『その7・マリアと、水際のヤマアラシ』 学校によってまちまちだとは思うけれど、はばたき学園の吹奏学部は、一応「走る文化部」にカテゴライズされている。 その言葉の意味とは、2週間に1度という非常にのんびりとしたスパンではあるが、肺活量その他を鍛える名目として その日の活動のみ楽器は一切持たず、体操着やジャージ姿でグラウンドを始め学校の敷地内を、運動部とは似ても似 つかぬペースとスピードで走り続けるのだ。 そして、その日は当たり前のように顧問の氷室先生とトレーナー係の設楽先輩は、不在になるのだが。 「はあ、はあ…もうダメ〜。蔵田さん、随分余裕そうだけど、中学の頃運動部だったの?」 「え?ううん。ただ、時々走ったりロードバイクで遠出してるから」 「へー、すごーい」 「そ、そうかな…」 部活仲間の息切れ交じりの質問に答えながら、私は、運動の苦手そうな彼女の姿を横目に走り続けていた。 思えば、『あの人』から音楽を教わった当初から体を鍛えるよう言われていたのと、日本人よりもやたら健康維持を 意識しまくるインターナショナルスクールの友人達のお陰で、自然とそうした習慣が身に付いているだけである。 そんな私にとって、この程度の運動はロードワークと呼ぶには程遠い。 はばたき市に戻ってからというもの、こちらと前の街との両方を行き来する事が多くなって来たので、もう少しト レーニングの量を増やす必要があるかも知れない。 (でも、そうした方面について私はシロウトだからなあ…何か効果的なトレーニング、あるといいけど) 「蔵田さ〜ん、待ってー」 「…あ、ゴメン!ちょっと私飛ばすから、気にしないでゆっくり走ってて!」 考え事をしながら足を動かしていた私は、いつの間にか彼女との距離をかなり空けていた。 あれから、色々と体力作りについて考えていた私は、幾つかの取捨選択を繰り返した末、公園通りにある室内プールへ 足を運んでいた。 「水泳はあんまり得意じゃないけど、まあ水の中歩くだけでも運動になるし、肺活量アップにも良い…かなあ?」 ジムなどでのトレーニングも考えていたが、それらは時間帯や金銭的な理由から諦めざるを得なかったので、結局はい つも通りのロードワークかコレしか他に思い浮かばなかった訳なのだが。 更衣室でスポーツ用のセパレート水着に着替えた私は、平日の夕方ゆえか人もまばらなプールで泳ぎ始めた。 苦手とまではいかないが、専門とは程遠いストロークでのろのろと水面を進み続ける。 時折身体の動きを感じ取りながら、私は頭の中で様々な思考を反芻させていた。 あの街で、『あの人』から教わった音楽を演奏出来ればそれでよかったのに、1年足らずの内に私のそれまでの環境は ガラリと変わり始めている。 それは、自分にとってプラスな事なのだろうか? 両親や氷室先生からの条件を付けられた私は、結局大人の言いなりになって、『あの人』が育て上げてくれた『マリア』 を蔑ろにしているのではないだろうか? 『マリア』は、私の筈である。 そして、本来の私である『礼緒』も。 だけど、今の私はどちらなのだろう? 「っぷ、」 考え事をしながら泳いでいた私は、息継ぎを失敗してしまったので、そのまま立ち上がろうとした。 しかし、いつの間にかプールのかなり中央まで進んでいた私は、そこの水深を甘く見ていた。 予想以上の深さに慌てて引き返そうとしたが、無理に動かそうとした足は当然言う事を聞く筈がなく、 程なくしてふくらはぎの筋肉に引きつれるような痛みを覚えた。 「しまっ…!」 制御を失った私の身体が、不自然な飛沫を立てながら水中に引きずり込まれる。 遠くに見えるプールサイドに必死に手を伸ばすも、当然そこまでは届かない。 致命的な状況に冷静さを失った私が、溺れ混じりに叫ぼうとした瞬間、 「おい、聞こえるか!?しっかりしろ!」 不意に、背後から力強い男性の声と腕が、私の身体を水中から救い上げた。 「ぁ…」 「もう大丈夫だ。いいから、そのままもたれてろ」 軽く咳き込みながら周囲を見渡すと、私を支えている男性を誘導するように、プールサイドに数人のスタッフが 集まっている。 どうやら、私は寸での所をプールの監視員に見つけて貰って、保護されたようだ。 プールから引き上げられた私は、情けなさと恥ずかしさで俯きながら謝罪した。 「すみません……ご迷惑をおかけしました」 「怪我はありませんか?念の為にこれから救護室へ行きましょう。キミ、お願い出来る?」 「うっス。お前、平気か?何だったら抱き上げてくかおぶってってやるけど?」 「え!い、いいです!