織ると、最低限の荷物だけ入れた小さなバッグを手に、普段使いの サンダルを引っ掛ける。
照りつける陽射しに目を細めながら、私は公園通りの店を冷やかしていた。
途中、クリアランスでかなり値下がりしていた髪留めをひとつ購入すると、喉が渇いたのでどこかで休 憩でもしようかと石畳の道を歩き続ける。
すると、数件のコーヒーショップらしき店が目に入ったので、思わず首を動かして確かめようとした直後、 私の身体は何やら硬いものと接触した。
「わっ!?」
「…っ」
うっかり余所見をした私は、誰かとぶつかってしまったようだ。
「あ、どうもすみませ…」
視線を正面に戻してぶつかった相手に謝罪しようとした私は。

「…ぁ」
「……」

どんだけのデジャ・ヴなのかと言いたくなるほど、言葉もなく私を見下ろす長身の男性の姿に、もはや驚 きを通り超えて乾いた笑いしか出なかった。
「………こんにちは」
些か間抜けな挨拶をすると、私は『彼』から少し身体を離す。
しかし、
「──待て!」
「おぅあああぁぁ!?」
低く厳しい声で私を呼び止めたかと思いきや、大柄な『彼』の手が、私のカーディガンを豪快に捲り上げてきた。
突然の事に悲鳴を上げる私の背中が、『彼』の眼前にこれでもかと晒される。
「…?」
私の背中を覗き込みながら小首を傾げている『彼』の向こう脛目掛けて、私はサンダルごと己の利き足を振りかぶった。
しかし殺気でも感じたのか、サンダルの踵が直撃する寸前絶妙な身のこなしでそれをかわした『彼』に、 私は思わず舌打ちする。
「…あぶねーな、おい」
「出会い頭に服捲られれば、誰だって怒るわーっ!」
「いや、だってお前、背中…」
「アングラでもなけりゃ、18歳未満がタトゥー入れられる訳ないでしょう!?あれはペインティ ング!…って、あ……」
「やっぱり…あれ、お前だったんだな」
ボソリとした『彼』の呟きは、人通りの喧騒も大量の蝉時雨も通り越えて、私の鼓膜と心を刺激する。
もはやこれ以上の隠し立ては無意味だと悟った私は、
「喉、渇いてるんだ。奢るから付き合ってくれない?…そこで、ちゃんと話す」
そう決意し、何処か吹っ切れた私の顔を『彼』…琥一くんは、眉を顰めながら見つめ返してきた。


少々古めかしいしつらえの珈琲店は、反面ゆったりと寛げる空間と、専門店ならではの良い香りを堪能出来る所だった。
運ばれたアイスのカフェオレとコーヒーを前に、私は琥一くんにこれまでの事を可能な範囲で説明した。
私が以前の街でしてきた事や、はば学に来た経緯。
私の秘密である『マリア』の事。
ポツリポツリと言葉を紡ぎ出す私を、琥一くんはただ黙って聞いてくれていた。
「…と、まあこれが今まで隠してきた事の全貌です。…やっぱり、驚いた?」
「驚くも驚かないも、ねえよ……」
グシャグシャと頭を掻き毟りながら、琥一くんは胡散臭そうに私を見据えてくる。
「あの…琥一くん、あれからお父さんや琉夏くんに話したりしちゃった?」
「話せる訳ねえだろ。ルカはともかく親父に知れたら、冗談抜きで大事になる」
「そうだろうね…有難う。はぁ、はばたきに戻って来てから、何だってこうも立て続けに『マリア』の秘密が バレるかなあ…」
「他にも知ってるヤツがいんのか?」
カフェオレを一口飲んだ後でそうボヤいた私を見て、琥一くんが問い返してきた。
「うん。適当に高校の3年間を過ごすつもりでいた私に、無理やり部活動を押し付けてきた先生がね」
「…氷室か。そういやお前、アイツに呼び出されてた事あったな」
「そ。私が部活に入ったのも、『マリア』の秘密を守る為の交換条件。まあ、意外と『芸の肥やし』に なってるから、そう悪いもんでもないけど」
苦笑しながら私は答えると、本題を切り出す為に少しだけ椅子から身を乗り出して、琥一くんに近づく姿勢を取る。
「ムシがいいのは判ってる。でも、『ブルースのマリア』は、あくまで謎めいた秘密の存在でなくて はならないの。…だから、お願い。私の口からすべてを公表するまでは…せめて私が18になるまではこの事を 黙ってて欲しい。勿論、お父さんにも…琉夏くんにも」
「……」
「納得いかないなら、私と一緒にマネージャーの所まで話を通しても構わない。場合によってはそれなりの取引も…」
「──んなモンは、いらねえ」
残りのアイスコーヒーを飲み干した琥一くんは、同じくカフェオレを飲み終えていた私を見ると、立ち上がった。
そのまま「来い」と顎でジェスチャーをする彼の後に続いて店を出ると、バイクの駐輪場まで移動する。
ヘルメットを渡された私が、訳も判らず立ち竦んでいると、
「乗れ。氷室じゃねぇが、俺も交換条件だ」
「え…?」
「──身体で払え。お前のな」
ニヒルに歪んだ彼の口元を、私は信じられない思いで見上げていた。


