『これもまた、ひとつの未来』




自分を見下ろす男を、舞は声もなく見つめ返していた。
思わぬ現実を前にした驚愕と、それと並行した何か別の感情とが、舞の 胸を穿つ。
「舞、」
名を呼ばれ、舞は反射的に顔を上げた。
「ぁ……」
男の真っ直ぐな瞳に、舞は我に返ると表情を戻した。努めて感情を制 御しながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「貴方とは…もう、二度と会う事はないと思っていました」
「…何故だ」
「貴方は、とうの昔に『ここ』を旅立ったと思っていましたから」
舞の呟きに、男は数回その目を瞬かせた。10数年ぶりに聞いた彼女の声 を、耳の奥で暫し反芻させる。
「どうしてここにいらしたのですか?」
「──お前を探していた」
舞からの質問に、男は礼服の軍帽を被り直すと、簡潔に答えた。


『…戦争は終わった。私は、これから「人」として生きようと思う』

軍を除隊した後、市井の人間として生きる事を決めた舞は、男の前でそ の旨を告げた。
それまで彼女の従者のような立場にあった男は、主(あるじ)の決意に、 「そうか」と短く応えた。
──本当は、もっと気の利いた事を言いたかったのだが、生来の不器用 に加えて、彼女の突拍子もない申し出に、どう対処して良いのか判らな かったのである。

「私には、もう何の力もありません」
室内に訪れた奇妙な緊迫感の中で、舞はゆっくりと口を開いた。
「今の私は…軍の士気をあげる為の、ただの『お飾り司令官』です。か つて貴方が仕えていた、勇ましいまでに無謀な少女ではないのですよ。 …それでも貴方は、私の元につくおつもりですか?」
「無論だ」
ためらいがちに切り出した舞の質問に、男は短く答えた。
「昔も今も…俺は、お前以外の人間につくつもりはない」
言いながら、男は司令用のデスクを迂回しながら、舞の横に立つ。
やがて、腕を掴まれて椅子から立たされた舞は、次の瞬間、男の腕に抱き 締められた。
あの時と変わらないぬくもりと匂いに、舞は思わず胸を躍らせる。
「──会いたかった」
簡潔だが、力強い言葉と腕の感触に、舞は抗う事も忘れて、男の抱擁に身 を任せていた。


日曜日。
戦後、男女共学となった尚敬高校の体育館は、今日も、運動部の学生たち の活気に満ち溢れていた。

「…ん?」

尚敬高校バスケットボール部の監督である狩谷夏樹は、視界の端に、少年 時代の記憶を彷彿とさせる何かが、飛び込んできたのを感じた。
「あ、狩谷センセー!おはようございまーす!」
「今日は、フィアンセさんもご一緒なんですね」
ところが、部活動の生徒に声を掛けられた狩谷は、確認する事が出来なか った。
「どうしたの?」
「ああ…今、昔の仲間を見かけたような気がしたんだけど」
「…本当に?」
「気のせいだったのかな…」
ぼんやりと呟きながら、狩谷は車椅子を動かす。
「ああ、わたしがやるってば」
狩谷の様子を見た婚約者の女性は、あわてて彼の背後に立った。
「大丈夫だよ。僕が、大抵の事はひとりで出来るの、知ってるだろ?」
「それで無茶して怪我をしたら、元も子もないでしょ?」
「まったく…君は、昔から変わらないな。おせっかいな所……」
「なっちゃんが、ひとりで何でもやりすぎなの!最近は、車の運転もさせ てくれないし……いくら免許取ったからって、ちょっとはこっちを頼って くれたっていいなじゃい」
ブツブツと愚痴を零しながら、車椅子を動かす恋人に、狩谷は小さくほく そ笑む。

かつて、猜疑心の塊に満ちていた自分が、ここまで変われたのは、彼女を はじめとする、仲間たちのお陰であった。
絶望のどん底にいた自分に向かって、力強い瞳で見つめながら、ある言葉 を投げ掛けてきた少女。

「──『そなたの手には、限りなき可能性が宿っている』か……」
「…何か言った?」
「……何でも。じゃあ久々に…『体育館まで連れて行って下さい!』」
「なっちゃん……」
「くれぐれも、慎重に頼むよ。君が昔、乗り回していた物騒な車とは、 勝手が違うんだからね」
わざとおどけた口調で嘯く狩谷に、女性は嬉しそうに笑った。