あ、でも…肩だけ貸して下さい」 水温の冷たさから開放された足は、だいぶ回復しかけていたが、助けてくれた監視員の思わぬ発言を 聞いて、私は咄嗟に辞退する。 「…ふーん。まあ、いいならいいけど。ホラ、行くぞ」 私の右腕を取りながら、監視員の男性は私の身体を支えながらゆっくりと立ち上がった。 「じゃあ、俺連れてきますから、その間代わりお願いします」 「判った。後は頼んだよ、不二山くん」 「ウス」 「…不二山?」 男性の同僚の口から発せられた名前に、私は思わず声を上げた。 「…ん?ああ、俺の名前だけどそれが…って、あれ、もしかしてお前、同じクラスの…」 私の顔を一瞥した男性は、直後何処か思い当たったように表情を変える。 「やっぱり。貴方、不二山嵐くん…よね?」 「そういうお前は、確か蔵田…蔵田……」 「──礼緒」 「そうだ、蔵田礼緒。思い出した。どっか男っぽい名前のヤツ」 「……」 そう言って悪びれなく笑った不二山くんを、私は気恥ずかしさ半分複雑さ半分で見つめ返した。 救護室に着いた頃には、私の足の痛みは殆ど治っていたが、大事を取って今日の所はこのまま引き上げる事にした。 未だバイトの時間が残っているという不二山くんに、助けてくれた礼をしたいと申し出ると、「それなら、明日 何か奢ってくれ」と返されたので、翌日の昼休みに一緒に学食へ行く事にした。 「改めて、昨日は助けてくれて有難う」 購買のパンと持参したマグボトルを前に、私は彼にもう一度礼を言う。 「おう。でも、何だってひとりでプールにいたんだ?」 「うーん、筋トレと肺活量の強化…かなあ、一応」 「何だそりゃ?お前、運動部じゃねーじゃん」 「…そうですよ。だからこそ、必要なんじゃないですか」 彼の前で敬語口調になってしまったのを可笑しく感じながらも、私は自分の『秘密』の部分を除いた 大まかな状況について不二山くんに説明した。 「……という訳でして。肺活量以外に腕やその他筋肉を鍛えた方が良いのは判ってるんですけど、具体的な方 法まではどうも…」 「なるほどなあ。そういや前にTVで、体力や筋力維持で時々ジムに通ってるっていう外国人ピアニストの 話題があったっけ」 私がお礼として奢った大盛りのカツカレーをあっという間に平らげていた不二山くんは、空の皿を横にどけると 何故か無遠慮に私を眺め回してきた。 「…な、何ですか」 「へぇ、お前って案外体格しっかりしてんのな」 「……それは、ほめ言葉と受け取っていいんでしょうか?」 「ああ。そうだ、お前さえ良ければ放課後ウチの部に来いよ」 「…部?」 「と言っても同好会だけどな。部員もやっとボチボチ集まった程度」 そういえば入学して間もない頃、校門の前でビラ配りをしていた彼の姿を見かけたような気がする。 今日は吹奏楽部の全体練習もないし、ここは専門である彼の教えを請うのも悪くないかも知れない。 「じゃあ、お言葉に甘えてお願いしてもいいですか?」 「おう、じゃまた放課後にな。ちゃんと体操着で来いよ」 HR終了後。 不二山くんに教えられた通り、校庭のはずれに位置する簡素なプレハブ前まで足を運んだ私は、既に柔道着姿で 待っていた彼に出迎えられた。 「よう。ちゃんと着替えてきたな」 「ええ」 「よし、じゃあこっち来いよ。軽いストレッチしながらお前の身体の具合、見てやるから」 顎を動かしてプレハブを示す不二山くんに、私は一瞬だけ躊躇した。 「そっち、道場ですよね?いいんですか?部外者が入っても」 「いいんだ、部員の俺がいいっつってんだから。それに地べたでやるよりも服、汚れないぞ?」 「まあ、そうなんですが」 入口で靴を脱いだ私は、プレハブのドアから中の道場へと足を進ませる。 「よし。じゃ、最初は軽く柔軟からいくぞ」 不二山くんの指導でトレーニングを開始した私は、その数分後、己が下した決断を痛烈に後悔する事となった。 「ちょ…Stop it!痛い痛い痛い!」 「あー、やっぱな。お前、利き手と反対側の筋肉、弱すぎ」 それまで私のストレッチを何気なく見ていた不二山くんだったが、おもむろに立ち上がったかと思いきや、 普段あまり使わない左側の柔軟の際、容赦なく私の身体を押してきたのだ。 確かに「痛気持ち良い」というのが効果的なストレッチとは聞くが、ハッキリ言ってこれがそれに該当するのか は、怪しさ満載である。 「ブラスバンドって、重い楽器や太鼓叩いてるヤツならそれを支える筋肉も必要だろうけど、お前の場合は、俺 らスポーツやってる人間と同じ筋トレしても、あんまり意味はないと思うぜ?」 「じゃあ、どうすればいいんですか…って、あいたっ!」 