「男所帯だからある程度は仕方ないと思うけどね…どんだけ洗いモン溜め込んでるのよ、貴方たち!」
「ウルセー。こちとら、お前の秘密とやらを守ってやるんだ。黙って働け!」
彼のバイクに乗っている間、どんな目に遭わされるのかと気が気でなかった私は、海辺の朽ち果てたダイナーという 名の隠れ家で、ハウスキーパーと化していた。
高校入学と同時にこのテナントへ移り住んだという彼らの家は、お世辞にもまともに機能しているとは考えにくく、 フロアのホコリをモップで掃除する琥一くんと共に、私はシンクを占領していた皿やコップを洗い続ける。
「大体、琉夏くんどうしたの!?兄弟で住んでるんなら、あのコにもやらせなさいよ!」
今日はバイトで不在だという彼の弟の飄々とした姿を思い出し、私は琥一くんに悪態をつく。
「あのバカが、家事全般出来るタマだと思うか?」
「そんな事言ってたら、琉夏くん益々何も出来なくなるでしょう!?言いたくないけどね、琥一くんは昔 から琉夏くんを甘やかし過ぎ!」
「う、うるせえ!洗いモン終わったら、こっち手伝えよ」
「あー、もう暑くてやってらんない!」
元ダイナーだけあってそれなりの広さはあるものの、冷房のない中での作業に耐え切れなくなった私は、カーデ ィガンを脱ぎ捨て、汗で張り付き始めた髪の毛を、先ほど買った髪留めで固定した。
「……」
「──何よ?」
「何でもねえ」
不意に琥一くんの視線を感じて尋ねるも、素っ気無く返されてしまったので、私はそれ以上構わず作業を続ける。
どうにか掃除その他を終わらせた頃には、すっかり西日が傾き始めていた。
「ご苦労だったな」
「…どういたしまして。こんだけ働いたんだから、せめて何か食べさせてくれると有難いんだけど」
時間も手伝い空腹を覚え始めていた私は、僅かに口を尖らせつつ彼に訴えてみる。
「そうしてえのは山々だが、ウチには金もなければロクなモンねえぞ」
「うん、言ってみただけ。でも、ホントに何も材料ないの?」
「そこの棚に、実家から適当に持ってきたモンがない訳じゃねえけど」
「ちょっと見てもいい?」
琥一くんの許可を貰った私は、彼の言う棚から食材を探し始める。
すると、ケースの中から乾燥パスタと、麻婆茄子の素のレトルトパックを数個発見した。
「ここって、ガスは通ってる?」
「ねえが、カセットコンロがある」
琥一くんの返事を聞きながら、私は今度は冷蔵庫を探る。
「万能ねぎが半分程度と…この卵、いつ買ったの?」
「あ?ああ、昨日…いや、一昨日だ」
「……OK、材料揃ったわ。出来るだけ大きい鍋にお湯を沸かして、お兄ちゃん」
「あ?」


