『その6・マリアと狼藉者と、はばたきのSt.Luke(後編)』


別れてからそんなに経ってはいなかったので、彼らを探していた私は、程なくして広場の一角で一触即発 状態の男子高校生の姿を見つける事が出来た。
「いけない、このままじゃ喧嘩沙汰になる……琉夏くん!」
小走りに近寄りながら、私は彼らを取り巻く張り詰めた空気を裂く為に、大声で幼馴染の名を呼んだ。
「──な!?お前、どうして…」
「…なんだぁ?姉ちゃん」
私の姿を見て驚いている琉夏くんを他所に、私は呼吸を整えるとガタイの良い方の男に視線をやる。
「今日は、私が先約なの。あなた達も紳士の端くれなら、レディファーストで遠慮してくれる?」
「あン?何言ってやがんだ?」
「明日以降なら、喧嘩だろうが何だろうがお好きなように。だけど、今日はダメ。さあ行きましょうか、琉夏くん」
「礼緒ちゃん…?」
呆気に取られた顔をする幼馴染に、私は斜に構えた笑顔で応える。
琉夏くんに倣い、わざと飄々とした緊張感の欠片も無い声でひと息にまくし立てた私は、ふたり組の間をすり 抜けると彼に近づいた。
だが、
「ナニ訳の判んねぇ事言ってやがる!女はすっこんでろ!」
そんな私の態度が癪に障ったらしきガタイの良い方の男が、背後から私の襟首を引っ張ってきた。
体格でも腕力でも到底かなうはずも無い私は体勢を崩し、その拍子に逆手に握られていた新品のトランペット ケースを離してしまう。
ガシャンという衝撃音と共に、ケースが地面に叩きつけられたのを目にした私は、

「……何をするのよ、このバカ!」
「うぐっ!?」

振り向きざま、国語辞典の入った鞄を男の脳天に全力で打ち下ろしていた。
不意打ちを食らった男は、声を上げて頭を押さえる。
その隙を逃さず、私は男の顔面を鞄でもう一度したたかに殴りつけると、わき腹に蹴りを 叩き込んで戦意を喪失させる。
「ああっ!?て、テメェ!」
相棒の様子にいきり立った背の低い方の男が、私を止めようと迫って来た。
自慢にも何にもならない事だが、私が以前住んでいた港町には、路地ひとつ隔てた場所に『スラ ム』と呼ばれる一帯があった。
本国ほどではないものの、時には命の危険もあり得る場所だったので、進んでそこへ足を踏み入れる事は無かった が、『マリア』として演奏に訪れたり通りかかったりする時もあったので、自然とトラブルへの対処や回避法を身 に着けてしまっただけだ。
そして、「基本、必要以上に目を合わせるな。絡まれたらさっさと逃げろ」だが、どうしようもない場合に は、出来るだけ早急に相手を黙らせる手段も。
それに比べれば、こんな高校生同士の諍いなど可愛いものである。
だけど、私の尊厳にかかわる事や大切なものを傷付けたというなら、話は別だ。
──相手が誰であろうと、容赦はしない。

