『プロローグその1・海と私とブルースと誰か』


物心ついた時から、私の傍には絶えず海があった。

ついこの間まで住んでいた、大きな港と外国の基地がある国際都市と呼ばれる所もそうだし、 幼少期を過ごし、そして何年かぶりに戻ってきたこのはばたき市も、美しい海に 囲まれた穏やかな街だ。
あいにく本日の天候に恵まれなかった空と海は、通常の青を失い薄墨のモノトーンに包まれていたが。
そんなほの暗い海を見つめていると、まるで今の自分の心を映しているような気がして、私は口 元を皮肉っぽく歪める。

親の仕事の都合で幼い頃にはばたき市から引っ越しをした私は、仕事柄グローバルな考えを持つ両親 のすすめで、義務教育の期間をインターナショナルスクールで学んでいた。
日本の教育から外れてしまうのではという不安がない訳でもなかったが、そこでの生活は本当 に楽しいもので、大げさかもしれないが、私の人生にかなりの影響と刺激を与えてくれたと思う。
ところが。
そんな生活を謳歌していた私に、突如投げ付けられた両親の言葉。
こちらでの仕事が予想以上に早く片付いたので、私の高校進学を機にはばたき市へ戻る事。
そして、その際私に今の学校を辞め、私立はばたき学園の受験を命じてきた事だ。
確かに今の学校は、はばたき市からは遠くなるが、決して通えない距離ではないのに。
何故だ、自分達からこの学校に入れたくせに、今更勝手を言わないで欲しいと 反発する私に、両親は些か厳しい表情で私に返してきた。

「私たちは、年若く人生の経験も浅い未熟なお前を、あのような生活を続けさせる為にイン ターへ行かせた訳ではない。お前自身の為にも、高校の3年間は日本の学校で 勉強をしなさい」と。

あのような生活、と聞いて、私は反射的に肩をすくめた。
彼らの言うとおり、私が『あそこ』でやっていた事は、お世辞にも健全とは言い難いモノだからだ。
しかし、同時に私が『あそこ』で得たもの、培ってきたものは、決して生半可な気持ちからしていた訳でもない。
それを主張すると、両親は予測がついていたのか、最低限の譲歩として更に言葉を続けてきたのだった。

「ならば、big head(うぬぼれ屋)にならぬよう、けじめをつけなさい。お前が『マリア』を貫きたい のなら、同時に『礼緒(れお)』としての自我も確立させるんだ」

理にかなった彼らの言葉に、そこまで我を通す度胸や気力もなかった私は、半分不貞腐れなが ら慣れない受験勉強をして、どうにかはばたき学園の高等部に合格する事が出来た。
そして今日も、入学前の学校説明会と教科書などを受け取った帰りに、この海岸まで寄り道をしていたのである。


私には、もうひとつの名前がある。
『マリア』
元々は私の洗礼名だが、あの街では女だてらにブルースを奏でる少々謎めいた存在として、密かに広まっている。
スクールのクラスメイトたちがいる外国人居住エリアで、私はあるひとりの老人と出会い、彼の手ほ どきでジャズを知った。
始めは息や唇の遣い方も覚束無かったが、彼から漂う人生の深みやそれを表現するジャズの魅力にすっかりハマ ってしまった私は、中学に上がる頃には彼の拠点であったジャズバーで、戯れ半分ではあるが前座を 認めてもらえるようにもなった。
その際、本名を隠す為に採用された芸名だったが、演奏を繰り返す内に『マリア』の名は、徐々に知れ 渡るようになっていった。
そんな矢先。
私の師匠とも言うべき老人が病に倒れ、そのまま専用の施設へ入院する事になった。
「もう会う事はないだろうから」と、彼は別れ際、己の命の次に大事とも言えるトランペットとブル ースハープを私に譲ってくれたのだ。
やせ細った身体とは対照的に、力強い青い瞳で見つめてきた彼を目の当たりにして、私はこの人 から教わった事を無駄にはしたくないと思った。
──彼が与えてくれた音楽を、魂を、失わせてはならない。
そんな漠然とした想いに駆られた私は、以来学校が終わるとバーに入り浸り、彼の残した楽器を鳴らし続けていた。
遅くなりそうな時は友人たちに口裏を合わせてもらい、来る日も来る日も演奏を繰り返す私の姿を見て、 街の人々は「『マリア』という、あの男の後継者が現れた」とはやし立てるまでになった。
その後、娘の異常に気づいた両親に止められるまで、私はまるで取り憑かれたように彼の楽器を奏でていたのだった。


それまでだらしなく坐り込んでいた砂浜から立ち上がると、私は懐から使い込まれたブルースハープを取り出した。
あの街の仲間からは「いつでも戻って来い。必要な時にはこちらからも連絡する」と言ってもらえたが、やはり これまで毎日のように顔を合わせていた皆と会えなくなったのは、少し寂しい。
はばたき市の海は好きだけど、私はこれからここでどんな生活を送れば良いのだろう?
負の感情からため息が漏れそうになるのを堪えると、私は代わりにブルースハープに息を送り込む。
暗雲立ち込める今の空と海には、この曲が何となく似合うかも知れない。
思いながら私のブルースハープからは、半世紀近く昔のメロディが流れ出していた。
黒人の弟を殺された兄が犯人たちに復讐をする、という映画に使われた哀しきブルースが、薄曇りの海岸に 何処かむなしく響き渡る。

と、

カツン。

不意に乾いた音を耳にした私は、次いで背後に人の気配を感じて、思わず手を止めると僅かに首を動かした。
潮風に煽られた私の髪が半ば視界を遮っていたが、隙間からこちらを見ているとおぼしき人影を確認する。
「!?」
詳細までは判らなかったが、そこにいたのは、古めかしく言えば6尺は優に超えているであろう男の 姿だった。
こちらを何か値踏みでもしているのか首を傾げながら、その男はやがてゆっくりと歩を進めてくる。
「す、スミマセン!さよならっ!」
「…あ?オイ!」
低く呼び止める男の声に構わず、私はブルースハープをしまうと、その場に置いていた荷物を持って 一目散に駆け出した。
これまでにも海岸などでひとり練習をしていると、タチの悪いナンパや理不尽なショバ代とやらを要求し てくる地廻りモドキの方々に遭遇した経験上、こういう時は退散するに限るという事を痛感していたからだ。
「全力で走れ」という何処かの唄の歌詞が聴こえたような気がしたが、私は脇目もふらずに道路に続く階段を 駆け上がると、運良くこちらに向かってきたバスに飛び乗った。


「お待たせ。あれ?どうしたの?」
コンビニでの用事を済ませた少年は、それまで自分が待たせていた相手が砂浜まで移動している事に気 づくと、「トゥッ!」と勢いをつけて彼の元へと文字通り飛び降りた。
「おお。いや、ちょっとな…」
「何々?コウ好みのダイナマイト美女でもいたとか?」
「バカ、ンなんじゃねぇ」
コウと呼ばれた長身の男は、興味津々といった表情で己を見つめてくる少年を鬱陶し気にあしらうと、

(あのブルース…女にしちゃ結構イイ音出してたんだがな……)

慌しく目の前から消えてしまったブルースハーピストの残した音と姿を、些か惜しむように脳裏で反芻させていた。