茹でたパスタの上に一緒に温めていたレトルトの中身と小口切りに刻んだ万能ねぎを散らし、最後に卵の黄身を 盛り付けた私は、
「──暑いから、外で食べない?」
「…だな」
と、琥一くんを促して大きめのケースをテーブル代わりに店の裏側まで運んでもらうと、プラスチックのビールケース に腰掛けて、ささやかな夕食を始めた。
暑いのは変わらないが、眼前に広がる海とそこから吹く風は、私たちの心に安らぎを与えてくれているようだった。
「作り方は簡単だから。まだ材料残ってるし、琉夏くんが帰ってきたら食べさせて上げて」
「お、おう。しかしお前、意外と料理出来んだな」
「まあ、ガサツな男の手料理レベルだけどね。両親の仕事上ひとりで食べる事が多くて、いつの間にか覚えち ゃったってヤツ」
氷を入れたコップに水を注ぎながら、私は夕陽に染まる海を眺めた。
「前にいた街の海も好きだけど…はばたきの海も、静かでいいよね」
「ここら辺は、遊泳禁止区域だからな。騒がしくねえのは有難てえ」
「うん。このダイナーも、オーシャンビューだけは文句なしの物件ね。…他は最悪だけど」
「余計なお世話だ、この野郎」
軽口を叩き合いながら、私たちは食事を続ける。
やがて、食べ終えたので片付けようと立ち上がった私の背に、琥一くんが声を掛けてきた。
「…蔵田」
「なに?」
「お前は、後悔しているか?この街に戻ってきた事を。俺に…いや、俺たちに会った事を」
心なしか表情の硬い琥一くんを、私は暫し目を瞬かせつつ見つめていたが、もう一度視線を海に戻した後で、現在の自 分の気持ちを正直に打ち明けた。
「──最初はね。3年間だけ我慢してさっさと卒業してあの街に戻りたい、って…そればっかり思ってた」
「……」
「だけど、今は…少しだけ考えが変わった。ここの街も海も人も、あの街とは違った魅力がある事に気付いたから。 そんな魅力的なモノに囲まれてるんだから、いつまでも腐ってないで楽しんじゃえ、ってね」
「…そうか」
「うん」
気分が軽くなった私は、食器の片付けをした後で口をゆすぐと、バッグから常に携帯しているブルースハープを 取り出した。
その細目を丸くさせている琥一くんに微笑みかけると、ふと頭に浮かんだアメリカの民謡を奏で始める。
かつての大統領も愛していたというこの唄は、日本でも広く知られているもので、優しい中にも郷愁を掻き立てられる メロディが印象的である。
私が今抱いている「郷愁」とやらは、果たしてはばたき市とあの街のどちらなのだろうか。
だけど、

「…my home on……」

私のブルースハープに合わせて歌詞を呟く琥一くんの穏やかな横顔を見て、彼らとの再会は決して悪いものではなか ったのだという事を、ひしひしと感じていた。


幼馴染に口止めをして、彼女の訪れた痕跡をすべて隠した琥一が自室で寛いでると、定石どおり腹を空かせた 琉夏がバイトを終えて戻ってきた。
「ただいまー。コウ、何か作って…って、うわ!凄い綺麗に片付いてる!どうしたの?」
「何にもねえよ。…まあ、強いて言えば『突撃家庭訪問』ってヤツだな」
「ゑ!まさか、オフクロ来たとか?」
「さあな。でも『あんまり権利ばっか主張してちゃんと生活する上での義務を怠るようなら、高校卒業まで実家強 制送還もやむなしか』っつってたかな」
「ええー!それは絶対にヤダ!オヤジは何も言ってなかったのに…」
「判ったら、最低限の家事くらいはやれよ。……お前親父に会ったのか?」
「うん。オヤジも言ってたけど、最近コウの様子が変だったから。あと、ついでにこないだふたりが行った ジャズフェスティバルのお土産も貰ったよ。お菓子は全部俺のね。コウには、これ」
幼馴染直伝の男の手料理パスタを頬張りながら、琉夏が何かチラシのようなものを差し出してくる。
見ると、それはジャズフェスティバルの出演者を基にデザインされた、ミニサイズのポスターだった。
「その女性ミュージシャン、オヤジもお気に入りみたいだね。何だかさ…ちょっとだけ礼緒ちゃんに似てない?」
「バーカ、全然似てねえよ」


もう少しで声が裏返りそうになるのを堪えながら、琥一は、出来るだけ弟を小馬鹿にするような物言いをした。