ニット帽を被った小柄な男を前に、私は鞄を地面に下ろして両手を自由にすると、形ばかりの構えを取った。
外国人相手なら、このハッタリが通用する事もあるのだが、あいにく今回の相手は同じ国籍の高校生なので、 男は目の前の生意気な女を倒さんと突進してくる。
「危ない!」
琉夏くんの声が聞こえたが、私は構わず男の品の無い顔を侮蔑交じりの視線でいなしながら、一歩踏み出すと拳を握り締めた。
私からパンチが繰り出されると警戒した男は、顔をはじめとする上半身をガードしようとする。
「too sweet、」
しかし、私の手の動きはフェイクだった。
上半身に意識を集中させていた男の足元に目をやった私は、もう一歩進んだ後で利き足を振りかぶり、男の向こう 脛に勢い良く己の靴先をめり込ませた。
「ぐあっ!」
「…単にファッションだけで、こんなゴツイの履いてる訳じゃないのよ。痛いでしょ?スチールキャップ付きの 靴は」
足を押さえてしゃがみ込んだ男を一瞥した私は、そのまま更に痛みにうずくまる男の肩を蹴りつけ、地面に倒した。
抗議の声を上げようとする男の真上に立つと、醜い声を続けようとしている彼の喉仏に、靴底を押し当てて黙らせる。
「ヒッ!?」
「──礼緒ちゃん!?」
「バカをやるってのはね、いつかどっかで必ず大小問わずそのツケを払ったり、落とし前つけなきゃいけなくなる 日が来るモンなのよ」
あくまで静かに語る私の様子を、男は驚愕と若干の怯えを含んだ瞳で見上げていた。
「どうやら、あなたにとってそれが今日だったみたいね。……女子高生のスカートの中身くらい、冥土の土産に幾らでも 拝ませてあげるから、せいぜい今の内に堪能しておきなさい」
もっとも、通学時はスカートの下に1分丈の黒スパッツを穿いているので、色っぽさとは無縁なのだが、体勢の不利と己 の急所に靴を押し当てられた男は、そんな余裕もないのかガタガタと全身を震わせていた。
人間、誰かに対して殺意や怒りを覚える時は、不思議と冷静になれるものだ、と聞いた事はあるが、案外 こんなものなのだろうかと、少々間抜けな考えが私の頭をよぎっていた。
「ストップ!礼緒ちゃん、それ以上はヤバイ!」
「…どうして止めるの?悪いヤツはやっつけるんでしょう?程度は違えど、普段あなたたちがやってるのと 同じ事をしているだけよ」
冷淡に返した私の言葉を聞いた琉夏くんは、虚を突かれた表情をすると黙り込んだ。
そんな子供のような彼の態度を横目で見て、私は無意識に鼻を鳴らす。
勿論、本当に止めをさす気は無いが、さてこれからどうしようかと内心で思案していると、

「何だ何だ?ケンカか?」
「おい、お前たち!警察呼んだぞ!」

騒ぎに気付いたらしき数人から、ケンカの高校生たちを咎める声の中に「警察」の単語を耳にした私は、反射的に力を緩める。
「お、おい!ずらかるぞ!来い!」
「く、くそっ!」
「ぅわっ!?」
すると、その一瞬の隙をついて、大男が背後から私を押しのけるようにしながら、倒れた仲間を助け起こすと、そのまま 一目散に逃げていった。
「俺たちも行こう!」
琉夏くんが退散を促してきたので、私も地面の荷物を拾い上げ、その場を後にした。


どうにか人ごみに紛れながら、私たちふたりは、住宅街にある小さな公園までたどり着いた。
その間、急いでいたのと妙な気まずさとで、私と琉夏くんはお互い無言のままだった。
何かを口にしかけては引っ込めるという動作を繰り返している琉夏くんと、そして私は、 彼に構う余裕もないまま公園のベンチにケースを置くと、震える手で金具を外して中を開いていた。
買ったばかりのケースには早速至る所に傷や汚れが付着していたが、肝心の楽器の方が無事だったのを確認する と、私は大きく安堵の息を吐いた。
「良かった、どこも壊れてなかった…ファイバー製のケース、グッジョブ……」
そのまま力が抜けてしまった私は、ヘナヘナとベンチに突っ伏してしまう。
『あの人』から譲り受けたトランペットのケースを叩きつけられてから、私の理性は半ば機能していない にも等しかったので、今になって漸く周囲を見渡せるようになり、私の様子に眉根を寄せている琉夏くん に気付くと、改めて己の迂闊さに自己嫌悪を覚えた。
ケースの蓋を閉じた私は、彼に向き直ると頭を下げる。
「──ごめん」
「…え?」
「自分からケンカはダメとか言っといて、あんなみっともないトコ見せちゃって、琉夏くんにも迷惑かけちゃった し…本当にごめんなさい」
昔一緒に遊んでいた女の子が、まさかあのようなド派手な立ち回りをするなど、思ってもみなかったのだろう。
半ば呆然と自分を見つめてくる彼の視線を感じていた私は、自分の不甲斐なさと恥ずかしさとで顔を上げられずにいた。
「平気。別に俺、怒ってないよ。ちょっとビックリしただけ」
暫くの沈黙の後、いつもと変わらない琉夏くんの声が、私の頭の上に降り注いできた。
恐る恐る上体を起こすと、興味深そうに私を眺めている彼と目が合う。
「ところでさ…礼緒ちゃんって、元ヤンか何か?」
「え?インターナショナルスクールにいたのに、ヤンキーも何もないと思うけど」
「だって、随分場慣れしてるっぽかったから。何かその筋の人も真っ青!ってカンジで」
「…やめてよ。ただ、以前住んでたトコがちょっと物騒だったから、対策を知ってるだけ。上手くい ったから良かったけど、半分以上がハッタリよ」
先程は勢いで誤魔化せたけど、ちょっとでも粘られたり隙をつかれようものなら、あっという間に形勢逆転だっただろう。
むしろ、彼らが逃げてくれたので、助かったくらいだ。
「…ねえ、礼緒ちゃん」
もう一度呼びかけられて、私は再度琉夏くんを見る。
「俺、帰れって言ったのに、どうして戻ってきたの?」
「それは…」
何処か人を寄せ付けない、それでいて不安げに揺れている琉夏くんの瞳を、私は彼が不快にならない程度に見据えた。
関わらないようにしようと思っていた。
はば学もこの街も、仮住まいの場所にしようと割り切っていた筈だった。
だけど、私は自分の心に嘘を吐いてまでその主張を貫こうという気持ちは、もはや薄れていた。
その切欠を作ったのは、やはり彼ら兄弟なのだろうか。