「流石に、もうプレハブは残っていないのね」

休日を利用して、かつての学び舎に訪れた舞と男は、プレハブの跡地に ぽつんと建てられた記念碑を見つめていた。

『郷土の英雄たちを称えて』

無機質に彫られた文字をなぞりながら、舞は当時の記憶を、懐かしそう に回想する。
「何だか…あの頃がまるで、夢か御伽噺のようね。…でも、その方がい いのかも知れない。『悪い夢から醒めた』。そう思っていた方が……」
「舞…」
大人びた彼女の横顔を、男は僅かに目を細めながら凝視した。
「ひとつ、聞きたい事がある」
「…何かしら?」
男の呼びかけに、舞は顔を上げると、男の方を向いた。彼女の動きに合 わせて、美しく切り揃えられた黒髪が、ぱさりと音を立てる。
「…どうして、俺の前から姿を消した?」
責めるとも問いただすともつかぬ声色で、男は僅かに眉根を寄せた。

2004年。
軍の除隊と同時に、舞は自分ともうひとりの人物に、従者としての任を 解除する、と言った。
「やっと、戦わずとも良い時代を迎えたのだ。そなたたちも、自分の思う ままの道を選ぶがいい」
いつになく穏やかな口調で告げる主(あるじ)の姿に、男はあるものを感 じた。
「アナタの決めた事ならば」と、優しく頷いた別の守護者とは対照的に、 男は、ふたりきりになった時に舞に尋ねた。
たとえ軍を退いたとしても、彼女が、芝村一族の末姫であるのに変わり はない。
それなのに、何故自分たちを外そうとするのか、と。
はじめは、適当に言葉を濁していた舞だったが、なおも詰め寄ってくる 男に、とうとう根負けしたのか、ため息混じりに呟いたのだ。

「芝村でなくなる私に、つく意味などないであろう」と。

潔いまでの彼女の心意気に、男は尊敬の念と、それ以上に複雑な想いを 抱いた。
一族からも、その存在を脅威とされている人物が、その一族を離れる事 が、周囲にどれ程の影響を与えるのか。
芝村である彼女が、「人」として生きる。
それはある意味、一族に対する反逆にも取られかねない行為だったから である。

だが舞は、頑ななまでにその意志を貫いた。
男の言葉にも「もう、決めた事だから」と、ヘイゼルの瞳を細めて笑 っていた。
──しかし、その微笑みが、ほんの僅かに震えているのを目撃した瞬 間、彼の中で彼女への想いが、急激に沸き起こった。
尊敬に値する主に対する想いではない、ひとりの少女への想いが。
気が付くと、男は舞の小さな身体を抱き締めていた。
───もう、何処にも行かせたくない。
己の腕に納まった少女の身体を、男はひと晩中、離さなかった。

だが。

翌朝、男が目を醒ますと、舞の姿が忽然と消えていた。
それだけではない。数々の勲章をはじめ、何よりも芝村一族を象徴する WCOPまでもが、返却されていたというのだ。
男は、慌てて舞を追ったが、つい昨夜まで自分と共にいたはずの彼女の 行方は、杳として掴めなかった。
彼女の従兄でもある、芝村準竜師に連絡を試みたが、返ってきたのは、 素っ気無いひと言だった。

『もはや、あやつは俺の従妹などではない』

……その言葉に、男は舞が芝村一族の元を去った事を知った。


「…あの時はみな大騒ぎだったぞ。速水など、『裏事情を使ってでも、 探し出してみせる』と、息巻いていた」
「……」
「それだけではない。お前は、過去のデータを抹消し、多目的結晶の情 報も改ざんして、俺たちにアクセス出来ないよう仕向けただろう…お陰 で手間取った。お前の消息が掴めたのも、つい最近の事だ」
男のいつになく饒舌な様に、舞は内心驚きながらその声に聞き入って いた。
「あの日から…俺は、お前をずっと探し続けてきた。そんな矢先、お前 が再び軍属に就くという情報が入ったのだ…」