「体力づくりの走りこみは悪い事じゃねーから、その際緩急つけてやったり、やみくもに腹筋繰り返すよりは、インナ ーマッスル鍛える為にも腹式呼吸や背筋とのバランスも考えるといいぞ。腹筋背筋のバランス悪ぃと腰痛の原因にもなるからな」 拷問にも等しい姿勢の拘束から開放された私は、二、三度荒く息を吐く。 「何だ?もうへばったのか?」 だらしなく畳にひっくり返ってしまった私を、何処か面白そうに見下ろしてきた彼の小憎らしい表情に、私は心の中で 「この人、絶対Sの気質だ」と悪態をついていた。 体験教室にしては過酷ともいえる不二山くんとのトレーニングを終えた私は、疲れた身体を引きずりなが らも、再び制服に着替え直す為に教室へと向かった。 途中で、同じ部活の仲間とすれ違い「新しい楽譜が出来たから、音楽室まで取りに行くといい」と言わ れたので、着替えた後で音楽室へ寄る事にした。 ノックをして中に入ると、珍しくピアノを弾いていない設楽先輩が、夕陽を浴びながら窓辺に佇んでいた。 「…ん?お前か」 「どうも」 軽く会釈をしながら、私は机上に並べられていた楽譜から自分のパートを取ると、そのまま音楽室を後にしようとしたが、 「待てよ」 「…何か?」 サックスケースの一件以来、何となく顔を合わせづらかった私は、訝しげに振り返る。 「ちょっと、話したい事がある」 「貴方が?私に?」 「そこまで警戒しなくてもいいだろう。…『ブルースのマリア』」 続けられた科白の語尾にあった名前を耳にした私は、僅かに眉根を寄せる。 「氷室先生から聞いたんだ。意外とお喋りなのね、あの人」 「誤解の無いように言うが、氷室先生はお前の事を『ジャズマスターの後継者』としか話さなかった。あれから俺が個 人的に調べて、お前の事を知っただけだ」 「……」 ピアノの椅子に腰掛けた設楽先輩を見て、私も空いている椅子に腰を下ろした。 暫くそのままふたりで窓越しに夕焼けを眺めていたが、不意に視線が合い、もう一度設楽先輩が声を掛けて来た。 「『ジャズマスター』の事は…残念だったな」 僅かに気遣うかのような彼の声音に、私は素直に頷きを返す。 「貴方も、残念だったわね。『ジャズマスター』の後継者が、こんな人間で幻滅したんじゃない?」 「まあ、初対面からこの俺に対してあそこまでの暴言を吐いたヤツなんて、男でも女でもお前がはじめてだったか らな。…だが、音楽家にとってはそんなのは二の次だろう?」 小首を傾げる私に、設楽先輩は意図的に口元を綻ばせて来る。 「どんな最低なヤツだろうが、演奏が良ければそれでいい。…お前が俺に言った事だ。そして、俺はお前の音楽がどんな ものか知りたい」 「私の?そんなの部活でしょっちゅう聴いてるじゃないですか」 「そっちじゃない。俺が聴きたいのは『マリア』の演奏だ」 ピアノの鍵盤を叩きながら曰くありげな視線を向けてきた設楽先輩に、私は表情を皮肉気に歪めた。 「…なるほど。それが普段のお前に隠された、もうひとつのお前の顔か」 「さあ…それよりも、クラシック畑の貴方に『マリア』の相手が務まるの?」 「ジャンルはどうであれ、興味のあるものには触れたいと思うのが、音楽家の性だ。そしてお前は、それに値する 人間だと思ってる」 「──言うじゃない。確かに言葉で語るよりは、手っ取り早くていいかもね」 彼の挑発ともいえる言動に乗ってみたいと思った私は、楽器倉庫から練習用のトランペットを借りると、慣れた手つきで 組み立てた。 「本当は、『マスター』の楽器を持ったお前とやれれば良かったんだが」 「貴方のピアノも、完全ではないんでしょう?だったら、この程度で充分よ」 「言ってくれるな」 「Same to you(お互い様でしょ)」 マウスピースや楽器の状態を確かめた私は、彼から音を貰ってチューニングをする。 そして、初対面の時よりも確実に音にツヤと伸びが出てきた彼の伴奏に合わせて、私は「歌曲の王」とのあだ名を持つ 作曲家のセレナーデを、ジャズ調にアレンジしながら吹き始めた。 ほぼ日課と化したひとつ年上の先輩のピアノを聴きに、音楽室へ近づいた不二山嵐は、そこで思わぬ光景に出くわした。 いつものような規則正しいピアノの旋律とは打って変わった、彼にとっては初めて耳にする類の音楽が、しかし嫌味も無く 思いのほかするりと彼の中へと浸透していく。 そして、そんなピアノに合わせて聴こえて来るトランペットの音色は。 「へぇ…あいつ、あんな顔も出来んだ。…何か、まだ腹に一物持ってそうなカンジ……面白れぇの」 彼らに気付かれぬよう、音楽室のドアにそっともたれながら、不二山はふたりの演奏を堪能していた。 |