「──貴方も琥一くんも、私の大切な友達だから。友達を見捨てる事は、この『蔵田礼緒』の信条に反するもの」

胸に手を当てて答える私を、琉夏くんは僅かに目を細めながら見つめ返して来た。
「……何だかさ。礼緒ちゃんって、随分大人っぽくなったんだね」
おもむろにそう切り出され、私は目を丸くさせる。
「そうかしら?自分では、まだまだだと思ってるけど」
「大人だよ。少なくとも、俺なんかよりはずっと。…俺、礼緒ちゃんがさっき言ってたバカのツケ、払えそうにないもん」
「私だってそうだよ。ただ…最初からそのツケを踏み倒そうとはしたくないだけで」
その頃には、『礼緒』と『マリア』の事も決着がついているのだろうか。
少なくとも、5年後10年後の自分が「これが過去から続いた今の私だ」と、胸を張れるようにはなりたい。
きっとこのはばたきでの生活は、そんな自分に課せられた未来への宿題のようなものかも知れない。
ならば、3年間かけて可能な限り納得の行くものが提出出来るようにしよう。
楽器のケースを抱きしめながら、私は改めて心の中でそう誓った。
「…大丈夫?それ、何だか随分大事なものみたいだけど」
私の様子に気付いた琉夏くんが、やや遠慮がちに問いかけてきた。
「ん?ああ、中身は無事だったから平気よ。大体ケースなんて、汚れてナンボだし」
「だけど、それおニューっぽくない?早速派手な傷付いちゃったね…そうだ、」
これ、と言いながら琉夏くんが制服のポケットから差し出してきたのは、随分と可愛らしいデザインの水色の絆創膏だった。
「バイト先で貰ったんだ。修理は出来ないけど、傷隠しくらいなら…」
些か稚拙な申し出だったが、不思議と今の私には、そう悪くないと思えた。
礼を言って受け取ると、ケースの側面についた傷の上に貼り付ける。
「うふふ。これなら、誰かのケースと混ざった時にも判り易くていいかも」
「でしょ?」
「うん、有難う。──『親愛なるSt.Luke』」
「…え?」
私の言葉が意外だったのか、琉夏くんは無防備な表情のまま数回目を瞬かせた。
「病院のシンボルとかでも有名なSt.Luke。読み方を変えればルカ。さしずめ琉夏くんは、私のケースのお医 者様ってトコね」
大分西日が傾いてきたので、私は荷物を抱え直すと琉夏くんに帰りましょう、と声を掛ける。
夕闇に照らされていた琉夏くんは、暫くその場で立ちすくんでいたが、何処か嬉しそうな表情で、小走り に駆け寄って来た。
「取りあえず…琉夏くん、今後不必要なトラブルは控えるようにね」
「うん。特に礼緒ちゃんと一緒にいる時は。余多高のヤツら相当ビビッてたし、礼緒ちゃんは怒らせちゃい けないってのがよく判った」
「もう!私が一緒じゃない時も!」
「も、ね。はいはい、了解。でも、礼緒ちゃんも危ない事しちゃダメだよ」
「しないわよ!今日のはemergencyだっただけ!」
「ウソだあ」
「ホントだってば!」


琥一くんじゃないが、世話の焼ける弟を持ったような気分になりながら、私は、かなりやんちゃな『はばた きのSt.Luke』と、家に到着するまでの間、絶える事無く会話に花を咲かせていた。


主人公の靴は、ド○ターマ○チンをイメージして下されば。
……果たしてあれが、学校に履いてってOKなのかどうかは不明。