『スパイス』


レジャーシートを整え直すと、来須を加えた舞たち3人は、改めて食事 タイムに落ち着いた。
舞を中央に挟んで、善行と来須はその両側に腰掛ける。
「…つまり善行は、いわば『お忍び』の形で熊本に訪れていたのだ。だ から、私もそなたをはじめ、他の連中には内密にしていただけだ」
「…疑って悪かった」
舞の言葉に、来須は素直に頭を下げる。
「ちゃんと『時が来れば話す』と、言ったであろう…」
「……すまん」
「いえ。舞さんに無理を言った私が悪いのです。あなたにも、ご迷惑を お掛けしてしまいましたね」
恋人たちのやり取りを見て、善行は慌てて謝罪の言葉を紡いだ。

あの日。
準竜師の用事を済ませた舞は、雨宿りをしていた時に、とある軍務で熊 本を訪れていた善行に出会った。
ひとしきり再会を懐かしんだ後、善行から今回の自分の熊本入りのオフ レコと、極秘任務の為のカモフラージュを頼まれたのである。
彼女が、善行と会っていた時に市井の少女の振る舞いをしていたのは、 いわゆる間諜(スパイ)への対策もあったのだが、舞自身は、単にその状 況を楽しんでいるフシもあった。

──もっとも、鈍感な恋人に対する多少の含みも、「無きにしも非ず」 だったのだが。

「…お陰で私の任務も、無事に終わりましたし、明日の朝一番で、関東に 戻ります。今日は完全なオフだったので、ワガママついでに彼女を誘って しまいました。すみません」
改めて深々と頭を下げる善行に、ふたりは小さく肩を竦めた。
ヘイゼルの瞳と青いそれが、ようやく何のわだかまりもなしに、互いを見 詰め合う余裕が出てきたようである。
「……私に気取られないように、相当気力を消耗したのではないか?」
瞳を細めながら、舞が来須に重箱を差し出してきた。
「今日は、沢山作ってきたのだ。倒れる前にそなたも食べるがいい」
「……その提案、受けよう」
久しぶりに見る恋人の笑顔に、来須は帽子の奥で僅かに瞳孔を開いた。
照れ臭そうに受け取ると、突如せり上がってきた食欲に導かれるまま、 舞の手弁当を攻略し始める。
そのまま暫くの間、平穏な昼食が繰り広げられていたが、

「……何だか喉が渇きましたね」
それまで茫洋と空を見上げていた善行が、不意にぽつりと呟いた。
「舞さん。ちょっと遠くて申し訳ないのですが、あそこの売店までコーヒ ーを買ってきて頂けませんか?」
「…私が?」
突然の申し出に、舞は軽く目を見開く。
「ええ。ついでに、あなたや彼の分も、何か好きなものを買って下さい」
「判った。任せるがいい」
「ゆっくりでいいですよ」
舞は、善行から金を受け取ると、軽やかな身のこなしで、芝生から売店へ 続く道を歩き始めた。
舞のいなくなった芝生の上では、ふたりの男がどちらともなく視線を交 わし合う。

「…彼女の名誉の為にも、申し上げておきますけど」

未だ僅かな疑惑を称えた来須の瞳の色に、善行はゆっくりと口を開く。
「あの日、私は彼女と、滞在先のホテルのレストランで食事をしました。 雨足が強くて、移動中コートを貸していましたから、その時に私のコロン が付いてしまったのでしょうね」
「……」
淡々とした説明に、来須は黙って帽子を被り直した。
「それにしても…久々に会う彼女は、以前よりも更に美しくなっていま した。人としてよりも、女性として。…少し悔しいですが、あなたの影 響でしょうね」
眼鏡の位置を確かめながら、善行は来須に向き直ると、僅かに唇の端を 歪めた。

善行はかつて、舞の婚約者候補にあげられていた事がある。
関東にいた彼は、彼女についてなにも知らないまま、周囲の思惑だけで 未来の伴侶への可能性的存在として、祭り上げられていたのだ。
『あの一族』に属するものとしての運命のいたずらだ、と半ば諦めてい たふしもあったが、熊本入りが決まった後で初めて舞に会った瞬間、彼 の中である変化が訪れた。

『今からでも、まだ間に合うぞ』

全てを投げ出しかけていた善行に、力強く言い放った姫君の正体は、一 族からも脅威の対象とされている変異体(イレギュラー)であった。
政敵だけでなく、その一族からもある種狙われている存在だというのに、 己の立たされた境遇に臆する事無く、信じた道を突き進む舞に、不覚に も善行は強く惹かれていったのである。

そんな舞の影響か、その後、関東への帰還を決意した善行は、その旨を 真っ先に舞に告げた。
そして。
自分の言葉に「そうか」と優しく微笑んだ彼女に向かって、善行は一世 一代の告白をしたのである。