戦後、男は傭兵稼業を続けながら、独自に舞の調査を続けていたが、そ の道のりは難航極まるものであった。
除隊時に、舞に関するデータが全て消失していたのに加えて、名を変え て生活をしていた彼女自身による特殊なプロテクトも、彼の捜索を阻ん でいたのである。
だが、男は諦めなかった。
いつか必ず会える事を信じて、ただひたすら舞の事を探し続けていたの である。
そして。そんな彼の元に、舞の現在の名前と、軍属に復帰するという情 報が寄せられたのは、ひと月ほど前の事であった……

「何故そこまで……」
男の顔を、舞は信じられないといった表情で見上げた。
「お前が欲しかったからだ。もう、お前のいない世界など、俺には考え られなかったからだ」
「──うそ……」
「嘘じゃない」
弱々しくかぶりを振る舞に、男は、はっきりと答える。
「…気が狂うかと思ったぞ。やっと手に入れたと思っていたお前が、い なくなった時は」
「…ごめんなさい…私……」
いつしか、舞のヘイゼルの瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。
男は、そんな舞を抱き寄せると、節くれた指でその涙を拭った。
何年ぶりの彼女の温もりを、ひとしきり掌で感じると、その顎を掬って、 上を向かせる。
「もう、俺の傍を離れるな」
小さく頷いた舞の唇に、やがて彼のそれが重なった。


男と舞は、「味のれん」で昼食を済ますと、もう一度学校の門をくぐった。
「そういえば…昔、よくここで訓練をしたものね」
「…ああ」
門を入ってすぐの場所に位置する泉の前で足を止めると、舞は澄んだ水 面を懐かしそうに眺める。
「それでも、中々成果が現れてくれないものだから、アイテムに頼った事 もあったわね…あれは…何て言ったのかしら……」
右手の親指と人差し指で、顎と頬を挟んで思案する舞に、男はおもむろに 歩み寄ると、反対側の手を取った。
訝しげに男を見る舞を無視すると、
「──『指輪』だ」
言いながら、舞の左手を己の右手で包み込んだ。数秒の後、開放された舞 の薬指に、小さな指輪がはまっていた。
「良く憶えていたわね。そうそう、確か『安っぽい指輪』……」
男の返事に、笑いながら相槌を打つ舞の舌が、指輪を確認した途端に動き を止めた。
「…ちょっと待って。これ、違うわよ。こんな高価なものじゃ……」
「それで合っている」
指輪が放つ高尚な輝きに、舞は戸惑いながら男を見たが、男は何故か憮然 とした表情で首を振る。
「……お前の誕生石だろう」
「──!?」
あまりの事に、舞は思わず指輪のはまった左手を、眼前にかざす。

指の隙間から垣間見えたのは、自分と同じ位頬を染めて、そっぽを向いた 男の姿であった。


『……随分と、まわりくどい事をされたものですね』
苦笑まじりの女性の言葉に、芝村勝吏は、極めて無表情を決め込む。
『素直に「彼に会わせてやる」と、教えて差し上げればよろしかった ものを』
「──フン。あのじゃじゃ馬が、復帰を期に、再び戦いに赴く場合も ありえたからな。こうなったのは、単なる結果に過ぎぬ」
『それでも、彼女と彼に連絡をしたのは、他でもない貴方ではないです か』
モニタ越しでも判る、彼の相変わらずの性格に、女性はその瞳を好意 的に細めた。
「……まさか、あそこまで『ヤツ』が『あれ』を欲していたとは、予想 外の出来事だったからな。下手をすると、もう少しでヤツがあれの居所 を探り当てる直前まで来ていたのだし……」
『これからが大変ですわね。果たして、上層部の人間が何と言うか…』
「──たわけ」
僅かに曇った女性の美貌に向かって、勝吏は短く言い捨てる。
「あれは、もう『芝村』ではない。『田神 舞』という市井の女だ。彼女と いう名の弱者を、芝村の義務として救ったまでの事よ」
『……素直じゃないですね』
「それよりも、お飾り部署の後始末だな。……まあ、後任には当てがある。 ひとまずゆっくりと茶でも飲むとするか」
棘々しい口調とは裏腹に、何故か勝吏の表情はさばさばとしていた。



【歴史的補講】

芝村 舞は、2004年2月をもって軍を除隊、民間人となった。
彼女は、戦争から生き残ったのである。
戦後、『田神 舞』と名を改め、再建された軍に一時復帰するも、ある日突 然、彼女の部下だった男と共に、歴史の表舞台から姿を消す。

───その後の行方は、誰も知らない。


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