『同じだけど、ちょっと違う夏の夜』


夕暮れのバス停に到着した私を見て、彼はほんの僅かに瞳孔を開いていた。
「こんばんは。待たせちゃいました?」
「ううん、まだ時間前。俺が早すぎただけだから」
「よかった。じゃあ行きましょう、嵐さん」
「ああ」
丁度やって来たはばたき城方面のバスに乗り込んだ私達は、二人掛けのシートに腰掛ける と、久々に互いの姿が見られた事に表情を和らげる。
「帯、大丈夫か?何で祭りでもないのに、浴衣……」
「潰れない結び方にしてあるから、平気です。嵐さんから『今年もホタルを見に 行こう』って誘われた時から着て行こうと思ってたんですよ」
「そっか。…そういえば、浴衣の柄もホタルだな」
「ひょっとして、似合ってませんか?」
「いや、似合ってる。似合ってるけど……」
ちょっと歯切れの悪そうな嵐さんの横顔を、私は少しだけ微笑ましく盗み見た。

高校卒業後私は一流大学、嵐さんは一流体育大学と別々の道を進んだため、以前よりも 会える回数がグッと減ってしまった。
学業以外にも嵐さんは柔道、私は以前よりも頻度が増えた演奏活動などもあって、まめ に電話やメールはしているものの、こうして実際に顔を合わせるのは半月ぶりだ。
特に夏はふたりとも試合や大会、音楽フェスなど特有の行事が目白押しなので、休みを 確保するのもひと苦労である。
それでも、彼の変わらぬ様子に私はホッとすると、つい甘えたくなってしまった。
バスの揺れに紛れて、彼の肩口へとコテンと寄りかかるような仕草をする。
「コラ、何だ甘ったれ」
「だって、私やっと嵐さんに会えたんですよ。少し位いいじゃないですか」
「そんなら、浴衣着て来なくても…」
「?」
「何でもねえ。あ、ホラ着いたぞ。足元気をつけろよ」
目的の停留所に到着した私は、嵐さんに手を引かれながらバスを降りて、はばたき城から少し 離れた所にある、ホタルの生息地へと移動した。

「ああ…」
慎ましくも美しく生命の光を灯し続けるホタルの群れに、私は短く感嘆の声を上げる。
穏やかな顔でその光景を眺める嵐さんと、携帯した団扇でホタル狩りの真似をする私以外には誰もおらず、 川のせせらぎや虫の声が静寂に嫌味のないBGMをつけているだけだ。
「良かった。今年も一緒に来れて」
「ええ、本当に…嵐さんの一体大、今大会の真っ最中ですからね。この間の試合、見に行けなくてゴメ ンなさい」
「いいよ。お前も忙しいんだろ」
「でも、家のケーブルTVの試合中継録画したヤツは見たんですよ。終了間際の大逆転袖釣り込み腰、見事でし た。来月の試合は、ちゃんと応援に行きますからね」
「え、確かその日って、お前ジャズフェスティバル…とかがあるんじゃねえのか?」
「嵐さんたちの試合もジャズフェスも、会場は同じはばたきの臨海地区ですから。夜に間に 合えばOKです。リハーサルも、ちょっとお願いして融通きかせて貰っちゃいました」
「そんな事出来るのか?」
「いつもは絶対言わないワガママですから、何とか。こう見えても『マリア』は顔が利くんですよ」

私の秘密であった『マリア』の正体を彼に晒したのは、3年目のクリスマスパーティだった。
理事長や一部先生方のはからいで、パーティの飛び入りゲストとして演奏に参加させて貰ったの だが、その後コッソリ嵐さんを呼び出した私は、彼の前で『マリア』の扮装を解き、すべてを話したのである。
普段何事にも動じない彼の思い切り度肝を抜かれたような顔は、今でも私の記憶に焼き付いている。(彼曰く 「だって、あそこまで変わってたらフツーわかんねーだろうが」らしいけど)

「お前さ、ライブ中にやたらと他の演奏者や客と抱き合うのやめろよな。特にこの間の外人、ぜって ーお前に気があるぞ?」
「あれは後援会の方ですから。普段お世話になってる手前、邪険には出来な いんですよ。…それを言うなら嵐さんだって、一体付属の女子高生やその他女の子たちから、黄色い声 援だけでなくプレゼントやラブレター貰ってるじゃないですか」
「……あれはただの差し入れとファンレター。お前みたいに『マリア、アイラブユー』とか言われてる 訳じゃねえよ」
「『アイラブユー』なんて、普通に家族間でも交わす会話じゃないですか!」
「じゃあお前、俺にも気軽に言えるのか?」
「え?それは…」
ずい、と詰め寄られて私は咄嗟に団扇で眼前を覆うと、そのまま数歩後ずさる。
「コラ、それどけろ。で、ちゃんと俺を見ろ」
「い、嫌です」
「どけないんだったら、無理やり剥がすぞ」
「わーっ!判った!判りましたから!」
大接近してきた嵐さんの「本気と書いてマジ」な様が、団扇越しからでもひしひしと感じられて、 観念した私は手をどけた。
何か悪巧みしているような笑顔を浮かべたまま、まんじりとこちら見ている嵐さんは、きっと私の困惑した 照れ顔が面白いに違いない。
少々癪だとは思うけれど、仕方ない。
何だかんだ言って私はこの男(ひと)が大好きなのだ。
「──私は、」
「ん?」
「私はそんな手軽な言葉だけで、嵐さんに自分の気持を伝えたくなんかないです」
照れ隠しに俯く私の頬は、きっと夜目にも染まっているのが判るだろう。
そんな私の前まで近づいてきた嵐さんは、
「俺もだ。お前への気持ちを、ひと言だけで片付けたくなんかねえ」
逞しい彼の胸に抱かれた私は、彼の熱い体温といつもより早い心音を直に感じて、落ち着くどころか 益々頬を赤らめた。
暫しそのまま抱き合った後、どちらともなく顔を寄せ合い、私達はキスをかわす。
はじめは軽く唇を触れ合わせていたが、繰り返す度に次第に深いものへと変わっていく。
彼の唇と舌の感触を堪能している内に、私の中で燻っていた正直な欲求がはっきりと頭をもたげていくのを覚えた。
それはどうやら嵐さんも同じようで、何故か少しだけ拗ねたような表情で私の首筋に唇を当てたり、私の腰の 辺りを撫でさすってくる。
何となく彼の意図が理解出来た私は、嵐さんの耳元に顔を寄せると熱っぽい声で呼びかけた。

「…私、『グローバルな視点を持つ大和撫子』を育てたかった両親の偏り教育のおかげで、浴衣や小紋程度の脱 ぎ着なら簡単に出来るんですよ」
「…そうなのか」
「ええ、場所さえあれば」
「……じゃあ、これから俺の家来い。今日はオヤジもおふくろも旅行でいないんだ。ちゃんと後でお前ん家まで送るから」
「──はい」

去年にはなかった夜の続きに思いを馳せる私達の背中を、ホタルたちは変わらぬ様子で見送っていた。



■おまけ■
その後
「わー!何するんですか嵐さん!?」
「一度やってみたかったんだ。『ワハハ、よいではないかよいではないかーっ!』」
「あ〜〜れ〜〜〜〜っ」
というお約束展開があったかどうかは不明。