『プロローグその2・追憶の森と私と誰か』


引越しやご近所への挨拶など、はばたき市に戻ってから大まかな事を済ませ、いよいよ明日は入学式。

「今日中に、そのだらしなさ過ぎな髪を何とかしてらっしゃい」

無造作に伸び放題な私の髪を指しながら、呆れ顔の母親が、数枚の紙幣と美容院のクーポン券をさし出してきた。
一応、結べばノープロブレムだと反論するも、更に髪をひと房引っ張られた私は、渋々彼女から紙幣その他を 受け取ると、そこに書かれた地図を頼りに繁華街まで足を運ぶ。
どのくらい切っても良いか、と尋ねてくる美容師に暫し頭の中で考えると、
「完全ショートはNGですけど、可能な範囲でバッサリやっちゃって下さい」
と答えた。
数10分後。
鏡の向こうでは、肩口辺りまで髪を切り揃えられた私が、何処かスッキリとした表情で、照れく さそうな笑みを浮かべていた。


軽くなった髪を春の風になびかせながら、店を出た私はそのまま辺りを散策する事にした。
ここまで髪を短くしたのは、子供の頃以来だ。
『マリア』を貫きたいのなら、ちゃんと『礼緒(れお)』としてのけじめもつけろ、と両親は言った。
久方ぶりの髪型をした今の姿は、これからの『礼緒』にある意味相応しいのかも知れない。
「どうせ『マリア』の時は、帽子とサングラスで顔見せないようにしてるし、いざとなれば ウィッグ着ければいいしね」
先程、早速前の街の仲間から「場所は未定だが、GWにセッションが決まった。詳 細はまた後日」との連絡を受けたのも手伝い、私の心は髪と共に一気に軽くなったような気がする。
あの街のみんなから離れたばかりの時は、正直どうしようかと思っていたが、必要以上に心配するほどの事では なさそうに思えてきた。
はばたき市から行き来出来ない距離ではないし、頻度は減ってもこれからも彼らとの交流は続いていくのだろう。
そのまま勢いに任せて更に足を動かすと、私は海岸通りまで移動した。


「…あれ?」
西日が傾き始めた海岸線をうろつきながら、私は自分が道に迷っている事に気付いた。
「確かここを抜けたら繁華街のはず…え、違う?そ、そうだバスなら…バス停!時刻表 は…って、ウソ!?さっき行ったばっか!?」
行きに携帯していた地図は、とっくに美容院のクーポン券と一緒に提出してしまったし、幼少の記憶と今の 街並みはやはり若干違う所があり、信用する事は出来なかった。
住宅街らしき建物を目指しながら頼りなげに進む私の眼前に、やがて小さな森が見えてきた。
彼岸を過ぎてから段々と日が長くなってきたのも手伝って、辺りは未だ美しいバーミリオンに包まれている。
「今までの道は全部違ってたし…ここを通れば帰れるかも知れない」
親に連絡するのは最終手段、と一縷の望みにかけた私は、勇気を振り絞ってその森を駆け抜ける。
暫く走った後、急に視界が開けたかと思いきや、

「あ」

そこには、まるでお伽話か何かに登場するかのような教会が、静かに佇んでいた。
同時に、私の意識の水面下で、何かが語りかけてくるような感じを覚える。
「何だろ…私、ここに来た事あるような……?」
幾重ものツタが絡まった建物は、それでも美しい景観を誇っていて、いつしか私は無意識の内に 歩を進めていた。
古い木製の扉まであと少しという所まで近づいた直後、

「今は、ダメだ」

鳥の羽音と共に、私の頭上から声が降ってきた。

塀の上からこちらを見下ろしていたのは、ひとりの青年だった。
夕陽を背に受けた彼の髪は白金色に輝き、儚さと強さが同居したような佇まいと存在感は、何故だか私の 好奇心を擽られた。
暫し、吸い込まれるように彼の目を見つめていると、やがてそれを避けるかのように反らされてしまう。
「スミマセン。私、道に迷って…」
「…何であやまるの?」
「だってあなた、ここの教会の方でしょう?私、勝手に敷地内に入っちゃったし」
「ううん、俺も迷子」
「?」
今ひとつ要領の得ない彼の発言に首を傾げていると、そんな私の様子がおかしかったのか、彼の口から くすりと笑う声が聴こえてきた。
「鍵がかかってる。中には入れないよ」
教会の扉を指さしながら、笑いを収めた彼は私に説明する。
言う通り、古めかしい扉はしっかりと閉ざされていて、侵入は出来そうにない。
「…そっか、残念。これがオルガンやピアノだったら、下敷き使えば簡単なんだけどね。見つか ったら大目玉というリスク付きだけど」
「あ、それ俺も昔やった事ある」
私の言葉に、彼は一瞬いたずらっ子のような表情をしたが、

「鍵が、必要なんだ」

視線を再び扉に移すと、神聖なモノを見つめるというよりは、寧ろ何かに思いを馳せているような眼差し を送り続けていた。


彼のお蔭で家に帰り着く事が出来た私は、その夜懐かしい夢を見た。
はにむような笑顔と、何処か寂しそうな瞳を持つ男の子と、大柄でちょっと乱暴だけど優しい目をした 男の子と遊ぶ、幼き日の自分。


──彼らは、今どうしているのだろう。