「……私と一緒に、関東へ行ってくれませんか?」

───判ってはいたものの、当然舞からの返事はNOであった。
それでも、善行は自分の頭で考え、そして自分の意志で行動を起こした 事に、とても満足をしていたのだ。

「……彼女があなたという恋人を得た、と聞いた時には、正直どうして くれようかと思いましたよ」
冗談とも本気ともつかぬ口調で、善行は少しだけ来須に顔を近づける。
「彼女を愛しているのなら、しっかりと掴まえておきなさい。いくら強 いとはいえ、ひとりの非力な少女に変わりはないのですから」
「……」
「それと、くれぐれも油断はしないように。彼女の事を諦めきれない男 は、複数存在するのですよ。…私も含めてね」
よっ、と軽く反動を付けると、善行は芝生から立ち上がる。
「今回は引き下がりますが…もし、あなたが彼女を哀しませる様な事を した時には、今度こそ関東につれて帰ります。覚悟しておいて下さい」
「──負け惜しみだな」
「何とでも。私は諦めが悪くなったんです…彼女のお陰でね」
「舞は、誰にも渡さん」
不敵に笑う善行に、来須もまた笑みを返す。
改めて視線を交わす男たちの前に、飲み物を抱えた舞が戻ってくる。
「…ふたりで、何の話をしていたのだ?」
「──秘密だ」
「これは男同士の会話ですので、女性はご遠慮下さい」
状況が判らず小首を傾げる舞に、善行たちはクスクスと笑いながら 返事を返した。


善行と別れた舞と来須は、互いに無言のまま家路を目指していた。
出掛けよりも軽くなったバッグを手に歩き続ける舞の背中に、来須は足 を止めると呼びかけた。
「この数日の事は、本当にすまなかった」
「…もうよい。済んだ事だ」
律儀な恋人の謝罪に、舞は苦笑しながら首を振る。
「……怒っていないのか」
僅かに感情の込められた来須の言葉に、舞は振り返ると彼の目の前に 立つ。
自分よりも頭ひとつ分高い恋人の顔を見つめると、ややあって口を開 いた。
「…確かに、『腹が立たない』と言ったらウソになる。時に、無神経な そなたの言動に、心を掻き乱される事もある」
「舞…」

「──だが、仕方ないであろう… 私は、そなたに惚れ抜いてしまったのだから」

あまりにもさらりと続けられた舞の告白に、来須は一瞬反応が遅れた。
「……もう一度、言ってくれ」
照れ隠しに、背を向けてしまった恋人に、何処か慌てたように言葉を投 げる。
「芝村に、二言はない」
「俺は、もう一度聞きたい」
上ずった声で、そっぽを向く舞に、来須は再度懇願する。
「……そなた。いつも『沈黙する事が大切だ』と、言っていたのではな かったのか?そ、それに…こういう事は、口に出さずとも……!」
「──舞」
芝村らしからぬ態度で、わめいていた舞の言葉は、来須に背後から抱き すくめられた瞬間、途切れた。
「頼むから、言ってくれ……」
「来須…」
耳元に囁きかけられた低音に、舞はびくりと身体を震わせる。
己の身体を包み込む腕をそっと外すと、舞は再び身体の向きを変えた。
切なそうに自分を見下ろす蒼い瞳に、自然と鼓動が速くなる。
舞は、意を決したように顔を上げると、
「……ti amo……」
「…」
「お願いだから、今日の所はこれで許して欲しい…」
「……意地悪だな」
「──どっちが」
それでも、彼の故郷の言語で告げられた舞の科白は、彼の鼓膜と心臓 を、充分すぎる程揺さぶり続ける。
日も傾き、辺りを夕闇が取り巻く中。
愛の言葉を紡いだ唇を確かめたくて、来須は幾度も舞に口付けを繰り 返していた。


「───つまんない」
月曜日の1組の教室は、通称「ぽややんな美少年」の早朝一発のぼや きが、空間を満たしていた。
「いいじゃないか。取りあえずあの雰囲気がなくなっただけでも」
「良くないよ、ちっとも」
ぷぅ、と頬を膨らませながら、速水は自分の後ろの席を振り返る。
そこには、土曜日までの険悪な関係は何処へやら、舞と来須のふたりが、 向かい合わせで談笑している姿があった。
「今度こそ、ギクシャクしている隙をついて、舞をゲットしようと思 ってたのに…あれじゃ、前よりも絆が強くなっちゃってるみたいじ ゃないか」
「こないだも、来須に『お前の入る隙間はない』って、追っ払われたばかり だろ?そろそろスッパリ男らしく、諦める事も肝心だぞ」
宥めるように呟く瀬戸口に、速水は唇を尖らせる。
暫くの間、来須の言葉に嬉しそうに微笑む舞の横顔を、苦笑しながら 見つめていたが、

「──いいもん。仮にこれから先、あのふたりが結婚したとしても、ま だ『愛人』の座が残ってるから」

妙に明るい声でそう言うと、速水は席を立って教室の外へ出た。
残された瀬戸口は、首だけ巡らせて、恋人たちを面白そうに眺める。


「……ま、恋の長続きには、多少の刺激も必要……ってね」
「──まあ、随分と偉そうだ事」
「…あ!?」
誰にでもなく呟いた瀬戸口だったが、間髪入れずに、澄んではいるが、 棘だらけの声と共に目の前に現れた袴姿の少女に、自称「愛の伝道 師」は、臆面もなく狼狽した。


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